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子どもの「学び」について書くことについて。

「てらこや余間」の代表です。
これまで長い年月を通じて、私が塾で見聞してきたささやかな体験から、少しでも生徒や保護者のためになることがあればと思い、拙い筆を執ることにしました。

何らかしらの「学び」についての記事をこれから定期的に書いていこうと思いますが、そもそもの話から書き始めることにしたのは、学ぶということについての「見立て」こそが、既に「学び」の質を決めているのだ…いうことを長らく痛感してきたからです。

ある子が長時間、塾の自習室に来ている。何か勉強はやっているらしい。ところが、いざテストの点数が出てみると、全く身になっていない…こんなことが実によくあります。(反対に、一見するとボーっと空を見ているような子が、素晴らしい想像力、思考力を持っていることも)
傍で見ていて、どれほど熱心に取り組んでいるように見えても、勉強をはじめたのに結果の出ない生徒は多かれ少なかれ「空回り」しているのでしょう。こうした場合、もちろん本人は一生懸命取り組んでいますから怒るのはもってのほかで、「他者」である親や先生がそれとなく指摘してあげることが必要です。人間の学びというのは、複雑に絡み合った事象なのですから。

したがって、「教える側も教わる側も」安易に学びについて一般化することは避けなければなりません。「これで一発解決!」とか「この方法で偏差値20アップ!」などという宣伝文句については、下手に踊らせることなく、あくまで宣伝文句ということを承知して、内容を検討しなくてはいけません。

面白くもない煮え切らないことばかり書き連ねるようで恐縮ですが、私から敢えて一つだけ絞って大切なことを述べるなら、「細部に目を凝らす習慣をつけておくこと」が肝要であると答えたいと思います。

全てのことに対してとまではいかないにせよ、興味をもったものについては、じっくりと向き合う経験を、幼少期に持つことです。
打ち込んでいるものはスポーツでも、ダンスでも、漫画でも、ゲームでも、何でも良い。何であれ、そのような習慣を持っている子は、今風の言葉でいえば「解像度」が高い。そして、その「解像度」の高さを勉強に転じることで、その子は相応の結果を残すことになるでしょう。

こうした考えを以て書いていこうと思うので、過去の指導についても、常にある程度の肉付けをして、具体性を持たせて書いていきたいと思います。そして、その際にはどうしても〈ある子〉についての書き込みをする必要性が出てくるわけですが、プライバシーの観点から当事者を判断できないように脚色をして書くことがあります。

以上のことをふまえて、適宜読んでいただけたら幸いです。

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