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ベタ焼き

Good bye, FILM    # 2 

前回書いたようなわけで、過去にネガフィルムで撮った写真を見返していたのだが、そんな中で改めて感じたコンタクトプリントの魅力について。

タイトルのサムネイルに使った画像は、写真の勉強をはじめて間もない頃の、写真教室の暗室に通い詰めてひたすらモノクロを焼いていた頃のものだ。
現像したフィルムからベタ焼きと呼ばれるコンタクトプリントをとるのは、結構面倒な作業なのだけど、同時にとてもワクワクする作業でもあった。どれをプリントしようかと想像を膨らませながら見るのも楽しいのだが、艶やかな深い黒に縁取られて小さなコマが並ぶ8×10の印画紙は、グラフィカルで、映画のようで、眺めているだけでも満足するような物質的魅力がある。

美術館で開催される巨匠の写真展などで、コンタクトプリントを展示してあったりすると、そんなときもついつい長いこと見入ってしまう。
1本のロールを通して視線を追うことで、撮影者の心の動きを手に取るように感じることができるからだ。その時の気分、惹かれたもの、興味の移り変わり、選んだカット、選ばなかったカット。写真家がどのように作品を構築していったのかという創造の裏側、種明かしを見るようで、たいへんに興味深いのである。

でも、写真家自身は、コンタクトプリントを展示するなんて、考えていなかっただろうと思う。
だって、自分のベタはあまり他人に見られたくないものだから。
他人に頭の中を覗かれるようで恥ずかしい。
思考や興味の対象が読み取れるだけではなく、ベタ焼きには、ピントや露出の失敗といった技術レベルの稚拙さも、うまいことフレーミングしようと試行錯誤したあざとい形跡(結局のところ直感的に撮った最初のカットが一番いい)も、何でこれをこんなにたくさん撮ったのか謎すぎるとか、被写体への愛のない剥き出しの視線も、すべて履歴となって記録されているのだから。
1ロールのベタ焼きは、外側に向けてコントロールされた自己イメージではなくて、そのままの自我を露わにする、恐ろしいものでもある。

その点、失敗や不要なカットを抹殺することができるデジタルはスマートだ。
フィルムと比べて、デジタルフォトは、素早く、クリアで質のいい画像を手にすることができて、格段に便利なツールである。撮影後のイメージコントロールにも優れて、容易に、都合の悪いものをなかったことにすることもできる。
しかし、その分、見せたい自己イメージばかりが氾濫しているのも否めない。
小綺麗だけど、どこかで見たことのある上澄みのイメージ。油断すると、そういうものになってしまう危険を、デジタルはより多く孕んでいる。
実は、“外側に向かって見せたい自己” 以外の部分にこそ純粋さや面白みが隠れていて、それが本来の個性や魅力だったりするのではないか。

便利この上ないデジタル技術を使うにあたっては、よりいっそう、
「写真という言語を用いて、自分はいったい何をしようとしているのか」
ということを、自らに問い続ける必要がある。

ベタ焼きは、見るたびに、不思議と良いと思うカットが違う。
時間を経て、自分の感覚が変化してゆくにつれて、常に新たな発見があるのだ。
コントロールしきれない部分を含んだものには、思いもよらない可能性が隠されているのもまた事実なのだ。


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