精神障害者は辛いよ
時代
そもそも、時代というのがよくなかった。平成10年、大学に入学してしばしの間は学業に没頭したが二つのサークルを掛け持ちし、自ずと単位の代返や友人との交流に時間が奪われ気が付けば就職活動一歩手前の大学三年生になっていた。
趣味一辺倒でバンド活動ばかりしていたが、保険ということで公務員の勉強もしていた。高校の頃から音楽で食っていくんだと心に決めていたので基本的に音楽の勉強。それ以外に親教師を納得させるために公務員になるというのを進路相談のたびに毎回言っていた。その都度その都度、教師からはそもそも仕事とは大変なものでなどと小言を言われたものだが、自分としては音楽活動でそこそこの成果もだしていたし、兼業で芸能界に入った役所広司さんのような例もある。そう、楽観視していた。
謎の景気後退
が、現在でも言われるように当時というのは就職氷河期世代である。特に私の二個上の先輩方のときは散々で、当時の景気回復動向が一気に悪化につながり採用が滞っていた時期である。大学の先輩も内定が一個も取れず留年する人、田舎に帰る人と悲喜こもごもであった。
同時にそのしわ寄せは自分にも降りかかる。父親の失業である。父においては紆余曲折があってこれはこれで一冊書物が書けそうなほどなのだが、いわゆる中小企業で部長のようなことをしていたような人でぼんくら社長を遊ばせるために会社を回して給料を稼いでいた人だった。それが、紆余曲折を経て自分自身が首を斬られる事態になってしまった。
母親曰く、既に学費は貯めてあるから大丈夫とのことだったが、自分自身も手をこまねいて遊んでいたわけではなかった。大学では公務員の講座(通常の授業とは違うもの)を受講していて、そのとき先生から受験に関するノウハウを教えてもらっていた。それが幸いして大学三年のうちに、郵政事務・外務・市役所の筆記試験に合格していた。大学生というのは高卒と名乗ることもでき、(大学二年生までに必要な単位を取得していた場合は短大卒業という地方中級になる)大学卒業後でも28歳までしか公務員試験を受験することができないというのが当時のルールだった。なので、受けれるうちに数を受けた方がよいとアドバイスに乗った結果である。まあ、結果として面接試験も受験でき最終的に郵政外務の内定までいただいた。多少の迷いはあったが、親が復職しても住宅ローンなどがあり、生計を養うようなバイトをしながら大学四年生を待ち再度公務員試験を受験するような状況ではない。なので、ゼミの教授に相談し無事大学三年生までに必要な単位をすべて取得していたので大学四年生はゼミの卒論を書くことを条件に、ゼミに参加しなくてもよいということにしていただいた。もっとも、当時から大学四年生はほぼ就職活動にいそしむ状態であって、大学三年生からその熱気が漂っておりサークルの同期には「百社履歴書を書いてやるんだ!」などといったつわものがいた。また、親友だったやつにも父親の工場がリストラ策を練っており、リストラの対象になった暁には大学を辞めることになってしまうかもしれないと深刻な顔をしていた。当時はそういう時代だったのだ。
郵便配達のお兄さん、失敗ばかり
郵便配達に内定をいただいたのはいくつか理由がある。市役所の際に言われたことだが公務員には「職務専念義務」というのがある。公務員たるもの副業は禁止だし、それに近いましてや大学生の兼業など認められないというわけだ。一応、面接では「内定をいただいたら大学を辞める」と言っていたが、大学を三年間通わせたものをわざわざ好き好んでやめさす試験官もいないのかもしれない。
当時郵政省として最後の採用ということでとにかく人数を集めていたこと。そして、国家公務員の中には高卒で入職し、その後夜学という形で大学を卒業して要職につくという経歴の方々もいたのだ。つまり、学業の兼業というのは職務専念義務に違反しない。と、いう前例が郵政外務職内定・採用・勤務ということで、市役所の方もOKが出たのだ。
大学四年生の頃から郵便局に採用になったが、当時はバイクも乗ったことのないひ弱なガキが暴走族や体育会系でブイブイ言わせていた先輩方と仕事をともにするわけである。当時はまだ、労働組合も強く半ば強制的に加入させようとするものにロックンロールスピリッツから反抗することもあったが、とにかく半ば強制的に加入させられ仕事を教えてもらいながら半年が過ぎた。この間も事故ばかり起こしており、事故数回、自爆事故数知れずという感じでいつ自分自身入院するような大事故を起こしかねないと思っていた。実際、郵政大学校という大学の行動の一角に郵便配達の間に殉職した人の石碑があるのだが、自分ももしかしたらこの下に眠るのではないかと思ったほどだ。当時の課長には申し訳ないと思ったが、通勤に一時間半もかかる辺鄙な土地で、土地勘のないまま郵便局で一番遠い地区を配達させられていたのでここら辺は何とも言いようがない。一方で同期は同僚間その間に結婚していたり、毎度毎度配達で一時間近く茶をもてなされサボっていたりという状況だった。なんとまあ運のないことか。
市役所10月採用の怪
ある日の休日、父親が市役所の採用あるらしいぞと広報誌を持ってきた。何故か知らないが(入職後まざまざと知らしめられるのだが)4月の職員採用人数だけでは足りないのか10月採用の募集があった。試験勉強はしていなかったものの、お互い人事とも顔見知りという事情などもあり、筆記試験に無事合格後、集団討論と面接を終了し無事内定を得ることができた。途中、電話があり受験区分を高校区分から短大卒区分に変更になったが。
内定後に郵便局を辞めることになるのだが、上司たちは快く思わない様子だった。まあ、そうだろう。とんでもない問題児が、六か月の試用期間を終えて本採用にしたタイミングである。課長としても、郵便局長に確認をされ、念を押された直後の退職である。かなりの罵詈雑言だったが、仕方ないと言えば仕方ないという感じである。公務員の陰湿な点はここでもわかり、九月の最終勤務日は休日だった。故に。九月半ばでの退職扱い。年金記録は一か月勤務したが0.5か月扱いである。
市役所に入職したあとは図書館に勤務となった。自宅から自転車で10分もかからない距離。大学との兼業ということもあり人事の人が気を利かせてくれたのだろう。自分としても仕事は楽だったし、公務員の仕事なんかやはりこんなものか、とタカをくくりはじめたところだった。時期は十二月、忘年会前に毎年恒例の人事異動の時期の確認だ。
重なったバッドタイミング
市役所のなかでは忙しい部署もあったようだ。図書館の先輩に介護保険制度立ち上げ時の介護保険課の先輩もいたし、保育園の先生から事務職に事務員に転用になった人もいる。同時に精神疾患と、子どもの登校拒否の問題に直面していた職員もいたし、軒並み図書館は避難所という感じであり、後から思えば理由がなくなった自分がなぜいられるかと思いこんだのも不思議な話でもあるが。(課長、上司方は一向に人事異動は反対だったみたいだが、これもまたいわくがある)。
この時、自分には様々な不幸が重なった。まず、第一に図書館は市役所の出先機関であり、人事異動の紙をなんて書いていいのか同期の様子がまるでわからなかったのである。同じように出先機関の水道部に配属になった同僚は土日休みが本庁舎と一緒なのでなんとか理解することができたようだが自分は逆に土日が通常勤務で月曜日が休日。どうしても交流というのは乏しかった。当時はまだスマホもなければラインもない時代。メールアドレスと携帯電話番号がたよりであった。そんな中でこれまた図書館という形態の都合上、金曜日の朝に渡された人事異動希望用紙は金曜日の本庁舎が閉じる時間までに記入という本庁舎都合の締め切りで図書館の先輩の言う通り「書くだけ書いておいて、あとは上の人が決めることだから」ということで五段階真ん中の三に〇をつけ。どうしても異動したいわけでもなければ何が何でも異動したくないという風に回答した。これがまさか、六か月で広報課に異動になる羽目になるとは自分でも思わなかった。
後から聞いた話では市役所では入職したての職員は全員異動したくないに〇をつけていたそうで、代々そのようにしなければ飛ばされる可能性があるとのことだった。こうして、不幸にも月間残業時間百時間を超える激烈忙しい広報課勤務になった。
悪夢の広報課
図書館時代は残業というのはほぼなくて、最低限の勤務時間の変化八時半勤務が九時勤務にかわり退勤時間も同様。また、土日祝日が開業するので休日出勤手当を請求するように記載するのだが、実際は平日に休みが取れるので本庁舎勤務の人間と勤務時間も休日も同じ。しかしながら当時導入された庁内LAN(一人一台のパソコン支給)の研修など遅れにおくれを取っていた。図書館時代は課長と課長補佐は既にパソコンが用意されており堪能だったが、一年前は自己所有のノートPCで仕事をしていたとか。それ以外の職員には一台の共用パソコン(無論、インターネットにはつながってない)で、そのうえで隣の児童館の職員がたびたび借りに来るという状況だった。市役所本庁舎は既に一人一台が設置されていたようでPC業務がろくにできいないのは自分と水道部の同期くらいだった)
こんな状況で市役所職員の文書の起案や会計処理(漢字は忘れてしまったがカン・コウ・モク・セツ・サイセツと予算がそれぞれに分けられている)そのノウハウを習得する間もなく激務の広報課に異動になった。
広報課は当時の市長が鳴り物入りで「情報公開の機関」とこれまた市役所本庁舎の横にある公文書館という施設に広報課を異動させるというものだった。図書館は月曜日なので休日だったが、四月一日は月曜日で荷物をもって恐る恐る公文書館に出勤した。出勤すると、研修の時お世話になった課長補佐がべらんめえという感じで、その下で事務員をしている司書のSさん(この人は学芸員の資格ももち、たびたび図書館にもいらしておりであいさつをしていた)に真新しいデスク三つが並んだところに案内された。
八時半勤務開始にも関わらずいっこうに訪れない先輩職員と先輩係長、そして課長に不安になり十時を過ぎた頃だろうか、前部署になるはずである市長室に顔を出しに行ってみた。ここは市長が目の前におり、秘書業務を行う部署とそれを広報・周知させ、同時に広聴という市民の意見を聞く部署というのがあった。当時、出世の最前線を行くK氏に会ったのはここが初めてだ。挨拶一番「そこに座ってろよ」とすべての言葉が命令口調であったのを覚えている。係長にあいさつにいったのに何故かまだ主任にもなってない、当時として階級にしては同じ主事のハズのK氏。ここから地獄のパワハラが始まる。
係長とK氏と残業と
当時、鳴り物入りで市長が実現した公文書館での情報公開。意味としてはあったと思うのだが、このときはじめて課長に昇進する物腰柔らかなE課長(肩書公文書館館長)と、同時に主任から係長に抜擢され、最近では合併した市長の別市町村の支部長(部長級)まで出世した杉村鷲宮支所長がいた。(現在は御退職されているようだが)
命令系統は市長から部長を経由して課長、課長補佐、係長になった杉村係長から命令が下るという形だ。しかし、K氏(当時結婚したての三十過ぎか)と杉村係長の間に変ないさかいがあった。仕事に関しては確かにK氏の方が切れ者という感じではあったが、命令系統的には杉村氏が上であるという自負もあったのだろう。やや煙たい感じもありつつ、広報広聴係を私を含め三人で回さねばならない事情、またK氏が広報発行の実務を行っており優秀であり文句のつけようのない仕事っぷりは人手不足の現状文句は言えず、問題が起きれば管理職の責任なのでなんとも言いようのない関係。私が配属後は私とK氏で広報を発行し、杉村氏は広聴の方を一手に受けるという。人口七万程度の都市ではごくありふれた光景なのだが、こんな感じで仕事の体制は始まることになる。時は大学を卒業したての22歳。世間知らずの無知であった。
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