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コロナ禍で気づく「余白・無駄」の大切さ

新型コロナウイルス感染拡大防止のために自宅にこもり、可能な限りオンラインで対処する日々が続く。意外とオンラインでいろいろなことができることに気づき、しかもそれが効率的だと感じることさえある。だが、それと裏腹に、目的地に最短ルートで行く効率性よりも、途中でルートを外れて寄り道したり、遊んでみたりすることで得られていたものの無上の大切さに気付かされている。「無駄」の中にこそ、予想もしない新たな発見や思いもしない喜びの源泉があるのだ、と。

「他者」の存在こそが自分を自分たらしめる

それは、「他者」という存在にもいえる。ある意味、面倒で非効率的な存在で、時には厄介ごとを持ち込み、悩みや怒りや不幸の源泉になることもある。だから、オンラインで取り澄ました上澄みだけ受け取って、要件だけこなす相手としてみれば、それでなんとかなる。だが、他者と無駄話を含めて対面して話すこと、それで感情の刺激を受けること、肉体を含めた全存在から得られる無数の情報が、考えを深めたり、新たなものの見方を得たりする上でいかに大切であるかを、あらためて痛感している。

合わせ鏡のようなもので、他者を無駄をそぎ落とした要件のみの存在として向き合うとき、自分もまた相手からは毒にも薬にもならない要件のみの存在として受け止められる。他者なしでは自分は自分になれないし、無限の可能性を秘めた自由な存在にはなれない。まさに他者とは自己を自己たらしめる存在であり、喜びの源泉なのだということに気づかされている。

コロナは、命を奪う点が最も厄介なことはいうまでもない。だが、さらに、まさに人を人たらしめている関係性を残酷なまでに断ち切り、「無駄」を消失させていくことにあるのだろう。人間社会の基盤、根幹を崩している。

文化・芸術、スポーツなどへ早急に支援を

ちょっと拡大して考えると、「余白」の大切さといってもよいだろう。無駄の効用。経済合理性だけから考えれば一見、無駄に見える活動にこそ、人を人たらしめているものがある。「他者」の役割を果たしうる。

新型コロナウイルスの感染拡大防止が優先されるなかで、音楽や芸能、スポーツなど遊興・娯楽とみなされた、いわば余白部分が真っ先に「削られ」てしまっている。それが目の前から消えて、あらためてその大切さが身に染みる。そこからどれだけ、エネルギーや生きる力、勇気、感動といった精神の起伏を得ていたか。「他者」がいてこそはじめて成り立つのがこうした活動であり、それが故にまた合わせ鏡として自分を自分たらしめる、人としての生を支えてくれているものとなっている。余白がなければ、人は人でなくなってしまうのではないか。

いまのままでは、「余白」にかかわる人たちの生活は困難を極める。となれば、afterコロナ時代がめでたく到来したとき、一体どれだけの余白が残るのだろうか。「コロナとなんとか共存することができた。万歳!」と叫んで、周囲を見まわした時、私たちは死屍累々たる荒涼の地、文化の大半が喪失して余白を失った社会に茫然とすることになりはしないか。

コロナ禍で、ドイツはいちはやく文化活動や芸術家への手厚い支援を表明している。「アーティストは(社会にとって)不可欠であるだけでなく、とりわけ今は、生きるために欠かせない存在だ」と大臣が自分の言葉で語って。国民全体への生活支援はもちろん必要だ(フリーランスの私も仕事が激減しているからそれは干天の慈雨として受け止める)が、それとは別に「余白」を可能な限り維持できるよう、音楽や芸術、芸能、スポーツといったものに対して別途、特別な支援をしていく必要があると強く思う。それは人が人として生きていくうえで必要不可欠な、しかも緊急にしなければならない施策なのだと考える。

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