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学びとはベクトルである

受験勉強の意味を模索しようと思ったきっかけ


ただいま高2の2月後半、最近は気温も安定せず暑かったり寒かったり忙しい感じである。
そんな天気に揺さぶられるように自分の心も揺れている。高2の春は受験を意識し始めることから激情の時期…
不条理に突き動かされるように勉強を始める。
私は、周囲の人間と比べて将来への不安を抱きやすい性格であったため受験勉強には早めに取り組んでいたが不安は募るばかりである。
そのような中ではあるが、ひたすら勉強するのも癪であるため、勉強の意味について模索しようと思う。
 私がこのようなことを思い立ったのには一つのきっかけがあった。それは父の言葉であった。私と父とでは意見が合わず反発ばかりしている。これは反抗期という言葉一つで片付けることも可能であるが、敢えてここではその可能性を排除しようと思う。まず父の主張としては親としては珍しく、勉強とは社会に出る上で必ずしも役に立たないというものであった。それに対して、私の意見としては、父が勉強を役に立たないと断言出来るのはすでに恩恵を受けているからであって、その恩恵が縁の下の力持ち状態であるからというものである。つまり、当たり前と今になって感じられているものが、勉強をしたことによって得られているということである。例を挙げるとするならば、学歴や英語のスキルや理解力などである。、私が受験勉強を前向きに取り組みたいのに対して、親の意見を蔑ろにするわけにもいかず、心が揺れているのである。


学生時代に勉強をする意味とは

ここから先は私の意見をもとに主張を綴りたいと思う。
私が思うに勉強を学生時代にする意味とは、新たなる視野の創設であると考える。ただしノーベル賞を受賞するような大発見をイメージしているわけではない。あくまで人生において日々接するであろう学問分野に対して地道に仮設の架け橋を設置するイメージである。私は高校生であり、学問というものに対して決して熟知はしていないが、いままで学業に努めてきて気づきがあった。それは、学問同士は密接に繋がっているということである。正直それを気づかせたことは、私に対してすでに主体的な思考を重ねた解決策を模索させるという点で恩恵を与えている。これに関しては少し複雑であるので下に図式化してみる

日本列島の石垣島周辺を原点としたグラフを描いてみた。これらを言語化すると、x軸は時間軸でy軸は人々の思考論理の傾向でz軸に関しては場所という要素を示している。またその他にも放射状にベクトルが伸びているのが確認できると思う。時間に対する思考論理と場所というのは、生徒に対する教師のように、相対的な関係として存在する。またそれらは根底にある考えであることから、不動の軸として固定させてもらった。しかしその一方で、ベクトルとは大きさと向きのみを示すものであり、変動可能である。つまり、ブラジルにあるベクトルであろうが、日本にあるベクトルであろうが零ベクトルでない限り交わらせることが出来るのだ。
「ここでいう零ベクトルは惰性である」

このことから、私が伝えたいことはすべての学問において、たとえ微小な形であったとしても生において架け橋となるということだ。
実際に、古文と化学を例に挙げてみよう。これらは私にとって最も関係性が薄いと感じた科目である。…..どうなるか

かぐや姫の物語 クリエイティブコモンズより

古文において、竹取物語というものがある。上のジブリ作品をご存じの人もいるのではないだろうか、かぐや姫が5人の貴公子に婚約を迫られるシーンがあるが、その中の一人に右大臣阿倍御主人という人がいる。その人は存在するはずのない日鼠の皮衣を要求される。ここで化学的な話に古典を繋げると、日鼠の皮衣をアスベストとする説がある。ここでいう日鼠の皮衣とは不燃性の繊維であり、当時は存在しないと考えられた。しかし、石綿といって社会問題となっている燃えない化学繊維が当時も存在はしていたという感じである。

主観であるが想像力と知識を蓄えることで人生は豊かになると思う

自分

日本は学歴社会なのか

 上においては、高校生の一人として純粋に学習を楽しむ意義を唱えたが、
それらが将来になってよい風を吹かすかはまた別の問題である。現在楽しいから勉強をするというのは楽観的な思想であり、ギャンブルや薬物を一瞬の快楽のために行っているのと変わらないと捉えることも可能である。 

 役に立つか否かは何によって決まるのかを考えたいと思う。
まず初めに、一概には言うことが出来ないが、自分の評価を自分に適応させることは不可能である。私は優秀だから優秀であるということは論理としては破綻しているようにである。必ずしも評価というものは客観性を帯びている必要があるのだ。つまりである、人間は将来生きるうえで他人に役に立つか否かを評価されるということである。
私が縄文時代の人間だったら狩猟採集民として生きていけばいいわけで関係のない話であるが、現代社会を生きる以上考慮されるべきである。
企業といった社会集団は目的理論に基づいて形成された集団であるが故、
価値判断基準が感情論から合理論に移り変わっていくものである。
採用面接の際に、学歴が判断基準として用いられることは想像に易い。学歴とは、忍耐力や忠実性をはかる指標にもなり得るためである。
初対面で読み取れる情報というものには限りがある。
近年では学歴フィルターという合理化の象徴のような倫理的問題も発生しており物議を醸しているようにだ。
これらから、日本は学歴社会の傾向を帯びていると感じざる終えなかった。

DNAから学ぶオーダーメードの必要性

 ここまで、日本は学歴社会の傾向を帯びていると述べてきた。そこで
学歴を称賛する波に乗るためには決められたテストを受けて計画的に前に
進んでいく必要があるわけだが、それらは時間の浪費のように感じてしまう。
なぜなら、学校の学習ないしテストというものは、個別に設定されたオーダーメードでないからである。医療や道具に対してオーダーメードを求める
時代観の中、教育においてはそのような兆候が表れないのはなぜであろうか。

自ら主体的に学習は選び取っていくことが大切

自分


DNAのスプライシング

上の簡略化してある図はDNAの模式図だ。私は、理系の生物選択であるためDNAを用いて私の思考を説明したいと思う。
まず初めに基礎知識としてDNAの仕組みを書きたいと思う
ここから先は予備知識がある人は飛ばしていただいても大丈夫。
生物の遺伝が苦手であったり知らないとかなり分かりずらい内容である


DNAとは

DNAとは人体の設計図である
コンピューターと同様に人間の体もコードとして構成されているのだ。
AGTCGTACといった形でAとGとTとCの4要素によって決定される。またこれらは、AはTと、GはCとのみが向かい合って結合するという性質を持ち合わせていることから復元機能も有している。どちらか友達同士がはぐれても電話をして再び出会うというイメージでいい。


DNAとは上で記した通り生物の設計図の役割を果たす。しかし一枚のペーパーではなく、冊子の一ページとして考えていただきたい。生物製造百科事典の人間というページを眺めるイメージだ。このようにDNAはすべてを設計図として用いず、必要な転写部分のみを選択している。またエキソンという必要転写部位のみを残し、イントロンという非転写領域を除去するスプライシングという作業もDNAはプログラムされている。
我々人間の思考にもDNAのメカニズムを応用すべきである。


高学歴になるのと、資格を保持するのはどちらが役に立つか

最後に。高学歴となるか資格を求めるか、どちらが良いのだろうか。
私の意見としては、資格を取る方が優位性を占めていると感じる。なぜなら、高学歴は上でも述べた通りイントロンを含んでいる。そのため資格に比べて使わない領域を含むことになるからである。
英検や漢字やHSKに専門資格など、資格といったら優位性は学歴に劣らず精錬された指標となることが予想された。興味を引き出し、楽しみを原動力とする場合、結果に結びつきやすいのは資格取得ではないか。
ある程度、自分の価値を主張する必要がある社会を生きるうえで、有用性という観点でみたら、無理をして高偏差値の大学を目指すよりかは、本当にやりたいことを探究する方が意義を持つと感じた


最後に

将来はどうなるか分からない。そのため自分の武器となるの学習である。
金属は錆びるが知識はある程度は残留する。エビングハウスの忘却曲線というものもあるが人間の記憶は長期記憶させればなかなか忘れない。これは
自分の名前や趣味については語り尽きないことからも分かる。
純粋に興味からそそられる。私は学びを愛していてよかった


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