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宮沢賢治『銀河鉄道の夜』 ~カンパネルラはなぜ死ななければならなかったのか~

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

銀河鉄道の夜

 ジョバンニは現実の世界に帰され、カンパネルラはそのまま命を失う。二人の運命を分ける必要がどこにあるのでしょう。カンパネルラに落ち度があり、罰を受ける話であれば分かりやすいのに…。しかし、カンパネルラは罰どころか、川に落ちたザネリを救おうとして自らの命を投げ出したのです。なぜ、賢治はこのような不条理な死を描いたのでしょう。理解に苦しみます。

 『銀河鉄道の夜』と同型の作品として『ひかりの素足』があり、二つの作品の共通性、対称性は随所で解説されてきました。『ひかりの素足』では、一郎と楢夫の兄弟が雪の中で遭難し、地獄の世界を彷徨います。やがて、白く光る素足で歩く「大きな人」と出会い、兄の一郎は現実の世界で生かされ、弟の楢夫は二度と帰りませんでした。弟の死もまた不条理でしかないでしょう。

 その人は一郎に云ひました。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなほないゝ子供だ。よくあの棘とげの野原で弟を棄すてなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探さがしてほんたうの道を習へ。」その人は一郎の頭を撫なでました。一郎はたゞ手を合せ眼を伏せて立ってゐたのです。それから一郎は空の方で力一杯に歌ってゐるいゝ声の歌を聞きました。その歌の声はだんだん変りすべての景色はぼうっと霧の中のやうに遠くなりました。たゞその霧の向ふに一本の木が白くかゞやいて立ち楢夫がまるで光って立派になって立ちながら何か云ひたさうにかすかにわらってこっちへ一寸手を延ばしたのでした。

ひかりの素足

 最愛の妹、としの死という賢治の体験が根底にあることは言うまでもありません。だとしても、いや、ならばなおさら、二人とも生かす物語を描こうとするはずではないでしょうか。

 この二つの不条理な死を理解するには、賢治の「ほんとうの幸せ」について考えなければなりません。賢治の「ほんとうの幸せ」は、全ての人の幸福の先にあります。この幸福は現世だけにとどまらないのです。過去世、現世、来世のすべての世界において幸福でなければ、「ほんとう」とは言えないと賢治は考えました。もちろん、過去世、現世、来世の三つの世界はつながっていて、過去世の生き方の先に現世があり、現世の生き方によって、来世が決定されます。過去世は変えられないので、現世をどう生きるかこそ、人生の最大の課題であると言えます。
 
 賢治の幸福観は、このように三世すべてにかかわっています。このことは、現世の死に方、すなわちそのひと個人の宿命は、いくら不条理であろうとも受け入れるべきものであるという無常観を表しています。不条理であったとしても、この世で命が失われていくことは避けられないのです。

 カンパネルラはザネリを救って自らの命を失いました。傍から見れば不条理でしかないことは間違いありませんが、カンパネルラの「ほんとうの幸せ」は、現世の死を超越したところにあります。それは作品の中には描かれていません。賢治は、「ほんとうのさいわいって何だろう?」とジョバンニに語らせるだけで、その答えを書きません。ジョバンニの問いは、賢治自身に向けられたものだからです。 

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。

銀河鉄道の夜

 『銀河鉄道の夜』の中には、タイタニック号の沈没で亡くなった、敬虔なクリスチャンと思われる青年と、彼に連れられた姉弟が登場します。キリスト教においても、神は不条理な死に対して沈黙でしか答えてくれません。しかし、沈黙こそ神の壮大な意思の表れであるとも考えられます。賢治の問いかけに、お釈迦様が決して答えてくれないのも同じなのかもしれませんね。

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