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疾患があっても医療や介護を支えとして症状を緩和し、人生を前向きに歩いて行く力が「健康」

「健康」の概念について興味深い論考を拝見した。『安楽死・尊厳死の現在』(松田純著、中公新書)。健康概念以外にも様々な気づきがある本なのだが、自分自身が最近、健康についてぼんやりと考えていたことがまさに字になっていた。そもそも人は関係性の中で生きる存在であり、自己決定が万能という考え方に私は以前から違和感を感じ、反対を表明していた。それが健康概念とのからみで肚落ちしたのが今回の論考だ。

WHO憲章は健康を「身体的・心理的・社会的に完全に良い状態」と定義している。「社会的」が入っている点にはとても意義があると思う定義だが、「完全に良い状態」が健康だとすれば、不完全な状態、たとえば心身に障害がある人はどうなるのか。高齢社会のいま、医療が向き合うのは慢性疾患や認知症など、完全に治すことができない状態になった人たちだ。定義を盲目的に遵守すれば、こうした人たちは見捨てられかねない。まさに「無益な延命治療」と位置づけられ、「生産性がない」として社会から排除され、究極的には安楽死の対象とする根拠になりかねない。もやもやとした違和感を感じていた。

オランダの医師、マフトルド・ヒューバーらが2011年に提唱したのが健康を静止状態ではなく、疾患などでさまざまな問題を抱えていても、それに対処して乗り越えていく「立ち直り、復元力(レジリアンス)」としてとらえる考え方だそうだ。疾患があっても、さまざまな薬や器具、医療や介護を支えとして症状を緩和し、人生を前向きに歩いて行けること、その力を健康としてとらえているという。

このように「適応力」として動的にとらえられたヒューバーらの健康の概念は、慢性疾患や難病、高齢者のケア、人生の最終段階の医療などのとらえ直しを迫り、医療そのものの観念を変える力がある。(同書より)

まさに! だ。人は一人では生きられない。高齢になれば必ず身体は衰えていく。自律・自立は、他者からの支えがあって初めて成り立つ。緩和ケアや介護がけっして「敗戦処理」なんかではなく、人が人として生きるうえで当たり前の支え合いの一つだと位置付ける。そうした考え方が医療や介護の現場で当たり前のものになれば、人生の最晩年を社会が支えることは当然のことになる。自律のためにこそ、尊厳のためにこそ、支え合うことが必要なのだという考えはコペルニクス的な概念の転換だと感じる。

人間の生体や心は環境のなかで容易に傷つく。しかし、その苦境を乗り越えて行こうとする復元力(レジリアンス)も人間に備わっている。その復元力がどれだけ力を発揮するかは、環境によって大きく左右される。例えば、傷ついた心はさまざまなものによって癒されるが、社会的には、とりわけ支援の環境が大きな力を発揮する (同書より)

社会的支援。つながり。最晩年や高齢期だけでなく、たとえば「ひきこもり」など社会的孤立に対して向き合うためにもヒューバーらの健康概念は力強くもやさしい根拠になるだろう。まさに社会的孤立が最大の病だと感じている今日この頃の私にとって、とても刺激の多い論考なのだ。もう少し勉強して、自分なりの整理をしてみたい。今日は読んだ興奮のまま記している。

#健康 #死 #高齢者 #医療 #介護 #安楽死 #尊厳死 #つながり

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