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さよなら、フィルム

Good bye, film  #1

のっけから身も蓋もないことを言うのだが、もうそれほど写真には関心がない。
いや、もう少し正確に言うと、自己表現の手段としての写真に興味が失せたのだ。
2021年の今日、写真の在り方は、すでにそんなところには無いような気がしてならない。写真というものが、個人の手からどんどん離れていくのを感じる。

世界は、確実に「非物質化」の方向へと進んでいる。
そんな流れの一環であるのか、最近、フィルムという実態のある物質への違和感が、どうにも抑えられなくなってきた。
僕は、銀塩写真を偏愛していて、デジタルカメラはあくまで便宜的にしか使ってこなかった。ずっと、フィルムカメラで写真を撮ることに情熱を傾けてきたので、こんなことを思うようになるとは予想もしていなかったのだが、文字通り、日に日にフィルムが色褪せてゆくのを感じるのだ。


ルイジ・ギッリは、写真家は「光への感性」を獲得する必要があると言ったが、もし、僕に「光への感性」があるとするなら、僕は、今、現実として見ている光が、かつてのものとは変わっていることを敏感に感じているのだと言いたい。
自分が変わったのか、世界が変わったのか。おそらくはその両方なのだろう。

現実という幻を、より甘美で幻想的なイメージにつくり替え、物質として定着させる銀塩の世界は、美しく、懐かしく、そして重い。
あの粒状の世界は、とうに過ぎ去ったノスタルジーであり、今、僕はもっと乾いた視線で現実を見ている。それは、水を潜すことのないデジタルの明快さ、0と1とで出来た実態のない画像に、より近いものがある。
今、僕が目という感覚器官を通して感じている光は、フィルムや印画紙に落ち着くような種類のものではないのだ。


もうひとつ、実際問題として、フィルム写真を「表現手段」とすることの賞味期限が切れつつあるということもある。
これだけフィルムが希少、かつ高価になってしまっては、やはりシャッターを切ることに過度に意識的になってしまうが、失敗を恐れながらの慎重な撮影行為には、偶然性や、無意識やインスピレーションが侵入する余地はなく、また、視覚のフットワークがものをいう写真の本質とも相反することになる。
さらに、紙のプリントではなく、液晶ディスプレイという透過する光を通して写真を見ることがここまで主流になれば、あのフィルムならではの粒子の生み出す表現が、効果的な手法であるとは言いがたい。
デジタルフォトにくらべて、多大な手間と時間を必要とするフィルム写真は、手軽な表現手段ではなくなり、もはや高級な玩具であることを認めざるを得ない。

いまさら、と言われるだろうが、どうやら、フィルムを手放す時が近い。
フィルムという物質から開放された写真は、この先いよいよ、個人の域を超えたイメージ言語として、さらなる拡がりをもってゆくことだろう。

さりとて、フィルムへの愛着が完全になくなったわけではない。
そればかりか、僕の中ではフィルム=写真、といっても過言ではないのだ。
「さよなら、フィルム」と題したこの連載は、写真をめぐる未消化のものをアウトプットすること、過去に撮影したものや、写真や被写体にまつわる思考と、その移り変わりを言語化する目的ではじめた。
物質中心世界への郷愁を込めた、いわば卒業制作のようなものである。

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