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ニトリと長谷川と荻江。



あなたはニトリで買い物をした際に、見本の商品をレジに持っていってしまったことはあるだろうか?



基本的にニトリの販売商品は箱に入って陳列されているのだが、それとは別に売り物ではない見本商品も展示されている。


当時、私は人生初めてのニトリでの買い物で浮き足立っていた。箱に入っていない上に”見本品”とデカデカと書かれたタグが付いている見本商品を盛大な勢いでカゴにぶち込み続ける男。一時的に視力を失っていた可能性も否定できない状態だった。思い出すだけでも顔から火が出るような愚行。


恐らく私の奇天烈な行動の一部始終を見ていた人たちは、思ったことだろう。


「So What?」


見本商品を大量にカゴに入れてルンルン状態の私は、安くてデザインの良いニトリの大ファンになっていた。カゴに入っているのは半分ほど見本商品ということに気づかずに、である。


休日で多くの人が訪れており、レジの列は少々混雑していたが、その待ち時間ですらも心地がよかった。「お値段以上、とは大したキャッチコピーだ」と呟き、私はカゴの中の鍋をうっとりと見つめ、美味しいカレーを作るイメージトレーニングをしていた。


ちなみに鍋には”見本商品”とデカデカと書かれたタグが付いている。その鍋でカレーを作ることは一生ないという事実を、その時は知る由もなかった。


カゴの中の食器水切りを指先で愛撫していると会計の番がようやく回ってきた。ちなみに水切りにも”見本商品”とデカデカと書かれたタグが付いている。



今日はいい買い物できましたという顔で私はレジの長谷川さんにカゴを預けた。長谷川がテキパキとレジに商品を通す。


早く家に帰って濡れに濡れた食器を水切りで水切りたい。


恍惚な表情で皿の水を切る妄想をしていると、長谷川が突然「これ、ミホンですね」と呟いた。「あ、これとこれもミホンですね」と畳み掛けた。そして一瞬の沈黙の後、「これもミホンですね」とダメ押した。


長谷川が店内の誰かに電話をかけ始めた。


「ミホン対応お願いしまーす。」


電話の向こうの誰かに長谷川はそう伝えた。そして長谷川は私に伝える。


「これ、見本商品なんです。」


状況を理解した私は頭が真っ白になった。


そして会計が中断される。列に並ぶ後ろの人たちからの目線が痛い。


先ほど見本対応を長谷川に頼まれた荻江が小走りで駆け寄ってきた。


長谷川が見本商品を荻江に預ける。荻江は恐らく箱に入った販売商品と、私が棚からひったくってきた見本商品を交換してくるのだろう。


「荻江に見本対応をさせてしまった」という事実。恥ずかしさはピークに達した。

”見本商品”とデカデカと書かれたタグが付いているのにもかかわらず、それをカゴに入れてレジまで持ってきた男。私は人間失格というタグを付けられた。目の前の景色が徐々に薄れていく。


完全に終わった。私の社会的地位が脅かされ、将来の人生設計が音を立てて崩れ去る。長谷川と荻江に孫の代まで笑われるのだ。ハハ、あいつは見本をレジに持ってきた岡安の孫だぜ、と。


荻江が小走りで戻ってきたようだ、足音が聞こえる。


長谷川の声がどこか遠くから聞こえる。


「5,000円になります。」


薄れゆく意識の中で私は呟いた。


「神様、私の目は節穴なのですか?」



震える手で5,000円札を長谷川に手渡す。


目の前にいるはずの長谷川の声が、どこか遠くで聞こえる。


「5,000円丁度いただきます。」



荻江はどのくらい長い間、見本対応をやっているのだろうか。レジ打ちを任されるまでの長い長い修行期間。荻江は私という愚か者を踏み台にし、ニトリの頂点目指して駆け上がっていく。今日、長谷川の背中が少し近づいたに違いない……



長谷川っ…………



そして踏み台となった私はこの後黒い服を着た男達にバックヤードに連れ去られ、ニトリの見本品のタグをつける仕事を一生させられるに違いない……


私は自分の運命を受け入れようとしていた。



「ポイントカードはサービスカウンターで作れますので。またのご利用お待ちしています。」



……?


またのご利用お待ちしています?


この愚かな失敗を犯した私を見逃すのか……?


長谷川は神様だった。


神が長谷川という人間の姿形をしてニトリのレジに立っていた。


見本商品をレジに持ってくるという大罪を犯した私のような愚かな人間にチャンスを与えたのだ。その時、確かに長谷川に後光が差していた。恐らく荻江は長谷川の使いっ走りの天使か何かに違いない。



長谷川は私を許したのだ。罪深きこの私を。



私は、神が言うままにポイントカードをつくった。



そして近所のスーパーでじゃがいもとニンジン、豚肉を買った。





家に帰ってからカレーのルーを買い忘れたことに気づいた私はそれ以来、二度とニトリには近づかないようにしている。


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