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「他人」だから教えられること。

子供にモノを教えるうえで必要な条件は何でしょうか?

学力、経験、体力、声質、服装、忍耐、環境…数えあげればキリがありませんが、「他人であること」という条件の必要はもっと強調されていいかもしれません。

もちろん子供の勉強について、はじめに引き受けるのは親です。勉強を始めるずっと以前の段階で、育児の中での何気ないやりとりが学ぶことへの了解を作る。これは親にしかできないことです。それが、ある時期(早い子は小学生低学年くらいから)になると、どうも「親であるが故に教えられない」という段階になることがあるようです。

勉強を見てあげている時にどこか滞る反応が続くと、親御さんの中には「自分がしっかりしていないから」とか「自分の教え方が悪いから」などと、自責の念に駆られることがあるかもしれません。あるいは、「もっと厳しくしなくちゃ」と思うかもしれませんが、抑えつけるようにやらせるのではいつかしっぺ返しが来るかもしれませんし、子供は自分自身の経験から、世界観をこしらえていくので、下手をすると先々の勉強にネガティブなイメージがついてしまいます。

こうした「親であるが故に教えられない」状態に子供がなったとき、無理に過大な労力を費やして親が教えるよりも、そこにささやかな「他者」の存在を一枚、柔らかくはさみこむことで、すっと勉強の取り組みが円滑になることがあるのです。このこと、頭の片隅に置いておいてくださると良いかと思います。

子どものそうした反応が出てくるとき、彼らは親に求める関係に変化を望んでいます。あるいは、家庭とは別のところ、擬似的な社会のようなところで、承認を得たがっている。そうした心の動きに「他人」として応えること。その際の「他人」というのは、ときにある種の「よそよそしさ」を持ったものでなければなりません。いわゆる「子供好き」の先生が、子供をきちんと叱ることができずに学級崩壊してしまうことがありますが、これは「他人」としての振る舞いに失敗したからだと思われます。

この「他人」であることの要件については「叱ること/怒ること」という指導にも関係がありますから、それはまたいずれ。

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