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伯母のカセットテープ

私の母は三姉妹の長女で、一番下の妹(私にとって伯母)は独身の頃、時々遊びに連れて行ってくれたりして交流があった。OLだったので会社でもらったお土産をくれたり、たまに手作りのシュークリームやパウンドケーキを作ってはお裾分けをしてくれた。子ども心に嬉しかったのは小さな巾着に入った可愛いりんごの形の石鹸やバラのポプリ、無印良品の色鉛筆。いまだに覚えている。

伯母はうちの隣に祖母と住んでいたので、気軽に部屋へおじゃますることもあった。一人っ子の私にとって姉のように年上の女性の世界を垣間見せてくれる存在だった。
伯母の部屋ではマーガレットやフレンドなどの少女マンガ誌を読ませてもらった。古いコミックスもあり、はいからさんが通る、生徒諸君、陸奥A子の短編集などを読ませてもらった。70年代の漫画で、私が小学生だった80年代当時でも充分レトロ感があって逆に新鮮だった。

伯母のドレッサーにはアトマイザーに入ったブーケ調のコロンやアイプチをはじめとするコスメがあった。それらは憧れの象徴だった。
かなり昔に地元の街にロビンというコスメ中心の雑貨屋があり、そこのキューピッド柄の赤い小さな紙袋は私には大人の入り口だった。伯母の部屋を訪ねてロビンの小さな袋があると、その中にはどんな新しい化粧品があるのか並々ならぬ興味を抱いていた。
使わなくなった香水(Avonのアンティーク電話型のもの、プチテレフォン)をもらったのは印象深く、今でも香りを覚えている。イランイランやローズメインのフローラルノートで当時小学3~4年生の私はずっと大切に持っていた。


そんな伯母からの影響は雑貨やスイーツ、マンガだけにとどまらず、音楽にまで至った。
1984年辺りは音楽を聴くならレコードかカセットテープだった。それ以前の私がもっと幼い時はレコード全盛で、家のステレオで親がレコードをかけてくれて童謡やピンクレディーやピンポンパン、アニメのレコードを聴いていた。
小学校3、4年の頃にレコードからカセットに移行し、私は曾祖父に買ってもらったダビング可能のカセットテーププレーヤーを持っていた。

その頃伯母はレコードとカセット両用のコンポを持っていた。レンタルレコード店から借りてきたものをカセットテープにダビングして部屋や車中(当時、伯母の愛車はパセリという軽自動車だった)で音楽を楽しんでいた。
つまり伯母の部屋に行けばダビング済みのカセットテープがあったのだ。また伯母は、姉である私の母ともカセットの貸し借りをしていたのだろう、私の家に叔母から借りてきたアーティストのカセットが何気なく置いてあることもよくあった。
そんなことから自分のカセットプレーヤーで、伯母経由の音楽を聴くことができたのだ。

とはいっても当時20代の伯母がアイドルを聴くはずもない。小2の私は吉川晃司、大瀧詠一を聴いていた。吉川晃司のファーストアルバム「パラシュートが落ちた夏」、大瀧詠一の名盤「ナイアガラ」を小2なりに味わっていた。
吉川晃司のほうは表題作の「パラシュートが落ちた夏」をはじめ、ヒットした「モニカ」の他、「フライデイナイトレビュー」、「ペパーミントキス」が好きだった。長く愛聴していたので、今だにパラシュートが落ちた夏を聴くと80年代半ばの夏の空気が蘇ってくる。
大瀧詠一は世界観が大人すぎて歌詞の意味が分からないこともあったが、何せあの「君は天然色」収録である。最初はパーカッションのシンコペーションやせわしなく上下するベースラインの斬新さについていけなかったが、“なんかヘンな音楽だなあ”というところから入ってクセになってしまった。アーティストや歌詞や世界観について無知のまま、純粋に音楽の力だけで小2の女の子が英語もテキトーに口ずさんでいた。
小5になるとユーミンや池田聡のテープも借りるようになり、前者は「メトロポリスの片隅で」、後者は「missing」をよく聴いた。
池田聡はその美声とバブル時代に合った世界観に惹かれた。「モノクローム・ヴィーナス」や「何も云わないで」「ディアーナ」「My Jenny」は大好きだったし、アルバム以後の「濡れた髪のロンリー」も好きだった。

繰り返すが私は一人っ子で、母親は山賊のカシラみたいな人だったので(どんな母親だ)、女子的カルチャー面で導いてくれる年上の女性は近所に住む年の近い幼馴染かこの伯母しかいなかった。(※母はCancamやJJ愛読世代で私が参考にするには大人すぎた)
お姉さんマンガやエッセイや小説を読むことも、クロスステッチなる手芸も、わたせせいぞうや柴門ふみのバブリーOL的感性も、太宰治も、若い女性が使うコスメも、こじゃれたケーキ屋も、手作りお菓子も、美容のためにヨーグルトを食べることも、休日にドライブすることも、みんな一番身近な女性である母親からではなくこの伯母から学んだ。


女は適齢期になれば結婚で悩むこともこの伯母を見て知った。好きな人と勢いでデキ婚というタイプではなかっただけに、リアルな女性の苦悩を子どもの私でも感じ取れた。
大人の女性のステキな楽しみを教えてくれた伯母には、王子様みたいな人と幸せになってほしいと思っていた。そんな伯母が、悩んだ末に堅実に現実と折り合いをつけてそれなりの人を選び、地に足の着いた選択をしたのは私にはまだ理解できず寂しかった。大人になった今ならその選択をしたことは(自分にはできないことだが)よくわかる。
まだ時代はぎりぎり昭和だった。

やっと令和になって少しずつ多様性が認められるようになり、ステレオタイプな“女性の幸せ”という概念は廃れてきている。
かつての昭和のしっぽら辺に生きた年頃の女性は、短大くらい出てそこそこの企業に就職し、OLをしながらアフター5も謳歌し、30歳前にはなんとか結婚・出産して主婦になるというのが王道で、そこから外れるとヤバい人間の烙印を押されてしまう。それが世間一般の認識だった。クリスマスケーキにたとえられ、「25日過ぎると売れない=25歳過ぎると女としての価値が下がる」などと誰が言い出したのか知らないが、女性蔑視もいいとこだった。
伯母は就職までは軌道に乗っていたが、結婚というハードルを越えるのにいささか苦心していた記憶がある。
うちの母も当時の適齢期ギリギリで焦りを感じ、2歳下の父を恫喝…ではなく尻を叩いて幸せを(いや、人並みの安心を)手に入れたと聞いたことがある。世間が無責任に設定した“あるべき基準”のせいで余計な苦悩と、時には焦りによる失敗が生まれるんだと思う。ひいては社会の構造にまだまだ問題があるから、そんな同調圧力が生まれるんじゃないだろうか。


伯母は、女としての自意識も芽生えていない子どもの私にジェンダー面で女性というものを一通り教えてくれた。若い女性の文化。音楽、コスメ、ファッション、休日の過ごし方、雑貨、スイーツetc.…。もっとも本人は教えているつもりなんてないので、いわば私にとって無意識の師匠のようなものだ。
そんな伯母も子どもが生まれ、“妻”から“母”になると気ままに音楽を聴く時間すらなくなるようだった。結婚した時と同様の寂しさを私はまた感じた。
時代は平成に入り、カセットテープからCD全盛になった。そういえば平成になる前に嫁いでいった伯母がCDを買っているのを見ないままだった。

当時は年が離れすぎていて"伯母"以外の何でもなかったが、今にして思うとバブル時代という日本の青春の片隅で、狭義的に"理想の女性"を体現している疑似姉のような存在だった。下の子は上の子を見て学習する。


その数十年後。平均的な大人になることに取り残され、気ままに生きる時間を持て余し過ぎた自分がまだここにいる。

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