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音楽と礼儀とラップと韻文と声、そして散文

 以前、こういうついーとを見て、気になった。

昨日のインタビューで、どうして我々音楽家は「戦争反対」とか、そういう夢想家と呼ばれるようなことを言うのかという話題になりました。それでふと口から出たのは、複数の人間で音楽を演奏をしていると、趣味や出自が違っても、信じられないくらい幸福な瞬間があるんだと。それを知っているからだと。Gotch 8:55 - 2015年5月8日

 中国で組織的な音楽を教えたのは黄帝だといわれている。ウィキペディアによると生没は紀元前2510年~紀元前2448年、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。黄帝は、それぞれ異なる楽器を演奏し人の心を動かす音楽を作る過程を教えることで、共同体がうまく機能する要諦を伝えたのだという。

 わたしは楽器を何ひとつ操れない無粋な人間だからこういうエピソードを聞くと単純に羨ましくなる。生まれ変わったら、もしもピアノが弾けたならなどと思う。あるいは気の済むまで思い切りオーボエを吹いてみたいと思う。いや、やっぱりピアノがよい。ブレイクビーツに乗せて高音のキーをポロンポロンと自在に奏でてみたい。

 それはさておき、孔子がこういう言葉を残している。以下引用。

そもそも書かれた言葉は、口頭で語られる言葉ほどには意志を伝えるものではない。そして、口頭で語られる言葉は、書かれた言葉ほどには意志を伝えるものではない。話し言葉と書き言葉の間には大きな隔たりがある。

 わかったようなわからんような言葉だが、文字あるいは言葉の特徴を言葉あるいは文字で捕まえようとするとこうなるのだろう。先に述べた音楽とのつながりでわたしなりに解釈するとこうなる。「音楽は表現として完全である。言葉あるいは文字は常に半分だけ顔を見せる。半分は隠れている。あるいは隠している。意図するにしろ、せざるにしろ、常に半分は陰に覆われている。」

 孔子は、『論語』のなかで「詩」を学べと弟子たちに何度も繰り返し言っている。以下引用。

詩、三百、一言以ってこれを覆えば、曰く、思い邪(よこしま)無し

 20世紀に生まれたラップは、始め音楽のビートだけを取り出した誰かの思いつきであった。 そもそも始めには異なる楽器を奏でる集団の基底にあるリズムがあった。そのリズムに乗せて言葉あるいは文字を語るMCは添え物として存在した。しかし、たちまちのうちにビートとMCの重要性は入れ代わった。原因は「意志」である。音楽には「意志」はない。音楽には、言葉あるいは文字で名付けられるような目的は無い。音楽は伝えるものではない。いや、音楽は伝えるものである。しかし、音楽は伝えるものでありがなら、その場に瞬間として存在するものである。瞬間として人々に伝えられ、瞬間として消えてゆく。音楽は調和であり、幸福である。

 「複数の人間で音楽を演奏をしていると、趣味や出自が違っても、信じられないくらい幸福な瞬間がある」 という音楽家の言葉は、20世紀に生まれた音楽の一ジャンルであるラップと並べてみると興味深い。

 現時点では、 ラップはMCが主導権を握っている。ビートに乗った言葉(文字)が脚光を浴びている。語られる言葉、書かれた言葉がブレイクビーツに乗って人々の耳に意志を届けようとしている。

 しかし、 そこで語られる言葉、書かれた言葉はどういうものか。批判。怒り。ディスり合い。嫉妬。限られたパイを奪い合う罵り。大声。ヘイト。性差別。ちっぽけな身を守る愚痴。「幸福な瞬間」 を語る音楽家と言葉に執着するラッパーとの違いは非常に興味深い。ラッパーは音楽には感謝の念を隠さない。しかし言葉には容赦無い。自分の身を切るように言葉の中に見えない敵を探して身悶えする。とはいえ、ラッパーの語ろうとする、記そうとする言葉は美しい。いちおう、かれらはルールを守っているから。韻を踏んでいるから。


思い邪(よこしま)無し


 ラップは音楽と言葉の狭間にある。 詩とは、言葉・文字が音楽に近づこうとする試みなのかもしれない。反対に、言葉から音楽を取り去ったらどうなるか。言葉が機能だけになったらどうなるのか。散文というのは、韻文の対義語であるが、「散」という文字には侮蔑の意が込められている。「韻」よりも格下ということである。言葉が音楽を忘れ、韻も踏まずただ語られ、あまつさえ声も失い、主体も消してしまったらどうなるのか。具体例はそこいらじゅうに、インターネット空間に転がっている。肝に銘じなければならない。


○○参考&引用『漢字はすごい!』山口謠司

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