見出し画像

【短編小説】「空中散歩」(1/4)

 かつて〝キング・オブ・ポップ〟と称されたマイケル・ジャクソンは、地球に居ながらにして重力に抗い、月面を後退しながら歩くという偉業を成し遂げた。
 ――否。まるで、月面を歩いているかのようなステップムーンウォークで世界中のファンを魅了し、誰もが中継映像でしか見たことのないはずの月面を、その脳裏にありありと想起させた。

 実際に人類史上初めて、「静かの海」と呼ばれている月面を歩いたのは、[1]1969年7月20日、有人の月着陸船イーグル号に搭乗していたアメリカ人宇宙飛行士のニール・アームストロングである。そして、あまり知られてはいないが、人類として最後にその奇跡を果たしたのが、1972年12月、最後のアポロ計画としてアポロ17号に船長として搭乗したユージン・アンドリュー・サーナン。

 以来月は、人類が永遠に立ち入ることができない場所となった。


 「アポロ」と聞いて、樫村かしむらが真っ先に思い浮かべるのは、

 僕らの生まれてくる
 ずっとずっと前にはもう
 アポロ11号は
 月に行ったっていうのに

 と始まる、1999年9月にリリースされたポルノグラフィティのデビューシングル『アポロ』だった。

 と言うのも、高校時代、樫村の一世一代の告白で付き合い始めた、美術部の田代莉佳りか(仮名)の前で、初デートに備え、三日三晩、CDを繰り返し聴いて、布団をかぶり、階下の母親に、うるさい! と怒鳴られながらも、必死に練習したその曲を、満を持して彼女に披露したところ、彼女はその歌声に苦笑いを浮かべながら、う、うん、とうなずいて、パチパチパチと乾いた拍手を送った後、ごめん、ちょっとお手洗い、と言って部屋を出て行ったのだった。
 たった一曲にも関わらず、歌い疲れ、ソファーにぐったりと背中を預けて休んでいた樫村が、しばらくして、彼女が戻ってこないことに気づき、翌日メールで、彼女から、ごめん、やっぱ、なし、とたった一言で別れを告げられたことが、三十歳を過ぎても昨日のことのように思い出され、独り身の彼のことを、ことあるごとに苦しめていた。青春の恥は、かき捨てとはいかないらしい。

 そんな樫村に、月への憧れなどあろうはずがなかった。宇宙空間こそ、人類の庭となりつつあったが、未だ月は、相変わらず人類にとってアンタッチャブルな土地だった。そのため、幸いにも、月蝕げっしょくやスーパームーンなどの現象を除けば、月そのものは、それほどニュース等で取り上げられることはなく、樫村の弁慶の泣き所を、フラッシュバックのようにいたずらに傷つけることはなかった。
 樫村はただ淡々と、自分のささやかな人生を、自分に与えられた小さな枠割を果たしながら、地に足を付けて生きていた。
 
 残業で終電を逃し、運悪くタクシーも捕まえられず、自宅までの二駅分を歩いて帰らざるを得なくなった、ある夜のことだった。 
 大通りの向こう側へ渡るため、明かりのとぼしい歩道橋の階段を、足元を確かめるように背中を丸めながら上っていた時だった。間もなく、最上段に右足を乗せ、そのまま右折して通路へと出ようと思ったのだが、何故か、無意識のうちに運ばれた次の一歩の左足は、目の前に見えるコンクリートの通路の真上に浮き、そのまま体重をかけて左足を踏みしめ、さらに右足を上げて、その先の空中へと踏み出すと、そこには目に見えない階段があるかのように、確かな足場が続いていた。

 樫村は何の気なしに、そこに階段が存在するというていで、一段ずつ階段を上っていった。当然のことながら、元々の通路からは上昇するように遠ざかっていき、見えない階段を十段も上れば、樫村はひとり、夜の空中に浮いていた。高さは、自分の身長をいくらか越えたくらいだった。
 連日の残業で疲れ切り、ぼんやりとしていた樫村の頭は、遅れて今起きている事態をようやく理解した。瞬間、思わず足がすくみ、その場にしゃがみ込んだ。高所恐怖症ではない樫村でも、異常な事態を前に、たまらず、からだが震えだした。樫村は一刻も早く、この高さから下に降りようと、しゃがみ込んだ姿勢から、見えない階段に背中を付けて、尻もちをついた。そして、背中と尻を見えない階段の足場にぴたりと押し付けたまま、両足を一段ずつ下ろしていき、間もなく何とか、元の目に見える階段の位置へと戻ることができた。

 そこで、ほっと一息を吐いたのも束の間、そこもまた、階段であることに代わりはなく、樫村はすぐさま振り向いて、四つんいで通路に手を付き、い上がってコンクリートの安全地帯にからだを投げ出した。あおむけになる。息を弾ませながら空を見上げると、ちょうど三日月が出ていた。月を見たのは久しぶりのような気がした。樫村はおそらく、極度の疲れから幻覚にでも襲われたのだろうと思った。頭を切り替えるように、今起きたことは忘れようと首を振ってから、腹筋を使って上半身を起こし、膝に手をついて立ち上がると、念のため、通路の手すりに手をはわせて歩き、反対の階段を下りる時も、今が現実であることを確かめるように、手すりにからだを預けながら、一段一段を踏みしめた。
 闇にまぎれ、ひとり家路を急ぐ樫村の足は、明らかに浮足立っていた。
                               つづく

#小説 #短編 #マイケル・ジャクソン #ニール・アームストロング #ユージン・アンドリュー・サーナン #ムーンウォーク #月面着陸 #アポロ計画 #ポルノグラフィティ #デート #フラッシュバック #歩道橋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?