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「光る君へ」第15回 「おごれる者たち」 自分の居場所、進むべき道はどこにある?

はじめに
 新しい時代の始まり、状況の変化は、人にとって必ずしも前向きになれることとは限りません。寧ろ、その変化に対応できない、取り残される不安や焦りを強く感じる人も多いのではないでしょうか。この記事が公開される4月は新年度ですから、まさにそうした憂鬱に悩まされている方々もいらっしゃることでしょう。

 それは「光る君へ」劇中も同様です。道隆政権に変わり、それに追随する者、反発する者と明暗は分かれていきます。それは緩やかなランディングと思われた道隆政権が周りの想像以上の専横を進めた結果だと言えます。

 結果、我が世の春を謳歌する中関白家ですが、政の根幹を揺るがす遣り口は、その足元は磐石とは言えず、既にその危うさの芽も同時に描かれています。つまり、政の頂点に立つ中関白家すら、時代の流れを見落とし、転落する危険を孕んでいるのです。本作における道隆政権とは、一見、静かで安定したようで、実は不安定かつ流動的な時代とも言えるでしょう。

 一方、そうした時代の流れはおろか、変わっていく周りからも取り残されているのがまひろです。彼女は、苦しい生活の中でも自分の志を見つけようともがいています。ようやく見つけた「民に文字を教える」ということも、庶民の現実が見えておらず、独り善がりなものとして脆く崩れました。結果的に彼女の6年は何も変わっていない。悶々とした思いが積み重ねられるばかりです。
 彼女もまた自分の立ち位置を見失いつつあります。

 そもそも、人はどうやって自分の立ち位置を確保し、進むべき道を見出だしているのでしょうか。そのことが時代の分岐点で改めて問われる、これが第15回で描かれたように思われます。そこで今回は、道隆政権の推移とそれに関わる人々の様子、そして周りの変化に焦るまひろの様子から、人の居場所の行き先を考えてみましょう。


1.周りの反発を招く道隆の執政

(1)政敵の排除

 定子の中宮立后は、公卿の猛反発をうけましたが、道隆は太政官より独立した摂政の権限、一条帝の定子への寵愛の二本で押しきりました。公卿の手の届かない力をもっての遣り口は合法的であっても、慣例を破り、総意を無視した利己的なもので強引の謗りは免れないでしょう。元に実資は「驚奇少なからず」と呆れています。

 しかし、これに飽きたらず、道隆は、990年10月、中宮職の庁舎・職御曹司(しきのみぞうし)へ遷御させます。これも実資の「小右記」にも記録されていますが、職御曹司は内裏の北東にある皇后、皇太后に関する事務所。決して左遷事案というわけではありませんが、帝との物理的に遠ざけることで影響力を削ぐことが遷御の目的だったというのが、「光る君へ」での解釈なのでしょう。
 たしかに詮子は、内裏で一条帝と同居、行幸でも常に同輿(どうよ)していました。それは、母として一条帝を溺愛していたということですが、同時に国母として常に帝の政務や生活を監督していたということにもなると考えたのでしょう。これまでの劇中で、一条帝が定子とじゃれ合うところに現れ、不快そうにするのもそうした干渉の描写というわけですね。

 前回では、一条帝を叱るふりをしながら、定子と共に彼を取り巻き堕落させる貴子と伊周、中関白家の人間を揶揄するように「見苦しや」の捨て台詞を投げつけています。前回noteで触れたように、やはり貴子がこの一件を道隆に伝えたように思われますね。かの夫婦は一心同体ですから。
 ですから、道隆は遠ざける詮子へ「皇太后さまにおかれましては、内裏での長年のご苦労、まことお労りの言葉とてございません」とあからさまな揶揄をかけるのです。言葉こそ慇懃ですが、すれ違いざまに顔も見ず背中越しにかけるのは皇太后に対して無礼というもの。
 上手いこと一条帝から遠ざけられたことを知る詮子もまた「心にもないことを」と揶揄を返します。一杯食わされたとはいえ、毅然と去るあたりに詮子の国母としての自尊心が窺えますが、それを見やる道隆の薄笑いは負け犬に対する蔑みがありますね。権力におごる道隆の性根が見える一瞬として見逃せないところです。


 さて、詮子は、この翌年の991年、円融法皇が崩御したのを機に出家し、皇太后宮職を停め院号宣下を受けることになります。彼女は実家の東三条邸にちなみ東三条院を称し、これが女院号の始まりとなります。これは、道隆の意向が反映されたものですから、またしても道隆は前例を破ったということです。勿論、詮子と道隆の仲が改善されたのではありません。彼女の後見人としての権威を高め、それを背景にして自らの政権を盤石にするためです。つまり、道隆の詮子に対する政治的な対策は、先の遷御も含めて、「敬して遠ざける」ということでしょう。

 ただ、道隆のこの敬遠策は、結局、裏目に出ます。そもそも、天皇が生前譲位し、上皇になると院と呼ばれるのですが、その理論上の権限は日本の律令下では帝と同等です。宇多院による村上帝の政への介入、あるいは円融院も人事などで兼家に意向をねじ込もうとして対立したことなどが例にあげられます。そして、女院はこうした院の権限に準じますから、詮子は権限を得たも同然です。
 流石に院宣を出すことはなかったようですが、彼女の政治介入については実資が「母后朝事を専らにす」…つまり「帝の母が朝廷を牛耳っている」と批判するほどです。道長が、兄たちの死後、実質的な後継者になったことも彼女の力によるところが大きいことも考えれば、道隆の見通しは結果的に甘かったとなります。もっとも、道隆も自分が若くして亡くなることは想定外だったでしょうから、仕方がない面も大いにありますが。

 因みに、この女院というシステムを利用し、その権限を活用したのが、道長の娘、彰子(上東門院)です。彼女のあり方が、その後の院政に影響を与えていますから、摂関政治を凋落させる遠因にもなったとすれば、なかなか興味深いところです。
 また、詮子を遷御させた職御曹司は、その後、紆余曲折あって定子がそこに呼び寄せられることになります。それはまた別の話ですが、道隆の政策は回り回って皮肉なことになっていますね。


(2)身内贔屓の人事

 道隆は、政敵の排除と同時に重要なポストを身内で固めることで政治的基盤を盤石にしようとしています。今回、道長が中宮大夫であることが語られていますが、彼に叱責された兄、道綱が中宮権大夫と、定子の周りを身内で固めています。彼女の関係する諸事全般について外部からの横槍を遮断し、中宮定子の権威を絶対的なものにしておくためです。道隆政権において、定子が政権の命脈を握っていますから、過保護にしてでも彼女を守ることが中関白家という「家」のために重要なのです。

 こうした道隆の意向は、第15回の後半、公費濫用について意見具申した道長に「そういうことを申さぬと思うたからお前を中宮大夫にしたのだ」と明言したところに表れていますね。道長は、中宮立后に反対し、公卿を説得せよという道隆の意向に逆らい、彼らと歩を同じくしたのですが…それでもそう思っているのが軽く驚きです。この人事には、弟の能力も意思も何とも思わず、都合のよい道具と見くびるおごりが窺えますね。

 因みに劇中では描かれませんでしたが、道長は中宮大夫に任じられたにもかかわらず、喪中を理由に立后の儀式に参加していません。こうした道長の反骨は、他の公卿に称賛されたと言われます。道隆が人望を失う中、道長は筋を通すことで少しずつ注目を集めていたのかもしれません。そして、そういう道長を見くびっていることで、つまらないしっぺ返しを食らうのが、今回の後半に訪れます。それは、後述しましょう。


 本作では道隆の身内贔屓の人事は、年を追うごとにひどくなっていく形で描写されています。それが2年後、993年の除目です。既に復帰した道兼を内大臣に、息子伊周を道長と同じ権大納言、正三位へ引き上げています。道兼はともかく、伊周の出世は異例の速さで、道隆のあからさまで強引な地盤固めが窺えます。直系の伊周を摂関家の後継者として内外に確定しておこうという意図であるのは、誰の目にもあきらかです。

 さて、ここからは、一条帝は役者も塩野瑛久くん(個人的には立風館ソウジ/キョウリュウグリーンです)になり、名実ともに大人になったことがビジュアル的に印象づけられます。彼の後ろ盾で進められる道隆の除目は公卿らから口々に「意味がわからぬ」と言われる始末。その言葉から察するに、公卿らを納得させる理屈も理由も配慮もない、ただただ自己中心的な人事がなされたようです。

 「大納言どの」と道長を呼び止めた実資は「摂政どのと昵懇(じっこん)の者が66人も位を上げられたが、どう思われる?」と聞きます。ここでいう「昵懇」は、例えば右大臣為光のように政治的に協力関係にある貴族だけを指すものではないでしょう。前回、伊周の昇進を聞きつけ、鯛を贈ってきた淡路守の描写は、中関白家の意向に阿り、賄賂を贈るような輩が多くいて、彼らに便宜を図るような人事をしたと思われます。66人という尋常ならざる数がそれを示していますね。
 もとより平安期は、家柄が官職を決定する官司請負制が確立していく時期ですから、能力主義だけの世界ではありませんが、能力に関係なく権力者の利害だけで人事が決まっていくのは、腐敗の温床です。まあ、世襲議員が多く、金銭に汚い現代日本の政治もあまり変わっていないような気がしますが…

 ともあれ、実資の言いたいことは道長もわかりますから、絞り出すように「驚きました…」と暗い顔をします。「摂政どの身内贔屓は今に始まったことではないがの」と軽く失笑すると「これであきらかに公卿たちの心は摂政どのを離れる」と明言します。実資の言葉は、道隆の政が、自身の権力基盤を盤石にすることに余念がないようでいながら、実はそうなっていないということを端的に示しています。ここに道隆の政の本質が表れていますね。

 道隆が取る政策は、政争に打ち勝ち、誰からも干渉、奪取されない絶対的な権力を自分のものとし、それを行使することで、その絶対的権力を確実に子孫に継承するためのものです。それは、我が「家」の繁栄こそが政だと豪語した兼家の考えを受け継いではいます。しかし、他者の意見の聴く耳を持たず、議論を無視し、ひたすらに自分の意のままに強引に性急に事を進めていく手法は、兼家にはないものです。

 勿論、兼家は権謀術策を尽くし、人を騙し、罠にかけ、傷つけることも平然とやれる人間でしたが、その一方でときに状況次第で裏切る晴明のような男もその有能さから傍におき、実資のような中立で有能な男も許容するバランス感覚を持っていました。彼は、基本的にはそういう人物たちを取り込み、関白頼忠や左大臣雅信のように意見を違える者たちとは駆け引きによって、周りが相応の納得ずくになるよう事を進めてきました。

 例外は、円融帝と花山帝の退位ですが、相手が自身の手の及ばない権威だったからです。兼家が乱暴な手段を講じるときは、他に手がないときということですね。それでも、その手段は独り善がりに作ったものではなく、公卿を味方に引き込み、自分の晴明の策に全幅の信頼を置いたものでした。
 つまり、兼家の政は、他者から疎まれ、恨まれる結果を生んだ割に、その政を支えているのは兼家の人を見る目の確かさと彼らとの関係性を重視する点にあったのです。道兼にアドバイスした公卿たちを手なずけ、人脈を作るという話は、その場の方便であっても、その内容自体には嘘はありません。

 おそらく、兼家は、その人脈、人間関係の維持が、自身の政権を太く、長く続かせる秘訣であることを経験から学んでいたのでしょう。政の基本は富の分配にあります。ですから、我が「家」が第一とはいえ、政にかかわる多くの貴族たちにある程度配慮して、彼らの利益を守らねばなりません。不公正と不公平感が、命とりになるからです。 
 兼家は、自分が築き上げたそうした人脈ごと、後継者、道隆に譲り渡したはずなのですが、父というタガを失ったまま、巨大な権力を握った道隆は、その権力の行使に酔ってしまいました。

 結果、その維持と強化だけを考え、集まる利益を我が物として意のままにすることが、我が「家」の繁栄だとすり替えていったのではないでしょうか。ですから、自分の権力に阿る者をひたすら重用し、異論を持つ者は冷遇します。そこには、公私の区別は既になく、他の貴族に対する配慮も、「この国の未来」を担う志も、政への理念もありません。
 私利私欲のために権力を弄ぶ専横政治になり果てた道隆の政に対して、公卿の心が離れていくのは当然と言えるでしょう。しかも、それが摂政の政なのです。摂政は帝にかわって政治を代行するもの。つまり、摂政の失策は、そのまま帝の御代に瑕がつくことなのです。ですから、実資は「えらいことだ。内裏の中が乱れれば世も乱れる。心配じゃ心配じゃ」と危機感を抱くのです。「内裏の中の乱れ」とは、道隆の専横だけを指しません。彼の真似をして、下々も私欲に走ることを懸念しての言葉です。


 ところで、何故、実資は、自分の危機意識を秘かに、他の誰でもなく道長に話したのでしょうか。数年前の朝議(第13回)から道長の志の高さを買っているとはいえ、わざわざ彼一人を呼び止めてまで話したのは単なる愚痴ではないでしょう。愚痴なら、日記に書くだけでよいはずです(笑)
 彼は昇進した者らを「摂政どのと昵懇」と言いました。勿論、昇進者に道長はいませんが、それでも道隆の実弟である彼はまさしく「摂政どのと昵懇」です。ですから、摂政の除目を公正な道長が関わっていたかどうかを知りたくなるのは道理でしょう。そして、未関与、不承知であれば彼から道隆に物申す可能性があると見たのではないでしょうか。

 道隆は、自身と疎遠な実資の意見を聞くはずもありませんが、弟道長の話ならばあるいはと思うのでしょう。彼は、道隆を個人的に恨もうという人ではありません。あくまで朝廷の乱れ、「この国の未来」を純粋に憂えています。その憂いと道長への期待から殊更「心配じゃ心配じゃ」を繰り返し、危機感を煽りまくり去っていきます。彼の言葉に「まことに…」と答えた道長の本音も、実資と同じです。自然、その諫言は道長の心に残ります。


(3)貴子の内助、定子の心映えの大きさ

 摂政の専横が過ぎることは、宮中の女房ズの噂になっています。「摂政さまってやり方が悪どすぎるのよ」に始まる陰口は、その摂政の力で中宮となった定子にも及びます。「中宮さまは帝を手玉に取っていい気なものよね」と定子の一条帝の思い遣りは、父道隆のせいで180°反対に捉えられてしまいます。そして、最後に「この親にしてこの子あり(笑)」と声が揃い、笑い声が生じるのは上手いですね。
 この女房ズの総意が、中宮定子の評判として定着していることが仄めかされているのです。女房ズの作り出す世論は、以前、実資ほどの公正を旨とする者が、その圧に負けたことからしても、噂話だと侮れるものではありません。


 定子のご機嫌伺いに来た貴子が、こうしたあからさまな噂話を聞きつけ、危機感を覚えるのは、聡い彼女ならば当然でしょう。早速、貴子は「中宮さまのお務めの第一は皇子を産み奉ることながら、帝しか目に入らぬようになってはなりません。昼間は後宮の長として揺るぎなく、ここに集う者すべての心を引きつけ、輝かなければなりませんよ」と凛として、諭します。

 一女御ではなく、後宮の長としての自覚を促すことの言葉が巧みであるのは、口さがない内裏女房の陰口を塞ぐということではなく、彼女たちに目を配り、彼女たちの望む理想的な女性を体現することを求めていたということです。男たちの政治のような強引さでは、後宮は収まらない。女房たちに仕えたいと思わせる圧倒的なカリスマこそが、陰口を封じる方法だと貴子は知っているのですね。そのために彼女は漢詩や和歌など、広く深い教養を定子に施してあります。素地は既にできあがっているからこそ、その心がけについて諭すだけでよいのです。また、人を傷つけることを好まない定子には、自分磨きをしましょうという言葉のほうが納得します。

 母の忠告に訝しげな定子に貴子は「中宮さまが輝けば、摂政さまの政も輝きますゆえ」と念押しします。ここに貴子の本音が見えますね。彼女は、娘大事だけで定子のもとへ訪問しているわけではないのです。道隆の目が行き届かない後宮に目を配り、状況を把握し、しかるべき手を打つ。我が「家」の繁栄のために夫の政をサポートする…それこそが貴子の目的です。彼女は「家」のための自分の役割をこなし、娘にもそれを求めているということです。
 貴子の言葉に「父上の政が…」とおうむ返しにつぶやく定子は、自分のあり方が父のためにもなるということがピンとこないようです。穏やかで朗らかな定子にとって、生き馬の目を抜くような政の世界はその中身も権謀術策の遣り口も遠いものだからです。ですから「帝を大切にし、仲睦まじく過ごすだけではいけませんか」と問うのですね。
 「いけません」と自信たっぷりに言う貴子ですが、定子に自覚を促すものの彼女の魅力である穏やかな気質を変えようとは思ってはいません。既に定子を後宮で輝かせる手段の算段もつけられるのが、貴子の優秀さです。


 貴子の狙いは、定子の住まう登華殿を、誰もが憧れる宮廷最高の雅のサロンとして確立することです。勿論、これは中関白家の権勢を背景としたものですが、政のような直接的な力の誇示ではなく、華やかで知的な文化に触れる楽しさといった情緒に訴えかけるものですから受け入れやすく、自然とシンパが増えることが期待されます。

 このサロンの形成の要として貴子が白羽の矢を立てたのが、ききょうです。定子は教養ある人ですが、自らそうした才をひけらかす人柄ではありません。また、漢詩の才はひけらかせば、出過ぎたこととして、かえって女房らの不興を買います。
 そこで、そうした教養の話のできる話し相手を作り、話し相手との自然なやり取りの中で、定子の豊かな教養と粋な魅力を周りへ浸透させていこうというわけです。さらに伊周との会話でもわかるように茶目っ気もある定子ですから、そうした面も好ましいものとして活きてくるはずです。


 そのための話し相手ですから控えめなタイプでは会話が起きません。しゃしゃり出るような才気ほとばしる、強気な女性が求められます。漢詩の会のときから、道隆の記憶に残り、斉信に恋の相手と見なされるような、花のあるききょうは、もってこいの人選でしょう。貴子が、ききょうの漢詩の会での発言に一目置く表情をしたこと(第6回)は、やはり、こうした日に備えての目をつけたということだったのです。彼女の長年の深謀遠慮には舌を巻きますね。
 因みに、心ここにあらずだったとはいえ、ワンテンポ反応が遅れたまひろは、その地味な印象もあって、貴子の評価は二番に甘んじたと思われます。万が一、ききょうがオファーを断っていたら、彼女にお鉢が回ったかもしれませんが。ただ、まひろは、瞬発力より思慮深さに力を発揮するタイプですから、機をつかみ小粋なことを言うサロンの盛り上げ役には向いていないでしょう。土御門殿サロンでも、彼女の才が生きたのは倫子の鷹揚な対応があってこそでしたから。逆に教育係のような真面目なものは向いていそうです。為時とよく似た親子です(笑)


 ともかく、貴子の人選が大当たりであったことは、ききょうの初出仕、定子との初の対面で印象付けられます。このときのききょうの衣装もなかなか見どころなのですが、それも定子を一目見たききょうの反応にすべてかき消されてしまいます(笑)
 あの場には見目麗しい伊周もいましたが、ききょうはまったく目もくれず、ただただ定子を、この世のものとは思えぬ雅で美しいものと見初め、一瞬で惚れ抜き、魂を奪われ、「きれい…」と呆けてしまいました(どの角度からでも絵になるあの表情は、ファーストサマーウイカさんの白眉として長く語り継がれそうですね)。おそらく、ききょうは、定子の外見的なものだけではなく、内側からにじみ出る人柄まで看破し、その神秘性に圧倒されたのでしょう。

 呆けたききょうを面白げに見やる定子も、その素直な様子になにか思うところがあったようです。ふと思いついたように「清…少納言…今よりそなたを清少納言と呼ぼう」といきなり名づけて、皆を驚かせます。これは、挨拶もできなくなって呆けているききょうの不作法をかばう機転でもあったのでしょうね。心遣いのある定子らしい反応です。
 定子の機転に貴子も「さすが中宮さま、ききょうの父は清原、夫は少納言でございますゆえ」と誉めそやすことで場を和ますよう動きますが、その間に我を戻したききょうは、空気を読まずに「あの…夫とはすでに別れましてございます。それに…元夫は少納言でもございません」とあっけらかんと返し、本領を発揮し始めます。


 出自となる清原の父も既になく、夫も子も捨てたききょうは、己一人でこの場にいる、その自負が彼女を毅然とした言動にさせているのです。身内や「家」を持たぬ今のききょうは、自分の才覚を存分に発揮することだけが、自分の居場所を作り、存在価値を示すことなのですね。失敗すれば、それまでのこと、というような静かな覚悟も窺えます。
 ですから、清少納言の名を「素敵な呼び名ですので、是非、それでお願いいたします」と受け入れるのです。「少納言」は、自分一人だけのために付けられた称号。「私は私のために生きたい」(第14回)ききょうには、定子の心遣いが深く刺さったのですね。

 このハキハキした口ぶりに、ききょうの正直さ、物怖じしない性格、機転の利く頭のよさを観た定子は、いたく彼女を気に入り「愉快である」と笑うと、改めて「末長くよろしく頼む」と彼女のその目をじっと見据えます。対するききょう、今度こそは居住まいを正し、きりっとした表情になると「この上なき誉れ、一心にお仕えいたします」と深く礼をします。


 対面が終わったところを見計らったかのように一条帝と摂政道隆が、登華殿が表われ、この場はさらに華やぎます。そこに被さるナレーション「登華殿は、帝と若い公卿たちが集う華やかな場となっていった」の最中、道隆と貴子は互いに目配せをします。この一瞬のやり取りが、二人が我が「家」の繁栄のため、一心同体であること、そして、貴子の内助で定子に作らせた登華殿サロンが若者たちの人心をつかむことで、道隆の専横を和らげ、道隆政権の安定に役立ったことが仄めかされます。

 そして、ナレーションは、道隆が摂政から関白に代わることで、帝を大人と認め、定子との間に皇子を設けるよう促した旨を告げます。これは、子の誕生を予期させ、中関白家の絶頂期を定子が支えていることを象徴しています。道隆は、生前、定子以外の入内を許していません。彼女が皇子を産み、その子が東宮として確定するまでが、道隆の地盤固めだったということでしょう。
 こうして、道隆の専横で不穏な空気、新たな火種を招きつつも、女性たちの力で道隆政権は一定の安定を迎えつつあったのです。


 因みにききょう…もとい清少納言は、こうした著しい政局の中で、自身の志をかなえるきっかけを得ますが、彼女は中関白家が凋落するようになっても、定子への忠節を生涯貫き、定子のサロンを盛り立てるよう最大限の努力を払っています。定子とのシスターフッドの関係こそが、清少納言の見出した進むべき道だったのですね。
 つまり、彼女は「家」から離れ、世の時勢が変わろうとも、己の才覚と定子への敬愛によって、自分の「進むべき道」を見つけ、志をかなえたのです。視点を変えれば、ききょうにとって、己の居場所、己の進むべき道は、己の才覚を信ずるところにあったと言えるでしょう。


2.道隆の専横の中で折れない道長のしなやかさ

(1)次兄、兼家すら思い遣る優しさ

 道隆政権は、絶大な権力による地盤固め、また登華殿サロンによる若者たちの人心掌握によって一見安定していますが、その権勢を快く思わない者を多く生み、道隆自身の求心力は失われている状況です。こうした、政局の中、道隆を支える実弟でありながらも、兄の独善が過ぎる政策には賛成しかねる道長の立場は、結構、微妙なもののように思われます。しかし、道長は、前回、道隆に強く叱責されたにもかかわらず、第15回の中で流れた2年間においても、兄に阿るようなことをせず、「民を救う」政への信念を持ち続けているように思われます。

 彼はどうして、折れることなくいられるのか。それは、年齢相応の落ち着きがもたらす面、そして「怒ることが好きではない」(第1回)心優しい三郎の性質が未だに残っているからでしょう。それが顕著に表れるのが、自暴自棄になり、無気力になった道兼の説得です。


 「腹が減っておる。何か食いたい…」と物乞いのようなことを言って、公任のもとに現れた道兼は、「お前…俺に尽くすと言ったよな」と以前の言質を盾に居座ってしまいました。その表情は、往年の覇気はなく、無精髭にやつれ尽くした惨めなものです。おそらく、妻子に去られ荒れた自邸には寂しさゆえに居られず、人脈とおぼしきところを転々としていたのではないでしょうか。

哀しいことに父に捨てられたと信じる彼は、摂政家の人間、その親族を頼ることができず、自分を受け入れてくれる人間を探して、さ迷った。そして、方々を訪れては、退去させられ、たどり着いたのが、後ろ盾のない公任だったのだと思われます。「お前…俺に尽くすと言ったよな」という言葉を笑顔で言ったのも、脅しではなく、その言葉にすがりついたというのが本当のところでしょう。


 居座られても断ることができず、公任は中宮大夫となった道長に泣きつきます。心持ち、言葉遣いが丁寧であるのは、頼み事をするというだけでなく、今や道長のほうが、地位が高いからです。かつての学友に頼まれた道長は、道兼を引き取りに公任宅へやってきますが、烏帽子もつけずにひっくり返り、飲んだくれている道兼を一目見ただけで、痛ましげな顔をします。道長は、公任に頼みこまれただけでなく、あれ以来、参内もしなくなった次兄を気にかけていたからこそ、やってきたということが、わかりますね。そう言えば、前回、兼家を罵倒した後、わたりの隅でうなだれている道兼を認めたのは道長です。彼の寂し気な後ろ姿は、ずっと心に引っかかっていたと思われます。


 道長を見上げる道兼は鷹揚に「おう」と挨拶しますが、かつて呑気な弟に向けていたギラギラしたものはありません。「この家の者は困っております」から帰りましょうという道長に「公任め裏切りおって…」と初めからわかっていた台詞を言うと、ふてくされ、ゴロリと怠惰に寝転がります。何もかもどうでもいい、放っておいてくれというのが、態度からにじみ出ています。転々としたであろう各家も似たような対応でしょうから、道兼はそのたびに己の人望の無さに傷ついたはず。自傷行為のような振る舞いで自分を苛んでいます。

 「兄上のこのようなお姿、見たくはありませぬ」と見るに見かねた道長の言葉も、普段より彼を憎み、痛めつけてきた彼は「何を言うか。お前も腹の中では笑っておろう」と憎まれ口を叩きます。仲がよかったわけでもなく、下々をないがしろにする兄の傲慢を嫌っていた道長は、自身の中にある嫌悪感を否定するような嘘はつかず、ただ「笑う気にもなれませぬ」と、今の彼はそれもできないほど痛々しいのだと伝えます。


 弟にまで憐れまれていることを自虐的に笑った道兼は「父上に騙されて、ずっと己を殺して生きてきた…」とポツリと本音を漏らします。道長は、まひろの母を殺した彼の悪行を知っています。それについて、激高し、殴りつけたことさえあります。道兼の今更の弱気の言葉など、言い訳にしか聞こえなくてもおかしくありません。しかし、道長は、次兄の思わぬ弱音を、道長は口を挟むことはせず、静かに真顔で聞いています。ここには、直秀の死、兼家の死、まひろとの別れなど、どうにもならない哀しみを知った諦観が、彼を大人にしたのかもしれません。

 彼は独り言ちるように「己の志、己の思い、すべて封印してきた…」と全てを兼家と「家」のために捧げ、実際は空っぽであったことを告白します。頑張っていれば、いつか汚れ役の自分も報われるに違いない…その願いだけが彼の生きる術だったのでしょう。そして、それは父を敬愛すればこそ、信じられた道だったのでしょう。因みに彼の志が何であったのかはわかりません。ただ、後継者になれば、自分の思う政はできると思っていたのでしょう。


 「父にも妻にも子にも捨てられた…」というところでカメラは再度、道兼の表情をクローズアップしますが、事態を思い返すと苦しさが溢れて止まらない…そんな様子です。冷淡な言葉とは裏腹に兼家には道兼への憐憫があり、妻子が彼のもとを去ったのは自業自得です。しかし、道兼にすればすべて思わぬ事態、相手の気持ちを慮るよりも、見捨てるはずのない人たちからの仕打ちに対するショックが上回ってしまったのでしょう。その湧き上がる苦しさに耐えかねた道兼は「これ以上、俺にどうしろなどと説教するな!」と吐き捨てます。

さらに自棄になった彼は、「俺のことなぞ忘れろ」と心にもないことを言います。先にも述べたように彼が、公任のもとに来たのは、家族から捨てられ摂関家では、居場所がなくなったからです。己を殺し、ひたすら父の命に従い、「家」のために働いたにもかかわらず、その「家」に捨てられた彼は、自分がどうすればよいのか本気でわからないのです。仕方なく、自分を必要としてくれる人を求めて彷徨していたのです。ですから、道長が来たときに「おう」と応じたのも、実は内心、道長が自分を忘れていなかったことが嬉しかったのでしょう。


 次兄が長年抱えてきた辛さを聞かされた弟は、静かに「兄上はもう父上の操り人形ではありません。己の意志で好きになさってよいのです」とだけ告げます。道長は、父兼家が「家」のために道兼を汚れ役にすることを直接聞いており、それを惨いと思っています(売り言葉に買い言葉で道兼にその言葉を投げつけたことはありますが)。また、入内させられた姉詮子が道具とされたことも痛ましく思っています。さらに自分も「家」を疎ましく思い、愛するまひろと共に逃避行を望んだこともありました。その思いはどこかで燻っていると思われます。

つまり、「家」が貴族にとって拠り所であるのは確かだとしても、人はどこまで「家」を背負わなければならないのかという矛盾は、道長にとって長らく解けぬ命題でしょう。ですから、道兼への「己の意志で好きになさってよい」と、「家」から解放しようとする言葉は、おためごかしでもなんでもない心からの言葉です。


道長の思わぬ言葉に道兼は泣きそうな表情になるのは、優しい言葉をかけられたことよりも「家」や父からの解放による困惑のほうが先に立つからです。「ならば聞くが、摂政の首はいかほどか」と物騒なことがついて出てしまうのは、道兼の中で「家」の繁栄のために自分が頂点に立つということが目的化していたからです。彼は「家」の呪縛にまだ囚われています。その根の深さ、恨みの深さ、大きさを察した道長の顔色が変わり、不穏なBGMが挿入される演出が巧いですね。道兼は「摂政の首が取れたら、魂だってくれてやる。俺は死んでんだ。とっくの昔に死んでんだ。死んだ俺が摂政を殺したとて、誰も責められぬ」と幽鬼のように歩きながら、恍惚とつぶやきます。

道兼にとっての「家」…摂関家とは父、兼家そのものです。その父からの愛を受けられず、見捨てられ、後継者への道を断たれました。父が死んだ今、道兼が求めていたものを得られることは永遠にありません。死んだも同然です。

だからこそ、自分の生きた証にせめて、自分が持つべきだった摂政の座を長兄から奪いたい。そして、一刻も早く、父のいる黄泉へはせ参じたい…道長に「思いのままに生きろ」と言われても、哀しいかな、道兼にはそれくらいしか思いつけないのですね。「家」に、父なる者に依存しきってしまった道兼の抱える闇は、その汚れ仕事のおかげでより黒く染まり、容易に抜け出せるものではないのでしょう。「摂政の首が取れたら未練なく死ねる。浄土に行けずともこの世とおさらばできる」との台詞は、道兼自身がその闇の深さを知っているからこその言葉でしょう。死ぬ以外に自分が解放されることはないと思い込んでいるのです。


 カメラは、死にたがる道兼の言葉を聞く道長を斜め後ろからとらえますが、その角度ゆえに道長の思いはわかりません。しかし、おそらくは次兄の抱えた闇の深さ、「家」という呪縛の恐ろしさに戦慄し、道兼が救えるのか否か葛藤していたのではないでしょうか。しかし、「私は兄上にこの世で幸せになっていただきとうございます」と振り返って、なおも道兼を想う言葉を投げたときには、道長は毅然としていました。道兼の闇を憐れみ、だからこそ、彼を救うべきであると覚悟したのだと思われます。

 その言葉に泣きそうになった道兼はそれでも「心にもないことを」と憎まれ口を叩きますが、道長は怯むことはなく「まだこれからではないではありませぬか。兄上は変われます。変わって生き抜いてください。この道長がお支えいたします」と、彼の顔を真正面から見据えて応じます。その誠意を前に気圧された道兼はよろよろと座り込むしかありません。


 ようやく虚栄から解かれた彼は「俺に…生きる場所なぞ…あるとも思えぬ…」と弱々しくつぶやきます。死ぬしかないという思い込みは、新たに「進むべき道」を見出さねばならない、自分の居場所をつくらねばならない、その辛さと苦しみからの逃避でもあったのですね。ですから、彼の本音のどこかにはやり直したい思いもわずかながらに残っているのでしょう。道長はそんな彼の思いを察してか「ありまする!」と力強く返すと「しっかりなさいませ。父上はもうおられないのですから」と優しさのみの穏やかな表情で声掛けをします。


 道長からここまで真心を向けられたことで、道兼は号泣します。彼が「家」のために働く中で、渇望していた居場所は、摂政の座でも、夫としての立場でも、父からの愛でもなかった、皮肉にも仲が悪く、自分が憎んできた弟にあったのです。つまり、道兼が求めたのは、誰かが彼を深く思ってくれる安心感にあったのでしょう。

結局、道長の弱者へのいたわり、道兼には偽善にしか見えなかった道長の優しさに救われたのです。それは、どんな状況になろうとも変わらないものだったからです。勿論、道長は道兼のした悪行を許すことはありませんし、また道兼のほうも末っ子ゆえに無条件に父に愛された弟へのわだかまりが解けることはないでしょう。しかし、道長は、三郎のころから道兼に対して思ったことを正直に言う人間でした。そこだけは信用できるはずです。道兼はようやく、父からの呪縛を解かれ、朝政に復帰、内大臣に収まることになります。道長に居場所を見た道兼は、今度は彼なりに自分の「進むべき道」を見出さなければなりません。



 それにしても、こうした道長の優しさと真っ直ぐさ、今回は憎み合うという意味で関係の深い道兼が相手だからこそ、より自覚的にそのしなやかな強さが発揮されましたが、元来、「怒ることが好きではない」彼の優しさと率直さは、無自覚でも人を惹きつけていっていることは、興味深いところです。晴明は兼家の子らしからぬ擦れたところのない人柄に微笑しましたし、実資はその志の高い真っ直ぐさを買い助言をしています。嫡妻の倫子との関係は、彼の優しさ以上に彼が倫子の大らかさと心遣いに甘えている気もしますが、少なくとも夫婦関係の良好さには寄与しているでしょう。


 そして、第15回で道長の優しさに救われていたことがはっきりと明示されたのが、妾妻の明子女王です。note記事でも触れたように、前回、流産の折の道長の心遣いによって、明子の氷の心が溶けていくかもしれない、そんな変化が仄めかされていました。そして、2年後、道長と彼女の会話には冗談めかしたやり取りが含まれています。

そして、めでたく懐妊をしていますが、お腹の子に腹を蹴られたことを報告するその様には幸せが溢れています。お腹の子を気にかけず呪詛に勤しんだあのときとは大違いです。そして、何よりも道長を潤んだ目で見るその顔には自然な微笑が輝いています。あのクールビューティ、笑うことを忘れたとうそぶいた彼女が、です。「そなたを微笑ませることのできぬ俺も不甲斐ない」(第13回)と道長は諦めたように言っていましたが、道長の優しさによって彼女の心持が変わったのですね。彼らの会話に冗談が混じり、柔らかなものになったのも、明子が微笑むようになったことが大きいでしょう。



 ところで、この二人の語らいのもとへ、舅である雅信の危篤が伝えられます。妻、穆子と娘、倫子に見守られる雅信の元へはせ参じた道長、雅信の手を取りますが、雅信の言葉は「婿殿の出世もこれまでじゃな」でした。自分が左大臣であり続ければ、その配慮から道長も出世できたろうが、後ろ盾を失った今後は難しかろうということです。ましてや、中関白家が専横を極める現状を考えれば、尚更です。ですから、この言葉には、「すまない」という詫びと、ここから先は婿殿の頑張りで愛娘、倫子と土御門殿を繁栄させてくれという叱咤が入り混じっているでしょう。


 とはいえ、よりによって兼家の息子に我が源の「家」と愛娘のことを頼まなければならないことへの忸怩たる思いもあります。だからこそ道長の婚姻について「不承知と言い続ければよかった」と弱々しく、本音を漏らしてしまいます。この言葉から窺えるのは、「倫子にとってもっと幸せな結婚があったのではないかと娘を思う気持ちの強さです。その思いは、源の「家」の繁栄よりも強いものです。思えば、雅信は花山帝に倫子を嫁がせたいという意向を漏らしたことがありましたが、倫子の気持ちを優先して、入内による栄華を諦めたような人です。道長との婚姻も、兼家や詮子の圧力があったとはいえ、結局は娘可愛さです。今わの際に、道長の出世について、触れたのも、あくまで娘のことが第一だったのでしょう。


 その気持ちを察した穆子は「権大納言なら素晴らしゅうございますよ」と力づけ、倫子もまた父の愛を汲んで「父上、わたしは幸せでございます。ご心配なく」と安心するよう、そして父の愛を受けて幸せだったと伝えます。しかし、長年、政の中を生き抜いてきた雅信は、今の不穏な朝廷では権大納言くらいでは安泰ではないことがわかっているのでしょう。朦朧としながらも最期まで「不承知…」を繰り返します。道長は手を握ったまま、その言葉を静かに聞いています。まひろとの約束を叶えるため、権力志向で婿入りした道長は、雅信の娘を思う正直な気持ちを前に、おためごかしで安心してくださいとは言えないのでしょう。実直な彼は、嘘をつくのも決して得意ではありません。ただ、「家」よりも人を大切にする道長は、雅信が倫子たちを自分に託したその思い、娘への愛情はしかと受け止め、それに応えなければならないことも自覚したでしょう。


 そう考えると、雅信が二人の婚姻を承知したことは正しかったと言えます。婿殿にお前との婚姻は反対だったと言えてしまうことも、娘を頼むと言えることも地続きで、情を優先する土御門家の家風です。それを受け止められる優しさを持った道長は、土御門家には丁度よかったと思われます。二人の婚姻には、穆子の意向も強くかかわっていますが、彼女の人の見る目もたしかであったと言えますね。見方を変えれば、道長の性質は、土御門家に婿入りすることで活かされ、深まり、道兼すら受け入れる強い優しさとなったのかもしれません。

 こうして左大臣、源雅信は、家族に看取られる形で世を去りました。その死は、人から恨まれ、孤独に庭で倒れ伏して死んだ兼家のそれとは対照的です。「家」のために人があるのか、人の愛情や優しさがあって「家」が成るのか、彼の死は「家」と個人の関係性に葛藤する道長になんらかの示唆を与えるかもしれません。



(2)道隆と政への方針の違いが明確になった道長

 道長はその優しさと実直さで、人を惹きつけ始めていますが、ただそれだけでは政の頂点に躍り出ることはできません。どんな政をするのか、その志を貫く強さも一方で必要となります。それが垣間見えたのが、登華殿の調度品の新調にかかわる道長の対応です。先にも述べましたが、登華殿サロンは定子の求心力に頼る道隆政権の要です。人々の心を惹きつけるため、定子を輝かせるためには、登華殿は常に最新、最高の文化の発信地でなければなりません。ですから、こうした改修の数々は定子のというよりも、道隆の肝いりだということを認識しておく必要があります。

 したがって「だって関白の兄上が仰せになったから」とその費用を公費で賄うことに唯々諾々と従う道綱の対応はある意味においては正しいと言えます。公言こそできませんが、実は道隆にとって、これは政権を盤石にする重要な「政策」であり、贅沢ではないからです。


 しかし、「この国の未来」を見据え、「民を救う」政を志す道長からすれば、登華殿の調度品のバージョンアップに多額の公費を投入することは中宮の個人的な事情であって、必要不可欠なものとは映りません。公費は、弱者の救済、インフラの整備など公に利するところへ投入するのが適切ということは、現代人にはよくわかっていることですね。バカバカしいお祭りに多額の税金が投入され反発があるのはそのためです。道長の発想も概ね、同じでしょう。

 ですから、「中宮さまの御在所にこのような莫大な費用を遣すのはいかがなものでございましょうか」と決済した道綱を兄とはいえ叱責し、「登華殿の設え換えについては聞き及んでおりましたが、そのかかりを公が賄うとはまっ…たく聞いておりません」と報連相(報告・連絡・相談)もないことも問題にしています。このことは、道隆が自分の命を帝と同じものとして絶対視し、他人に諮り、了解を得ないことが常態化していることを窺わせます。2年前以上に専横が進んでいるのでしょう。


 結局、道長は、道長の言い分の正しさに困り果てた道綱をしり目に、関白道隆へと直談判をすることにします。ただし、体調不良により参内していなかったため、中関白家を直接訪問することにします。因みに道隆の「朝から身体がだるくてのう」との言葉は、大酒飲みゆえに病に罹っているということです。そもそも、道隆の暴政には多くの公卿の心が離れているという不穏が漂っていますが、道隆の健康問題もこれに加わり、やがて来る中関白家の凋落がさまざまな形で仄めかされているのが、第15回の特徴です。

 話を戻しましょう。体調不良の道隆の関心は、邸宅で開かれる伊周の弓競べのことです。ですから、手短に済ますという道長の直談判も「公の財をもって、中宮さまから女御たちに至るまできらびやかな調度をたびたび誂えるは…」というあたりで目を逸らしてしまい、聞く気がありません。「いかがなものでございましょうか」と詰問されても、「そんなことか」と取り合いません。彼からすれば、公費のごく一部を遣うだけだろうと言うわけです。


 道隆の悪びれもしない様子に、渋い顔をした道長は「朝廷の財政は必ずしも豊かならず。関白さまが正しき道をお示しにならねば、誰もが公の財を懐に入れるようになります」と正論をもって、説きます。率先垂範、上が公財の無駄な出費を抑えるようでなければ、下々までが公費を使いこみ、結局は財政逼迫を招くというわけです。ただ、「関白さまが正しき道をお示しにならねば、誰もが公の財を懐に入れる」との文言は、暗に登華殿の設え換えは私用であるとし、この決済は公費濫用というよりも横領だと言っているようなものです。道長にしては、かなり強い言いようで、道隆に詰め寄っていますね。

 これは、しばらく前の除目で実資から言われた「あきらかに公卿たちの心は摂政どのを離れる」との言葉が頭にあるのだと思われます。実資の言葉は、道隆の政は除目ではっきりしたように私利私欲に偏っている。だから人心は離れるし、下の者も道隆を真似ようとするという危機感でした。登華殿の設え換えを公費で賄うことは、こうした実資の危機意識が形になったものと道長には映ったのです。それは朝廷の危機へとつながりますから、道長は看過できず、私邸であるここまで参上したのです。


 しかし、道隆は興味なさげに立ち上がると「細かいことを申すな。お前は実資か」と揶揄して、なおさら取り合いません。「お前は実資か」の苦々しい言い方から察するに、実資は無駄とわかっていてもその正義感からたびたび道隆に苦言をしていたようですね(笑)いくら言っても無駄だからこそ、前回、道長に期待したのでしょう。道長は実資の期待どおり、道隆に諫言し、「お前は実資か」と言われてしまうのは、笑えますね。

 小うるさいと言われた道長は中宮大夫として、やるべき役割をしているだけだと正論を述べますが、道隆は道長を見くびるように弟の役割は兄の言うことに従うのが「家」のためだと語り、そればかりか「わかっておらぬのう」とその青臭さが抜けないことに呆れるばかり。彼にとっての政は、我が「家」の繁栄とイコールです。その近視眼的な目線では、自身の施策が周りにどういう影響を及ぼすのか、将来的にどう拡散していくのか、そうした大局的なものは見えません。所詮、道長とは政の方向性が違うのです。噛み合うはずはないのですね。
 道長には、兄ゆえにまだそこまでの自覚はないようですが、道長の志、「進むべき道」において、道隆は明確な障害だと言えるでしょう。ある意味では師であり、反面教師でもある兼家とはまったく性質が異なります。


 さて、道隆は、不満げな道長をいなすように、伊周の弓競べを見物するよう促します。当の伊周は、周りの者たちが伊周に遠慮しているため、一人勝ちしており、皆に遠慮するなと鷹揚に呼びかけています。歯ごたえのなさに鬱屈しているところに、叔父の道長が現れたのは好都合でした。自信過剰な伊周は、権大納言と同じ身分の叔父に敬意はなく、寧ろ自分のが実力があると内心、対抗意識を抱いていたようです。誘いを「気分ではない」と断る道長に、「怖じけずかれずともよろしいではありませんか。叔父上」とあからさまな挑発を仕掛けます。
 関白に大事な話があるからと真面目に断る道長ですが、道長の諫言に辟易していた道隆は「話はもうよい」と強引に打ち切ると、道長に弓競べをするよう命じます。

 こうして、「大鏡」でも有名な道長と伊周の「競べ弓」が始まります。ただ「大鏡」の道長が、伊周への対抗意識満々で挑戦的であったのに対して、本作では真逆、伊周のほうに対抗意識があり、道長のほうは仕方なく参加するといった体です。道隆にあしらわれ、気分が乗らない道長の顔は、そこまで真剣な様子もなく、1本の矢は盛大に外してしまうほどです。本作の道長が弓において一角であるのは、実戦で直秀を射たときに証明されていますから、その気の無さが見えますね。

 最初から適当に済ませて終わるつもりだったのでしょう。1本外したところで勝負はついたと止めようとする道長を、伊周は「まだ2本ある」と強引に引き留めます。彼に完勝するところを父、道隆、そして見物する姫君たちに見せつけたいのでしょう。傲慢さ、自己顕示欲の強さ、承認欲求の高さなどが窺えますが、ティーンエイジャー特有の自信過剰の範囲でしょう…いや、嫌な奴ですけどね(笑)

 しつこい伊周にしぶしぶ付き合うことにした道長ですが、調子づいた伊周は願い事を言ってから矢を撃つ願掛けをしようと提案します。そして、中関白家の天下を疑わず、自身がその後継者になると信ずる傲岸不遜な伊周は「我が家より帝が出る!」と明言して、矢を放ち、的の脇のあたりに命中させます。それまで中心部に軽々と当てていた彼ですが、この願掛けには気負いが出たようです。
 対する道長は、こんな戯言には興味がないのですが、道隆の対応に腹が立つところもあったのでしょう。伊周と同じ願掛けで矢を放ち、見事、真ん中を射抜いてしまいます。


 湧いていた観客も静まりますが、この出来事に一番、狼狽えた表情になったのは、負けた伊周ではなく道隆のほうです。伊周が勝つと高を括っていたこともあるでしょうが、これをなんらかの暗示かもしれないと感じたのかもしれません。
 座に微妙な空気が流れたことを感じ取った伊周は、名誉挽回とばかりに「我関白となる」とさらに直近的な願掛けをします。そもそも、どの願掛けは傲慢の極みなのですが、絶対勝たなければという思いは空回り、力みすぎたのか、矢は大きく外れます。所詮は戯言ですから、道長はまた同じ願掛けで矢を身構えるのですが…結果に怯えた道隆が「やめよ」と打ち切ってしまい、決定的な事態を避けました。


 ただ、道長は最終的に摂政にはなるものの、関白にはなりません。この弓競べの矢が万が一、将来を暗示していたとしたら、道隆が慌てて止めなくてもこの矢は的から外れたことでしょう。そもそも、道長は道隆の末弟です。現状、同じ身分であるならば、道隆の嫡男である伊周のが出世はかなり優位なのです。しかも、道長の上には道兼もいます。ですから、同じ位の伊周はともかく、道隆からしたら道長は恐れるに足らない存在なのですね。
 にもかかわらず、道隆は、たかが弓競べの戯言を本気にして怯み、焦って場を白けさせてしまったのです。客人を前に醜態を晒したのは、実は道隆かもしれません。ここには、相変わらず不測の事態に狼狽える、道隆の器の小ささが表れていますね。

 しかも、道長は去り際、弓を道隆に返す際に「兄上、先ほどの話は改めて」と、公費使用についての諫言を諦めていないことを滲ませます。弓を返すとき、ほんの少し、力の駆け引きがあるのが印象的ですね。道隆は、存外に強く、強情な道長を始めて脅威と見なしたように思われます。
 それは、道長のしなやかな強さを認めたとも言えますが、先に言ったとおり不必要な警戒です。つまり、道隆は自らの器量の狭さから、道長に対してつらく当たる可能性が出てきました。そして、同時に伊周への権力継承を視野に、ますます身贔屓の政を行っていくように思われます。二人の間に不穏な空気が流れたのは、間違いないでしょう。
   また、このタイミングで雅信の死により後ろ楯を失ったことは、道長には痛いことです。雅信の危惧が迫っています。

 にもかかわらず、こうした逆境に道長が簡単に挫けることもなさそうです。それは、その優しさと実直さという自らの魅力で惹きつけ、一方でその志を貫くためのしなやかな心の強さを見せていることも第15回で確認されたからです。兼家が政で重視していた周りの納得を得る、その基礎を兼家とは違う形で作りつつあるのでしょう。道長は「摂政家」の出身であることも利用しながらも、徐々に独自の道を歩み始めているのかもしれませんね。
 勿論、道長が自覚するように、彼はまだ何もなせていませんし、苦難は続きます。まひろとの約束を叶えるのは、夢のまた夢。しかし、「進むべき道」を進むための力をこの2年間の間に着々つけているように思われます。それが発揮されるのももう間もなくかもしれませんね。

 ところで、弓競べ、元ネタ「大鏡」の道長は、中関白家を挑発した挙句、矢を二本とも的中させて、その運気の強さを見せつけています。しかし、本作の道長は1本のみで、それでもその夜、明子に「8歳も下の甥相手にバカなことをした」と軽く凹んでいます。このあたりは、「大鏡」の道長を大人げないと揶揄するメタ的な演出になっていて興味深いですね。


3.足踏みを続けるまひろ
(1)まひろの心を映す琵琶
 政治の中枢とはほぼ無関係なまひろですが、父の任官がかかる除目だけは直接的な影響を受けます。とはいえ、「意味がわからぬ」と公卿らの不興を買ったあの除目ですから、案の定、為時は、任官からあぶれます。
 為時は「除目で官職をもらえないのも慣れてしまった…わなぁ…ははは」と自虐的に笑うしかありません。ため息混じりの言葉は、半ば諦めていたものの一縷の望みを抱いていたということでしょう。場が暗くならないうちに「若様の大学の試験」に乳母のいとがそらしますが、為時やまひろに比べ、出来が今一つの惟規は、この寮試に何度か失敗しているようで「何分狭き門(擬文章生は定員20名)ゆえに此度も無理かもしれん」と諦めモードは変わりません。

 そこへ得意げにやってきた惟規、擬文章生になれたことを報告します。擬文章生は、紀伝道(中国史)専攻ということですが、為時によれば、ここまで来れば、その上の文章生まで後一息、その後は任官が待っています。惟規は、姉上だったらとっくに任官できていると謙遜するも、ようやくの合格にまんざらではありません。いとは「この日のためにかくしておいた酒」を用意し、為時の「家」に心からの喜びに満ちます。
 まひろも「この家にもようやく光が射してきたわ」と、長年の困窮が報われた表情をすると「お祝いに琵琶を弾くわ」と、琵琶を手にします。かつて、母ちやはが琵琶が弾くのは、我が家に祝い事があるとき、彼女は母に代わって弾くような意味合いも込められているでしょう、彼女なら息子の成功を素直に喜ぶでしょうから。

 しかし、その琵琶の音に惟規は「琵琶ってなんか哀しいですね」と祝い事に合わないと為時に漏らします。まひろの心尽くしと思う父は「黙って聞け」と諭しますが、惟規が琵琶の音に哀しみが混じるのを聞き逃さなかった直感は間違っていませんでした。
 まひろは弟の成功を仲のよい姉として心から喜んでいます。光が射したとの言葉も祝いの琵琶にも嘘偽りはありません。ただ、これまでも、まひろが琵琶を弾くときとは、もて余す自分の心と向き合うことでした。このたびも例外ではありません。

 彼女は弾きながら、「不出来だった弟がこの家の望みの綱となった…男だったらなんて、考えても虚しいだけ…」と自分の奥底にあるモヤモヤとした気持ちを見つめます。まひろは、どこかで不出来な弟より自分に学才があることにすがっていたのです。「わたしが男だったら」との思いが、自分の学問の才をどこかで活かせるに違いないという希望となり、それが彼女のさまざまな試みを支えていたのです。
 和歌の代筆も、散楽の脚本も、写本もそうしたことの一つでした。そうして、ようやくたどり着いた「民に文字を教える」という志。しかし、民の現実にそぐわないその志は、あっという間に崩れ去りました。
 その挫折が癒えない中で訪れた弟の朗報は、学問の不出来な弟でも「家」を支えられるにもかかわらず、自分の学問は何の役にも立つことはないという現実を改めて突きつけられたのです。この先、一体、何を寄る辺にして、自分の「進むべき道」を考えていけばいいのか。まひろは、自分自身の学問という根幹すら疑わしくなってしまったのですね。

 この憂いに追い打ちをかけたのが、ききょうの出仕です。学才に長けたききょうが、それを期待されて、中宮定子の女房として上がることは、同じく学問の徒であるまひろにとっても嬉しいことです。なによりも「内裏で女御として働くことはききょうさまのお志」だったからこそ、その念願が叶ったことは喜ばしいのです。
 まひろがそこを理解してくれることは、ききょうにとっても心躍ります。なぜなら「私にはもう夫も子も親もいないので、この喜びを伝える者もおらず」という状況だからです。まひろだけが、自分の出仕を喜んでくれるに違いないと勇んできたあたりが可愛げですね。

 それにしても前回の夫も子も捨てる宣言はなかかなか思い切った発言でしたが、彼女がすごいのは、思い立ったが吉日、まだ出仕も何も決まっていない段階で離縁し、子どもを夫に推しつけてしまったことです。人はどうしても失敗した場合の保険をかけておきがちです。しかし、彼女は、自身の志のため、己がために生きるため、背水の陣をあっさり敷いてしまったのです。向こう見ずですが、ここに、ききょうの志の純粋さと強さを見ることができるでしょう。

 そして、この強さこそはまひろにないものです。道長の逃避行話も妾話も受け入れられなかったまひろは、ものごとをあれこれ考える性質です。慎重と言えば聞こえがよいのですが、結局、それが裏目に出ることが多いのが、ここまでのまひろの半生です(苦笑)
 そのため、ききょうが「私のこと思い出してくださって嬉しいです」という言葉は真心の言葉ですが、彼女の表情には冴えないものがわずかながらに浮かんでいることがみとめられます(吉高由里子さんは、こうした微妙なニュアンスを混ぜる匙加減がやはり上手いですね)。まひろはききょうの行動力がうらやましく、それゆえに何もできていない自分自身の不甲斐なさを恥じるのです。

 ききょうが去った後、まひろは白楽天の「琵琶引(琵琶行)」の一節「尋声暗問弾者誰 琵琶声停欲語遅」を「声を尋ねて暗に問う 弾く者は誰ぞと 琵琶声停みて…(意訳:琵琶の音のする方に密かに問いかける、誰が弾いているのかと。琵琶の音はやんだが…)」と精読しながら、またしても母の琵琶を見つめます。
 「琵琶引」は、身の覚えのない罪で追放された白楽天が、追放先で出会ったかつて長安一の名手と言われた女性の琵琶の弾き手に出会い、女性奏者の落魄、流転の人生の問わず語りの音色に自信の境遇を重ねるというものです。運命に逆らうことができず、流れ流されるままに生きているまひろ自身の境遇に重なるところがあるのでしょう。
 その忸怩たる思いは「私は一歩も前に進んでいない」という独白に象徴されています。志のことだけを指した言葉ではありません。彼女は、道長と別れた7年前に囚われたままだというのです。彼への思いも未だ断ち切れぬまま、自身のわずかな才にすがり、自分が生きる意味も見いだせないまま無為に時間を過ごしている…惟規も、ききょうも自分の道を進んでいるというのに…です。彼女は自分の無能に対する諦めと焦りに鬱々とした気分になることを止められません。


(2)道綱の母、寧子の言葉が響くとき

 内心、鬱々とした感情を抱くまひろが、「家にいるのが嫌になる病」になったというさわの誘いにのって、気晴らしに石山詣に出かけようというのは、彼女にとって自然なことであり、仲のよい彼女とのお出かけはそれだけで癒されることになるはずです。

 因みに、さわは、まひろ宅で、惟規の不在、そしていつか「官職を得られれば、どこかの姫のところに婿入りされてしまう」ことを嘆いていますが、未だ惟規に対してほのかに思うところがあるのでしょう。「うちに婿入りして!…と言えるような家柄ならよいのですけど」という言葉には、切ない本音があるように思われます。
 鈍感なうえに、家事に手いっぱいなまひろは、完全にスルーしていますけど(苦笑)彼女が、婚姻に心をときめかせるのは、乙女心というだけでなく、父とも継母とも義弟たちとも折り合いが悪く、居場所がないからです。石山寺で「私をあの家から拐ってくれる殿御に会えますように祈願いたしますの」というのも半ば以上本気です。

 自分の居場所も行く先もないさわ、大らかで朗らかな彼女ですが、どこかで追いつめられ切羽詰まった気持ちを抱いています。彼女もまた誰かに必要とされたいのです。それは、まひろが誰の何の役にも立っていないと思い詰めている思いと相似をなしていると言えるでしょう。
 「私たちずっと夫を持たねば一緒にくらしません?」とさわが、まひろに提案するのも良縁に恵まれる可能性を思い浮かべられない不安が言わせている面もあるでしょう。「年老いても助け合いながら」と将来についてまで思いを馳せます。でも、気の置けない女性同士であれば、それも楽しいことのような気がするまひろは「誠によいかも」と笑顔で返します。ここでの笑顔は、心からのものですね。さわが自分を必要としてくれていることが心地よいのでしょう。そして、それはさわも同じです。二人は「私たちの末長いご縁を」石山詣で願おうと誓いあいます。

 微笑ましいシスターフッドの関係ですが、さわの本音は愛しい殿御との幸せな婚姻、一方で既に一生分の恋をしたまひろは生きる意味、志を求めています。二人の本心の願いは、少しズレています。
 だから、今回のラスト、道綱にまひろと間違われ、それを誤魔化されたことに深く傷つき、「私には才気もなく、殿御を惹き付けるほどの魅力もなく、家とて居場所がなく…もう死んでしまいたい!」と叫んだのですね。自力で居場所を確保する者にとって、誰かと必要とされることだけが、生きる糧になります。さわの悩みは、今の何もなし得ていないまひろにも通ずるものがありますから、まひろにもさわを慰める言葉は出てきません。


 さて、石山詣に来たものの夜通し経を読むというのは、さわには辛いことだったようですぐに飽きてしまい、まひろにもうやめましょうとぐずります。若い女性たちの口さがない会話を叱るふりをして入ってきたのは、兼家の妾妻、寧子です。
 石山詣は、「蜻蛉日記」の道綱母、「更級日記」の菅原孝標娘、そして紫式部と平安期の女性文人が訪れたことで知られています。特に紫式部は、石山詣で「源氏物語」の着想を得たとも言われています。ですから、女性文人馴染みのこの場所で道綱母と紫式部の二人が会ったかもしれないという演出は、フィクションとしても心躍るものがありますね。

 もっとも心躍らせるのは、「蜻蛉日記」ファンのまひろです。まさか、作者と知遇を得て、話ができるなどとは奇跡です。紅潮した様子で「幼い頃から幾度も幾度もお読みしてその度に胸を高鳴らせておりました」とその感動を伝えるまひろがいいですね。ファンが作者に伝える言葉としては過不足なく、でもちょと早口な感が抜けないあたりが、オタクの感動が上手く再現されているのではないでしょうか(笑)
 「蜻蛉日記」は大人の恋愛を描いたものですから、寧子は「ずいぶんおませな姫さまだったのですね」と微笑み、まひろの賛辞を嬉しく受け止めます。ここでまひろは、大人の作品だから幼い頃はわからなかったという部分について話し始めます。感動ポイントや疑問について、すらすら細かく話し始めてしまうあたりも文学少女していますね。

 さてここでまひろがあげたのは、前回、兼家が口にした「歎きつつ ひとり寝る夜の 明くる間はいかに久しき ものとかは知る」が読まれたときの状況です。久々にやってきてくれた兼家に対して、寧子は門を閉ざしてなかなか開けませんでした。「待ちくたびれた」と言う兼家に送ったのがあの一首なのです。
 何故、本当は逢いたくてたまらないのに、門をあけようとしなかったのか。その複雑な女心が、少女時代のまひろにはわからなかったのです。ただ、まひろが「今は痛いほどわかりますけど」と言い添えられるのは、道長との悲恋ですれ違い続けた苦い経験があるからです。


 前回の兼家と寧子のやり取りからわかるのは、この一首が読まれたあの日も二人にとって「輝かしき日々」だったということ。その幸せが織り込まれた一首について話された寧子は「心と身体は裏腹でございますから」と静かに、それでいて確信をもって微笑みます。
 その言葉と同時に、まひろに光が差し込みます。そして、道長から妾の話を持ち掛けられたときの、妻になってほしいと言われたこと自体は嬉しかったのに、妾になることへの不安から力一杯「耐えられない」と拒否してしまったことを始め、道長との恋との思い出を思い返します。そして、寧子の「心と身体は裏腹」に深く得心します。ずっと抱えていた自身の後悔と哀しみが、優れた文を残す先人の言葉でほどかれていくように思えたのではないでしょうか。


 寧子は「それでも殿との日々か私の一生のすべてでございました」とのその哀しみと辛さがあってなお、そう明言します。今の彼女は袈裟をつけていることからも、在家出家していますが、それでなくても死ぬ直前の兼家の言葉に救われたのでしょう。晴れ晴れとしています。その言葉はまひろにも響いたでしょう。何故、あれほど哀しい結果の恋であったのに、今なお彼を想い続けられるのか。それは、彼女にとってあの哀しい恋愛もまた輝くものだったからです。そのことを思い返せたかと思われます。

 つくづく寧子の言葉に得心できるからこそ、彼女の次の台詞「私は日記を書くことで、己の哀しみを救いました。あの方との日々を日記に記し、公にすることで妾の痛みを癒したのでございます」は、まひろの心に深く深く刺さります。自分の心と向き合い、それを言葉にすることで初めて自分の気持ちを知る。それが「書く」という行為の効能です。そして書き留めたその言葉を見返すとき、自分のそのときの気持ちに思いをはせることもできます。「書く」とは気持ちを保存することでもあるのです。これらを繰り返すことで、膨れ上がる思いをある程度整理できたのでしょう。


 そして「不思議なことにあの方はあの日記が世に広まることを望みました。あの方の歌を世に出してあげた。それは私の秘かな自負にございます」と癒し以外にも、意味があったと語ります。兼家の末期の様子からして、彼もまた自身と彼女の「輝かしき日々」が消えずにいてくれることを望んだのだと思われます。「家」のために生きる自分には、「輝かしき日々」は二度と訪れないからです。彼女の書いたそれを読むときだけ、兼家はかつての本当の自分を思い返していたのでしょうね。
 その本心は、寧子すらわからないことです。ですから、彼女は「そこまでして差し上げても妾であることに変わりはないのだけれど」と言うしかありません。ただ、その顔に後悔はなく、満足があるのが印象的ですね。


 男女の酸いも甘いもかみ分けた寧子は、まひろたちが独身と知ると「命を燃やして人を思うことは素晴らしいことですけれど、妾はつろうございますから、できることなら嫡妻になられませ。高望みせず嫡妻にしてくれる心優しき殿御を選びなされ」と心からの助言をします。寧子は、この人生に後悔はないけれど、再び生まれ変わるなら嫡妻の幸せを選ぶというのです。

 この言葉に、内心、殿御との幸せな婚姻を望むさわは力強く頷くのですが、まひろのほうは曖昧な表情を浮かべ、素直に頷くことができません。若くして、もう既に嫡妻であろうと、妾であろうと女性の人生には哀しみが伴うことを知ってしまったからでしょう。また、今なお、道長への想いがくすぶる彼女は、万が一、道長から妾になることを再度持ちかけられたら断る自身はないということもあるでしょう。寧子との会話で、道長への想いを再確認してしまいましたしね。


 ただ、頷くことができなかったことは、寧子にも、さわにも気づかれずに済みました。道綱が現れたからです。寧子は遅刻を窘め、さわは美男子の登場に心ときめかせ、まひろは日記の登場人物がきたことにオタク心を刺激されます。湿っぽい話が吹き飛んでしまったのですね(笑)
 それにしても、「日記にも出てきた道綱さまにもお会いできるなて…来た甲斐がありました!」というまひろの感激を聞いた道綱がまんざらでもない顔をするのが、いやらしいですね(苦笑)おそらく彼は、この言葉からまひろを「落とせる」と見て、夜這いをかけたのでしょう…いや、道綱よ…オタクのその感動はそういうことじゃねぇよ(苦笑)

 しかも、さわと間違えた挙句、その後の対応が、嘘をついて誤魔化す、名前を間違えると最悪です。因みにこれは「源氏物語」で光源氏が、空蝉と間違えて軒端荻にしのんでしまった話をネタにしていますね。光源氏は間違えたことに気づきつつも軒端荻と関係を結んでしまいますが、道綱はそれができなかった。女性に恥をかかせないが不誠実な光源氏か、間違いを誤魔化して傷つける道綱か…どちらもアウトな気がしますが、何はともあれ、道綱が、道長を結果的に諭した妾の辛さの話で爆上げした株を一瞬にして暴落させたことだけは間違いありません。


 さて、そんなこともつゆ知らないまひろは、眠れないまま月を眺めながら、寧子の「書くことで己の哀しみを救った…」という言葉を噛みしめます。彼女はこれまでずっと、世のため、人のためにその学問を活かす方法を考え、「進むべき道」を模索してきました。しかし、それらの試みは失敗したばかりか、自分自身の心を何も救わず、彼女の憂鬱、哀しみを深めてきました。そのため、彼女は挫折し、自分の学才の無力に絶望しかけ、一歩も前に進めないことに忸怩たる思いを抱いていたのです。

 しかし、寧子の言葉は、その学問を自分のために使っていいということです。そして、それこそが自分を救い、ひいていは他人を救うことにもなったのが「蜻蛉日記」です。「蜻蛉日記」を書くことで寧子自身が救われ、それが世に出されたことで兼家も救われ、そしてまひろを始めとした読者も慰められた。自分が慣れ親しんだものに、自分の求める答えがあったのかもしれないのですね。
 思えば、まひろが物語を書くきっかけになるかもしれない、この出会いこそが、「光る君へ」では重要だったのかもしれません。そのために、寧子の夫、兼家の存在がクローズアップされ、まひろは道長と哀しい恋をしたのかもしれない、作品の構造を考えるとそんな気すらしてきますね。


おわりに
 人は何のために生きるのか。誰しも一度は突き当たることでしょう。本作で描かれる平安期の貴族たちの大半は、迷うことなく「家」の繁栄のために生きています。
 たしかに「家」とは人の寄る辺にはなりますが、兼家に代表されるような「家」の繁栄だけを是とし個人を道具としていくことが、必ずしも平穏や幸せを生むとは限りません。自棄に陥った道兼、「家」のなかで役割がなく厄介ものになっているさわの存在は、それを示しています
 また、我が「家」だけを優先し続ければ、周りの恨みを買い、かえって「家」を危うくします。今の道隆の専横がそれを象徴しています。
 
 「家」とは絶対視するものではありません。それを重視する社会である以上、そこからは逃れ得ませんが、一方でそれ以外のことで自分の居場所をつくり、自分の「進むべき道」を見出していく必要もあるのでしょう。
 例えば、雅信は、家族愛を「家」の繁栄より優先させることで家族に看取られる最期を迎えました。道長は、「この国の未来」と「民を救う」という志をその優しさと強い信念で叶えようともがいています。ききょうは、己の才覚だけで定子のサロンに居場所を作り、己のために生きようとしています。道兼も「家」の呪縛を解放され、何やら別の動きをしそうです。
 時代の移り変わりのなかで、それぞれが自分の居場所と「進むべき道」を見出そうとするその姿が描かれたのが第15回だったと言えそうです。まひろもまた寧子との出会いで、自分の才覚の使い道の新たな方法が見つかるかもしれません。各自に選択がどういう結果を生むのか、それは少し先のことになりそうですね。

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