「こうあるべき」という呪いからの自由
生きるということは、役割を演じるということなのかも知れません。家で、学校で、会社で、他者との間には何らかの名前がついた関係性が生まれます。親と子、先生と生徒、上司と部下…。そして、そこには少なからず「こうあるべき」という振る舞いの規範が存在します。「らしさ」とも言い換えられるかも知れません。
「こうあるべき」は僕たちが社会生活を送る上で、ひとつの道しるべであり、秩序を保つ暗黙のルールであったりします。新しい環境に入った時、僕たちは何はともあれ「こうあるべき」という所作を学び、行動規範として自分に叩き込みます。沢山の人たちと円滑に関係を結ぶには「こうあるべき」を演じて、社会や組織のパーツの一部となることが効率的だと僕たちは知っているからです。
しかし、最近ではそうした価値観が揺らぎつつあります。「こうあるべき」とは多様性を無視した思考停止であり、幸福のためのルールブックになっていないのではないか。他者に寛容になれないのであれば、それはただの同調圧力ではないか。そんな提言があちらこちらで見られるようになりました。
十人十色というように、人の数だけ違いが存在します。しかし、僕たちはいつの間にか、他者や自分自身でさえも「こうあるべき」と照らし合わせ、ただの差異を違和感に誤変換し、正しいかどうかという問題に歪曲させてしまいます。人と人の間で当然生じる「違い」をただの「違い」のままで置いておけず、他者に寛容になれず、「こうあるべき」を押し付け合う呪いに患わされているのです。
『みらいめがね それでは息がつまるので』は評論家・荻上チキさんの『暮しの手帳』での連載をまとめたエッセイ集です。「こうあるべき」という呪いの解き方を、荻上さんの鋭くも優しい視点で捉えた問題提起に、絵本作家のヨシタケシンスケさんの斬新な発想で応えたイラストが本書の見どころ。荻上さんのしなやかな考え方とヨシタケさんの味わいのあるイラストが大好きな僕にとっては、まさに夢のコラボ!
装丁にも工夫があり、カバーに「めがね」というキーワードに繋がるかわいい仕掛けが施されています。電子書籍ではなく、ぜひ手に取って体験していただきたい一冊です。
「こうあるべき」から、生き方の多様性へ
18世紀の民主化を経て、人々は少しずつ自由を手にし、次第にこれまで支配階層に規定されてきた生き方から解放され始めました。19世紀末から20世紀の近代化の流れにおいて、アインシュタインが「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」と語ったように、人々の中で「こうあるべき」が急速に揺らぎ始めたように思います。
こうした見方が早くから立ち上がっていたのが、フェミニズムに代表されるジェンダー論です。近年では女性のみならず、LGBTといった性的マイノリティの権利や存在の承認を巡り、伝統的な「こうあるべき」に「多様性」の光を当てようとしています。
ジェンダー理論家のジュディス・バトラーは「女性は『女性』であることを選ぶことによってのみ、正しく女性になることができる」と述べています。
一見するとギョッとする言説ですが、ジュディスがレズビアンであるという事実を踏まえて読むと、また違った意味が感じ取れるのではないでしょうか。「正しく女性になる」とは、ある種のステレオタイプの女性像、つまり「女性らしさ」を演じるという意味です。ジュディスは女性という概念を、生まれつき「女性である」のではなく、振る舞いとして「女性になる」と定義し、選択的に獲得し得る行動的規範だと解釈したのです。逆に、女性という外形的特徴を持って生まれたとしても、「女性になる」ことを選択するかは本人に与えられた自由であり権利なのです。
本書の「女の子の生き方」の章で、ディズニーが描くヒロイン像の変化に言及されています。シンデレラのように不遇に耐えて王子様を待つお姫様から、アナと雪の女王で描かれる「ありのままの自分」を探す存在へ、女の子のモチーフが時代とともに変化しているという指摘です。
「こうあるべき」は世代にわたり不変のものではありません。ところが「こうあるべき」を説くのは、ほとんどが自分たちよりも上の世代です。僕たちが「こうあるべき」を教えられる時、その時点ですでに今の時代から乖離した規範だったりするのです。
少なくともディズニー作品は、まずは「女の子らしく生きたら幸せになれる」というメッセージを送るのをやめた。そして「人の生き方をわらうな」というメッセージを発信するようになった。
18世紀の民主化、19世紀末からの近代化に端を発した「こうあるべき」への疑問は、20世紀での異なる生き方の模索に繋がりました。そして21世紀の現在、どうやら生き方はひとつのモデルに収斂されない多様な状態が良いのではないかと分かってきたのです。それでも拭えない旧時代からの「こうあるべき」の呪縛、この正体を探ってみましょう。
僕たちはめがねを通して世界を見ている
人は誰しも何かしらの「色めがね」をかけて日々をすごしているいる訳ですが、自分の「見え方」をいい方向に矯正してもらえれば、世界がより「美しく」見えるはずですよね。
ヨシタケさんが本書のあとがきで語り掛ける、世界の捉え方の解釈です。僕たちは同じ世界に生きているようですが、各々が色や度数の異なるめがねを掛けていて、めがねの違いで世界は違って見えるということ。意見がぶつかったり信じるものが違ったりするのは、どちらかが間違っている訳ではなく、単に掛けているめがねの違いなのです。
そして、興味深い指摘が続きます。
でも、この広い世界には、「めがねをとりかえられる」ことを知らない人がいます。「自分がめがねをしている」ことすら知らない人もたくさんいます。
世界の捉え方は選択できるもので、かつ、あらかじめ存在している所与のものではないということです。めがねを取り換えられることを知らない人、自分がめがねをしていることすら知らない人とは、「こうあるべき」に固執する人を端的に表した表現でしょう。
世界の捉え方はその時々で好きなように変えて良いのです。環境に応じて柔軟に考えを変えることは、自分自身の根本を変えることではなく、適切なめがねを使うだけのことです。サングラスは日差しが強い時には役に立ちますが、暗がりの中ではむしろ足手まといですよね。
「こうあるべき」の呪縛は、単に手持ちのめがねの本数が少ないためと考えてはどうでしょうか。僕たちは子どもの頃の教育で、世界がある見え方になるめがねを授けられるのです。しかし、それ以外にも世の中には沢山のめがねがあり、沢山の世界の捉え方がある。そこに気付けるかどうかが、呪縛から逃れられるかに繋がるように思います。
めがねを変えると、「こうあるべき」も変わる
僕たちに必要なことは正しいめがねを探すことではなく、局面に応じて付け替えられるよう沢山のめがねを用意しておくことです。
多様性のパラドックスをご存知でしょうか。「多様性」とは他者の存在を否定せず寛容になること。すると「俺は多様性など認めない」という存在も認めなければならず、結果的に世界は分断に向かうという矛盾です。アメリカのトランプ大統領は保護主義者であり、多様性の文脈と相反する考えの持ち主ですが、多様性を認める世の中だからこそ誕生した存在でもあります。多様性の原則に従い、彼の意思に100%寛容になれば、移民は排斥されアメリカから多様性が失われる結果となります。
このパラドックスは、一種類のめがねしか持っていないために起こる矛盾のように思います。つまり、多様性が否定される局面に対しても「多様性の原則」というめがねに固執した結果もたらされるのです。多様性を主張しながら「こうあるべき」に固執する、何だか皮肉ですが、めがねという抽象化を通すとスムーズに理解できます。
沢山のめがねを用意するとは、そんなに難しいことではありません。たとえば、日本とアメリカで「お母さんが考える良い子の条件」のアンケート結果を比較すると、日本での上位は「規則を守る」「辛抱する」「努力する」が挙げられますが、アメリカのそれは「独立性」「リーダーシップ」「異なる意見への寛容」です。
どちらが正しいというわけではありません。子を思う母という立場は同じでも、「こうあるべき」の中身はこうも移ろいやすく、人の思考や行動を拘束するほど絶対的なものではないということです。子どもの成長局面や性格、環境に応じて、「良い子の条件」など可変させて考えれば良いのです。自分の拠りどころとなる考え方に沢山のバリエーションを持っておく、これが沢山のめがねを用意しておくという意味です。
「こうあるべき」の呪いをかけているのは
本書の中で最も印象深かったのが「呪いの言葉に向き合う」という章です。
自分のことを守るためには、「他人を適切に嫌いになる作法」が必要になると思う。
教室という空間では、「みんなと仲良くしなさい」と言われるが、大人になってから、それは子どもを管理するための方便だと知った。
大人になって分かったことは、世界はひとつにはなれないということです。皆が仲良くなることなどできません。だからこそ、「嫌いな人と上手に距離をとる」ことは生きていく上で欠かせない技術です。
世の中には、自分がその人を嫌いだという事を正当化するため、その人の持つ様々な属性ごと否定する人がいる。「これだから女は」とか「これだから〇〇人は」とか「これだから〇〇出身者は」といった具合に。
人と上手に距離をとる技術がないと、主語を大きくすることで自分の主観に一般性を持たせ、皆がその人を嫌いになってほしいと願ってしまうのです。俯瞰すると、これも「こうあるべき」の押し付けに思えます。自分のめがねを身の回りの人に強引に付けさせようとしているのです。ヘイトスピーチも、先鋭化する活動家も、まさにこの「めがねの押し売り」に陥っています。不寛容とは、嫌いな人がいるからではなく、嫌いな人と上手に距離をとれないことで生まれるのです。
誰かを嫌いになった時は、「その人のことだけ」嫌いになればいい。
「他人にその人を嫌いになってもらおうと求めない」ということも、「嫌いになる作法」のひとつだ。
ところで、僕は冒頭で「生きるとは演じること」と書きました。僕たちは人との関係性の中で必ず役割が生じ、その役割に沿った言動を演じます。「演じる」とは何も自分を偽っている訳ではなく、人との関係の中で無意識に体現している振る舞いです。「こうあるべき」はこのように振る舞わなくてはならないという規範であり、それが過度に人を束縛することを本書では「呪い」と表現します。
何かを褒めるために、何かを嫌いにならなくていい。「自分が嫌いなもの」が好きな人を、無理に嫌いにならなくていい。ちょうどいい嫌い方を探るのは、他人を無駄に呪わないため。
呪いは時として自分に返ってくる。他人を厳しい言葉で否定したら、その言葉は規範となって自分を縛る。
「こうあるべき」は時として、自分で勝手に作り上げてしまっているかも知れないのです。誰かを嫌うために、否定したいがために、「自分は違う」と思いたいがために、自分を束縛してしまうのです。たいていの生きづらさの正体は周囲からの圧力ではなく、自分自身が作り出した呪いです。
最後の章では、これから「こうあるべき」と対峙していく我が子へ、こんな言葉を送っていました。それは、呪いにかかりめがねを見失いがちな大人にとっても、今一度刻んでおきたい強く優しいメッセージです。
世間に邪魔されず、世界を楽しめるという才能を伸ばしてほしい。世間は君を守ってくれない。そんな世間の意見を君が守る必要はないんだから。
どんなに「規格外」だと言われようと、その生活を、陳腐な言葉で自ら否定しないでほしい。どうか、呪いをかけないでほしい。その規格・規範が、自分の中でどれだけ大切なものなのか、見極めてほしい。
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