てらこや余間

世田谷区北沢の小さなてらこやです。 学びの視野を広げること、学習方法への意識付けに重き…

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世田谷区北沢の小さなてらこやです。 学びの視野を広げること、学習方法への意識付けに重きを置き、個別指導や小人数レッスンを通じてやわらかく丹念な指導を心がけています。 https://sites.google.com/studio-yokan.com/terakoya-yokan

最近の記事

図形について:いつからはじめるか?

こんにちは。てらこや余間の代表です。 今日は数学の中でも多くの生徒を悩ませる「図形問題」について。 恐らく、数学の中でも最も「できる/できない」の差が分かれ、「センス」で片付けられてしまうのが「図形問題」ではないでしょうか? 実際、「センス」といってしまっても言い過ぎではない部分があるのは事実で、例えば定番である立方体の切断問題などは、ある子にとっては頭の中で3Dのイメージを浮かべて造作もなく処理できるものが、ある子にとってイメージできるのは立体の形すらとってない…などと

    • 骨太の一手:全ての線分図を正しい比で描く

      こんにちは。てらこや余間の代表です。 今日は線分図についてのお話です。早くも暑い日が続いていますが、ある男の子(Oくん)がひと夏を通して、線分図と格闘した姿を思い出しながら書こうと思います。 算数や数学を指導した経験のあるかたでしたら、当然のように線分図を板書して指導したことがあるでしょう。初歩的な算数の世界の数量の関係を一望する上で、線分図は板書の労力のたやすさからも、非常に強力なツールです。線分図を使うことを禁じられたら、一体どうやって教えたらいいか迷うような単元も多数

      • まさかの一手:ぬいぐるみに語ろう!

        こんにちは。てらこや余間の代表です。 今日は「朗読」についてのお話です。古今東西、「朗読」の有意義については語られ尽くされていますが、私も「朗読」については、語りたいことがごまんとあります。いわゆる「国語力」と言われるような力を養う上で、朗読というのは避けては通れないものですし、あの手この手を試しても国語の力が上がらない生徒には、まずもって朗読と要約を進めるのが私の考え方です。 ですが、今日は私が考えた方法でなはく、ある女の子(Fさん)が実践していた驚きの朗読方法についてご

        • あえての一手:「なぐり書きの練習」

          書は人なりと言いますが、字を書くという行為一つとってみても、様相は千違万別です。大人になっても文字の癖は直らないもので、子供の筆記にいたってはその子の言動以上に本人を表すといっても過言ではないでしょう。 さて、子供の性別と字の上手さについては、ご想像の通り、圧倒的に女児に軍配があがり、男児は土俵にも上がれないと言いたくなるくらいの字を書く子が大勢います。そうした男児への接し方や理解については後に説明するとして、字のキレイな女児についてはメリットしかないのでしょうか?(性別に

        図形について:いつからはじめるか?

          こどもと具体

          研究者の方々なら、このテーマだけで分厚い一冊が書けるかもしれない——そう思えるくらい、小さな子どもの指導を通して強く感じることがあります。 子どもは一にも二にも具体的な存在であることを肝に銘じて指導なくてはいけない。 この子どもというのは、特に低学年以前を念頭にして書きます。四年生は塾が受験推奨年齢とする年次重なりますが、これは講義形式の理論を教える授業が、それ以前の学年には効果が薄いことを彼らは知っているからではないでしょうか。 まず、この「具体」が何を指すかというと

          こどもと具体

          「他人」だから教えられること。

          子供にモノを教えるうえで必要な条件は何でしょうか? 学力、経験、体力、声質、服装、忍耐、環境…数えあげればキリがありませんが、「他人であること」という条件の必要はもっと強調されていいかもしれません。 もちろん子供の勉強について、はじめに引き受けるのは親です。勉強を始めるずっと以前の段階で、育児の中での何気ないやりとりが学ぶことへの了解を作る。これは親にしかできないことです。それが、ある時期(早い子は小学生低学年くらいから)になると、どうも「親であるが故に教えられない」とい

          「他人」だから教えられること。

          子どもの「学び」について書くことについて。

          「てらこや余間」の代表です。 これまで長い年月を通じて、私が塾で見聞してきたささやかな体験から、少しでも生徒や保護者のためになることがあればと思い、拙い筆を執ることにしました。 何らかしらの「学び」についての記事をこれから定期的に書いていこうと思いますが、そもそもの話から書き始めることにしたのは、学ぶということについての「見立て」こそが、既に「学び」の質を決めているのだ…いうことを長らく痛感してきたからです。 ある子が長時間、塾の自習室に来ている。何か勉強はやっているらし

          子どもの「学び」について書くことについて。