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修身と東洋式経営管理


修身の位置づけ

前回の記事で、四書五経のひとつである『大学』には、「格物、至知、誠意、正心、修身、齊家、治國、平天下」という人間の成長の順序を定める八条目があると書きました。しかし、同じ段落の最後で「自天子以至於庶人、一是皆以修身為本(天下を平らにする天子から庶民に至るまで、みな修身を根本とすべき)」とも書かれています。八条目の最初にある「格物」ではなく、あえて途中にある「修身」を根本にすべきと書いてあるのです。

『大学』だけではなく、『弟子規』も修身に特化しており、詳細かつ具体的な行動規範を示しています。さらに『弟子規』の由来である『論語』や『孟子』の中でも修身を根本とする考えがあります。なぜ古代中国の経典では、いずれも修身にこだわるのでしょうか?

実はその答えは意外でありながら、とてもシンプルなものでした。修身より前にある格物、至知、誠意、正心は君子が修行する項目だというのです。つまり、人間として生きる上では修身より以降が必修科目となります。では、具体的な修身の方法やポイントについて解説します。

修身を実践する

修身とは文字通り「身を修める」という意味です。最初の実践の場は、親との関係構築にあると『弟子規』や『論語』で書かれています。いわゆる「親孝行」です。親という一番近い存在との関わりの中で「○○をしたら喜ばれた、怒られた」などの実践を通じて人間関係の構築方法を学んでいきます。さらに親から兄弟、友人、先生など、徐々に社会的な人間関係にまで場と対象を広げていきます。

一方で、大人になって役職や責任範囲が広がれば、反対意見を示したり叱ってくれる人は徐々に減っていきます。いわゆる「裸の大様」です。時々ニュースで企業の社長や著名人らの不祥事を目にすると、周囲に間違いを指摘する人がいなかったのだろうかと思案します。ただ、完全な人間はいないので誰しも間違いは犯します。『弟子規』では自身の間違いに対する指摘を喜んで聞き入れましょうと書いてあります。

聞過怒 聞誉楽 損友来 益友却
欠点を指摘され怒り、誉められて喜ぶ、
(そのような人には)損友が近づき、益友は離れる。

聞誉恐 聞過欣 直諒士 漸相親
誉められて恐れ、欠点を指摘され受け入れる、
正直で誠実な人は、次第にお互い親しくなる。

『弟子規』信

間違いを受け入れ、正していけば、周囲との関係性は良くなっていきまし、さらに誠実な人が自分のネットワークに増えていきます。類は友を呼ぶ。

※ここで気を付けなければいけないのは、『弟子規』では褒めることが悪いことと言っているわけではありません。甘い言葉をかけて、惑わせてくる人には気を付けましょうということです。

※また、褒めることは実はとても難しく、褒めれば自己肯定感の高い子供が育つということはありません。そして、組織においても褒めればモチベーション高く仕事をするということでもありません。褒めることで生じる副作用の方にも目を向けてみるべきだと考えます。(そもそも自己肯定というのも異議あり!なのですが、脱線するので、また別の機会にでも。)

“孝”に対する誤解

修身は親孝行から始まると書きましたが、”孝”は「なんでも親の言うことに従え」という意味ではありません。例えば、親が怒って頭を叩いてきたら一旦は受け入れるとしても、さらに激しく叩いてきたら逃げるべきです。東洋思想では、教えは絶対的(静的)なものではなく、時と場合と相手によって合理的(動的)に対処することを説いています。まずは基礎となる規範をしっかり実践し学びながら、その上で応用展開していきます。

※東洋思想の教育が静的ではなく、動的だということは非常に重要なポイントです。良く知られている代表例ですと、陰陽の考え方:世の中のものごとは「常に相互作用していて、結局つながっている」。したがって、教育も動的でなければ合理的ではなく、東洋思想は決して時代遅れになることがなく数千年も現役なのです。(陰陽の太極図について詳しくは東洋思想から考えるジェンダー論③に書いてありますので、覗いてみてください。)

東洋式経営管理

東洋では、経営管理は「修己安人の歴程」であると認識されています。これは「自分の身を修めることによって人を安んずる道筋」という意味で、『論語』から引用しています。(『論語』憲問十四:「子路問君子。子曰、修己以敬。曰、如斯而已乎。曰、修己以安人。曰、如斯而已乎。曰、修己以安百姓。修己以安百姓、堯舜其猶病諸。」)

人が安んずれば、自分も安んずることができます。「あなた幸せ、わたしも幸せ」というやつですね。逆に、自分だけ安んじても、他者がそうなるとは限りません。現代社会における企業経営も、まずは事業を通じて顧客の持続的発展に貢献し、その結果として会社の利益や社員の幸せをもたらします。これが経営管理の"道筋"です。最終的に自分が安んずるために、まず周りを安んずる。そのためにまず自身の身を修めることから始めるべきだと『大学』は説いています。(※この「安」は安定などの落ち着いた静的ではなく、「孝」と同じ動的なものです。)

日本の名経営者のひとりであった稲盛和夫氏の著書『生き方』に、こんな一説があります。

現在の日本社会についていえば、リーダー個人の資質というよりも、リーダーの選び方それ自体に問題があると考えられます。
(略)
そこには、戦後の日本を覆い尽くしてきた経済成長至上主義が背景にあるのでしょう。 人格というあいまいなものより、才覚という、成果に直結しやすい要素を重視して、自分たちのリーダーを選ぶ傾向が強かったのです。
(略)
かつての日本人は、もう少し、遠回りだけれども「大きなものの考え方」をしていたものです。わが敬愛する西郷隆盛も「徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を」と述べています。つまり功績にはお金で報いればいい、人格の高潔な者こそ高い地位に据えよといっているのです。
(略)
人の上に立つ者には才覚よりも人格が問われるのです。

稲盛和夫『生き方』

※「徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を」の原典は『書経(尚書)』の「德懋懋官,功懋懋赏。」に由来します。西郷隆盛氏もまた広く古典を読んでいたことがわかります。

偏差値は学歴に、売上は業績評価に直結しますが、人格はどこかに明確に記載されるものではありません。身を修めても収入に直結するわけではありません。それでも人間は、修身から逃れてはいけません。なぜなら、才覚があれば世を豊かにはできても、人格がなければ世を幸せにはできないからです。

株主からの圧力によって短期利益を追求し、行き過ぎた資本主義経済の綻びが、環境破壊や富の偏在という形で表れ始めています。一方、日本の企業は存在自体が持続的です。日本には、200年以上続いている企業が3,000社以上もあります。これは世界の半分を占めていると言われています。一人ひとりの修身は人格につながり、その集合体である組織の品格につながり、最終的には企業の品格につながります。いま日本企業はなかなかイノベーションを生み出せずにいるといわれていて、時価総額ベースでは世界のグローバル企業との差が広がっていますが、地に足をつけてやるべきことをやり、その結果として社会に受け入れられ続けていることを、もう少し誇りに思っても良いのかもしれませんね。

車文宜・手計仁志

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