見出し画像

安楽死「滑りやすい坂」と自己決定

安楽死を2002年、世界で最初に合法化したオランダで、「生きるのに疲れた」といった、健康上の問題はない高齢者にまで安楽死の適用範囲を広げようとする政府の提案が議論になっているという。さすがに、医師会からも強い反対意見が出ているようだが、この問題を巡る「滑りやすい坂」についてあらためて考えさせられる。

滑りやすい坂とは、一度そこに足を踏み入れて滑ってしまうと、どこまでも止まらなくなる危険性を指す言葉だ。オランダやベルギーといった「安楽死先進国」での法の適用範囲は当初、治療方法がなく、「耐えがたく絶望的な苦痛」がある患者が、自ら意思を明確にして安楽死を要望することを前提に、複数の医師が可否を判断することになっていた。だが、認知症患者が症状が悪化する前に明確な希望を書面で残している場合や、18歳未満の子どもにまで、適用範囲はすでに広がってきている。その「滑る先」に、今回の提案がある。

自己決定は万能か?
オランダで2016年の一年間に安楽死や自殺介助によって亡くなった人は6091人(死者全体に占める割合は約4%。単純に日本に当てはめると、年間約5万5千人もが安楽死した計算になる)。がん患者が全体のほぼ7割を占めているものの、認知症の人が約2%、精神疾患者が約1%いた。

安楽死を認める背景には、「自己決定」を尊重する思想がある。今回のオランダ政府の提案も、自己決定権を主張する団体などからの適用拡大を求める声に応じてだったという。だが、そもそも自己決定は万能なのだろうか。

環境に縛られる自由意思
自己決定は、自由意思によってものごとを考え、自身の判断に従って行動を決め、責任も自身で負うということだろう。だが、よほどの天才を除けばそもそも私たちは環境に依存する範囲内でしか物事を考えることができない。たとえば、携帯もインターネットもない時代に、外出中の人に連絡を取ることはとても難しかった。いまならSNSや電話で連絡すればいいと簡単に選択し行動するが、そもそもの手段がなければそんな発想自体ありえなかったし、「まあ仕方がない。会社に戻るまで待つか」と連絡を諦める「自己決定」をするのがオチだった。これはなにも技術的条件の制約に限らない。

たとえば、神の存在など宗教的価値観を当然のものと受け入れていた中世ヨーロッパに生きた人と、科学万能価値観がまだ影響力の強い現代社会に生きる人が、「自由意思」で判断するさいの基盤は全く異なる。意識するしない以前の思考の枠組み、基盤が自己決定にタガをはめる。

「空気」による無言の圧力
そこまで大上段に振りかぶらずとも、いわゆる「空気」が思考に及ぼす影響は否定できない。なんとなく周囲の意思や雰囲気を感じ、「迷惑をかけたくない」「みんなはこうする」といったことを、特に私たち日本人はごく自然に、無意識のうちに行い、「自己決定」に反映させている。自己決定は社会のありように大きく影響を受ける。

たとえば、経済発展に最大の価値が置かれ、「役に立たない」高齢者や障がいがある人たちは「社会のお荷物でしかない」という考え方がもしも広がるとしたらどうだろう。「姥捨て山」の思想だ。そうなれば、今回の安楽死適用範囲拡大の文脈でいえば、「安楽死を選ばないこと」には無言のプレッシャーがかかりかねない。肩身の狭い思いをさせることになってしまいかねない。空気が、「なんとなく」明示的ではないある方向性を指し示す中での「自己決定」とは、周囲の人間が罪の意識を感じないで済むようにするための、美しさを整えるための便利な言葉、儀礼的な欺瞞となりかねない。

生きて! と呼びかけられる社会こそ
歳をとっても、障がいがあっても、男でも女でも、肌の色が異なっても、生きるための多様な選択肢がある社会。様々な価値観の共存があり、それを担保する仕組みがある社会。私はそうした考えを大切にしたいと思うし、必要だと思っている。たとえば認知症になっても、経済力や家族によるサポートの有無にかかわらず、社会の支えによって最期まで生を全うできる環境があるような社会をつくることのほうが、「生きて!」と堂々と呼びかけることができる社会のほうが、安楽死の適用拡大を急ぐ社会よりも望ましいと思う。

死以外のあらゆる選択肢があることを前提にしなければ、「どんな人でも寿命が尽きるまで生きていていいんですよ」という強烈なメッセージが根底になければ、安楽死は「合理的な自己判断」の名のもとに、社会から「ある人たち」を排除する手段となりかねない。「滑った」先は、ナチス的な選別が無言の圧力の中でなされる社会になってしまう危険性があるのではないかと危惧している。

#安楽死 #自己決定 #終活 #死 #エンディング #価値観 #社会

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?