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「小さな共有」と「大きな共有」 社会の根本が壊れつつあるのでは

新型コロナウイルスと社会に関して、7月5日、哲学者・内山節さんの講演をうかがった。概略をまとめつつ、感じたことを記す。

参列者のいない葬儀

コロナ禍における葬儀の風景からお話は始まった。感染拡大防止の観点から参列者がほとんどいない葬儀が広がっている。葬儀は亡くなった人のためのものであり、他者によってその死が確認されることで初めて人の死は死として成立する。その葬儀が行われなかったり、人がいなかったりする現実。そのことを、内山先生は社会のありようが根本的に否定されている、社会が壊れつつあると解釈する。ちなみにコロナ禍での葬儀については、私も以前少し書いている。

上下からのファシズム

社会は「小さな共有」の繰り返し、積み重ねによって成り立つ。小さな共有とは、身近な人々の結婚や入学祝など様々なお祝い事や、葬儀のような儀礼などを指す。仲間になるとは、とりもなおさず価値観や感情など共有するものを広げていくことだ。だが、人が集うことが前提される小さな共有が、コロナによって否定された。葬儀はその一例だ。

その一方で「大きな共有」が強制されていることに対し、内山先生は強い危機感を表明する。大きな共有とは、いまなら「自粛」や「ステイホーム」といった、法にもよらない社会からの有形無形の強制圧力を指す。小さな共有が積み重なっている社会は健全だが、大きな共有が強制される社会は怖い。歴史的にみれば一番大きな共有とは即ちファシズム(全体主義)だ。

「自粛警察」のような動きをみていると、権力の側から「自粛」が強要されるだけでなく、下からそれを共有・強制する動きがあると感じられるという。上下からの圧力によって一つの統制社会が形成されている。

様々な価値観が不調和のまま存在するのが健全

ここで内山先生は「アメリカのデモクラシー」を著したフランス人、トクヴィルを引き合いに出した。トクヴィルは、様々な価値観が不調和のまま存在している状態が健全な社会だと考えた(トクヴィルは「価値観」ではなく「精神の習慣」と表現)。つまり小さな集団ごとにつくりだされた価値観を無理に統合しようとするのではなく、あるものはあるものとして存在を許容する社会が望ましい、と。

そのうえで内山先生は、一人の人間は当然ながら様々な小さな集団に属している事実を指摘。会社で仕事をしている時には、その仕事における価値観(たとえば効率性重視など)を身にまとっている。別の場ではその場での価値観を有して活動している。会社のような持続的な集団ばかりでなく、葬儀や結婚式のような場面場面での一時的な集団においても同様だ。それが矛盾なく身体化していることが健全な状態であり、同じことが社会に対してもいえるのではないかという(下記文書は様々な関係性の中にいる自分という観点で関連しているように思う拙文)。

立ち止まって問う

概略、このようなお話しだった。多くの点で頷いた。同時に、だからどうすればこの嫌な雰囲気、流れに対抗できるのかという思いも募った。質疑の時間にそんな質問も出て「立ち止まって問うこと」を一つの方法として先生はあげていた。「これは本当なのか?」「なぜ必要なのか?」…。

私はまず認識することだと思う。上からと下からの強制があるということを認識し、それをファシズムと名付けることによって、その存在を可視化することがまず一歩だと感じた。正体不明のお化けでは対処しようもないが、名付けることによって客観視し、向き合うことが初めて可能になる。あとは、小さな共有の場を積み重ねていくことしかないのかもしれない。小さな共有を失っているから一層不安にかられ、寄る辺となる物語を共有したいと思った時、現状では一足飛びに「大きな共有」にしか物語を見いだせない人が多いからこそ、下からの強制につながっていると思うからだ。そういう意味では企業でも価値観の共有ができない非正規雇用労働者や、居場所を失った高齢者など、大きな共有に頼らざるをえなくなりがちな人たちに対する、現実的な関係性構築のアプローチも必要なのだと再認識した。

小さな共有をといいつつも、「死」という人間にとって最も大きなことがらをきっかけに場を構築する葬儀という場が消えつつある現状の中では、いささか絶望的な気分にもなるのだが、コロナによって私たちもいつ「死」に直面するかわからなくなったいまだからこそ、本来的には深い共感をもって他者の死を共有できるようになるのではないか、という思いも一方にはある。考えさせられるお話しだった。

関係するから存在する

最後におまけ的な文章を。
質疑の中で「葬儀は死者のためのものなのか? 生きている人間のためのもの?」という質問に対する内山先生の回答が、私的にはとても沁みたので記しておきたい。先生は「死者のためのもの」と断言する。なぜなら、「関係を結んだから魂があるのだから」。西欧的な考え方では、魂があるかないかが先に立つ。有無の絶対性とでもいえようか。状況の変化であったりなかったりするのではなく、普遍的にあるのか、もしくは絶対的にないのかという考え方だ。だが、日本人の考え方はそうではなく、自分が関係を結んだ人の魂はあると考える。「おばあちゃんがそばにいてくれる」という言い方が端的にそれを表す。「関係を結ぶから存在する」とは、たとえばある人から見ればある犬は「飼っている犬」、別の人には「怖い犬」、さらに別の人には「かわいい犬」と認識される。その関係性だけ犬の存在はある。関係性がないかぎり、そもそもそこには犬は存在しない。そうした意味において魂は「ある」。だから、見送ってあげることが必要なのだという。その「送ったという物語」を集まった人たちで共有するのだ、と。深く共感した。

#コロナ #関係性 #葬儀 #死 #多様性 #価値観 #ファシズム #自粛

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