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①上京するまでの物語

こんにちは
上京して3ヶ月の男 「きょうご」と申します。
現在20歳の専門学生です。
長崎県島原市の出身でバスケットボールを約10年間していました。

今回は初投稿になるので僕の現在に至るまでの経緯を綴ろうと思います。

◇島原で育った男

私が生まれた町は、聳え立つ島原城
近くには普賢岳と有明海があり自然豊かな歴史ある町です。島原と言えば皆さんは島原天草一揆を思い出す方がとても多いです。島原ならではの名産物ろくべえやかんざらしはとても美味しいので皆さんも一度長崎に来たら食べてみてください。

有明海(大三東駅)
かんざらし

こんな街で18年間も過ごせて自分はかなり幸せでした。本当に恵まれていると感じています。
自分には昔、プロバスケットボール選手になる夢がありました。
何故当時なりたかったのかというと私の父がプロ野球選手だったので違う種目でも自分は輝けると周りに証明したかったのが1つ。
もう1つが現在亡くなられたコービーブライアントとデリックローズ、というNBA選手に憧れてバスケットボールを始めました。
現実はすぐに諦めてしまって建築士になる夢を抱きました。正直当時はスポーツに関わる仕事がしたいと思いながらも周りの意見に飲み込まれてしまって建築の道に進むことを決めました。
当時地元の工業高校に誘われたのもあって自分は建築の道に進むことを決意しました。
当時は正直後悔することがありましたが
それでもこの高校に行って良かったと今でも良かったと思っています。特にバスケ部、ここでバスケに対する向き合い方を変えれたこと、人間性を向上させて頂いたこと、キツい練習の日々どれも自分にとっては成長する上で欠かせないものでした。
そして卒業後
自分は建設業界に就職しました。

◇就職した男

私は建設業界に入りました。
業界内では知らない人は居ないと言うほど名前が通る会社です。正直、福利厚生も良く高卒でこの会社
に勤めることが出来るのかと自分でも最初はビックリした事を今でも覚えています。
仕事としては施工管理いわゆる現場監督として働いていました。
研修後は主に広島県で仕事をしていました。
仕事をしていて感じたことが
・人が多くてコミュニケーションをとるのが大変
・自分のことで精一杯
・わからないことが多すぎる
・資料作成時の指摘が多かったこと
です。
私がいた現場では日によって職人さんが300人ほど来る時があり打ち合わせや仕事のすり合わせ、また仕事がしやすい空間に時間を要したのを未だに覚えております。
当時は新人でわからない事が多く調べるか聞くかしなければ仕事が回らないし自分で考えて行動しなければいけないと肌で感じました。これが現場かと正直恐怖心に包まれていました。自分で考え行動するこれは簡単な様でとても難しいです。建築は規制が多く好きなやり方で自由に建設また工程を崩すことが中々出来ません。資料作成も、もっとこうしてくれ!ここはこうだろ!と自分の意見が通らず悔しい思いをした事何回もありました。あの日々は正直メンタルズタボロでした。

その後なんとか頑張って竣工までたどり着きました。
竣工した後、建物を見ると先輩達がこれだから俺らは頑張れるんだとこれがやりがいだと胸を張ってお前も良くやってくれたなと言って頂きました。
確かに達成感はありましたがこれを後40年続けるのかと思ってしまいました。
そして自分が本当に何がしたいかを考えた結果
昔、自分がスポーツに関わる仕事がしたい事を
j1リーグの試合を見て思い出しました。
声は出せない状況でしたが雰囲気で
これだと久しぶりに思えた瞬間でもありました。
この空間を作りたいと本気で当時そして今でも思っています。
それからはあっという間で
専門学校を見つけて
所属していた会社を辞めてすぐに入学手続きをしました。
安定を捨ててでもこの道を選んだことに後悔はないです。これからは不安もキツいも全て成長に変えて前に進んで行こうと思います。
そして4月専門学校に入学しました。

続きは②で投稿します。



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