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川端康成の「千羽鶴」を再読。お茶を習うことで自分に現れた変化。

8年前からお茶を習っている。いつもお点前を間違えて自己嫌悪に陥るし、長時間正座すると膝が割れそうだ。お稽古さぼりたいと思いながら本棚を整理していて、川端康成の「千羽鶴」を2冊も見つけた。お茶に関係する小説なので読んだものの、忘れてもう1冊買ったらしい。再読すると、自分の感覚が8年間で大きく変化したのを感じた。
「千羽鶴」は、昭和24年から26年にかけて発表された小説である。川端康成の戦後の代表作の一つで、志野茶碗(白釉を使った茶碗)が呼び起こす官能的な感覚、愛欲、死の世界が描かれている。
最初にこの本を読んだ時、私はどこがよいのか、さっぱりわからなかった。太田夫人の言葉遣いは、わざとらしい媚態が感じられて気持ち悪かったし、菊治にいたっては「節操のない男」という印象しか持てなかった。文子の行動は全く意味不明であった。
「まあ、今とは時代が違うしね」と考え、一度読んだ本をしまっておいたものの、置き場所を忘れてもう1冊買い、またつまらないと思って放り出したような気がする。
ところが、今回「千羽鶴」を再読し、最初の茶会の場面ではっとした。茶会の場面が映像になって見えるような気がしたからだ。
ゆき子の清潔で素直なお点前も、黒織部の茶碗も、太田夫人の肉感的な様子も、すべて一つの絵として鮮やかに浮かんできた。
さらに読み進めると、志野の水指と茶碗が出てくる。茶碗の描写がなまめかしい。みだらで不潔な感じがするのに、匂いたつように美しく、どこか死の気配が漂う。
志野の美とお茶の世界、菊治、ちか子、太田夫人、文子、ゆき子が織りなす人間模様。70年も前に書かれた小説の登場人物が時代を超え、なまなましく私に迫ってきた。
最初に「千羽鶴」を読んだ時はつまらなく感じたのに、8年間お茶を習い続けたことで、思いがけず自分の世界が広がったのだ。

つややかな水ようかん。よく見ると、とても美しい。

エッセイストの森下典子さんは、著書「日日是好日」で、お茶を続けて自分の視野が広がることを、コップに一滴一滴水がたまり、ある日、あふれる瞬間に例えている。
私のコップにも、知らない間に水がたまっていたのかと思うと不思議な感じがした。
お茶といい、文学作品を味わうことといい、なんと効率が悪く、魅力に満ちていることか。






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