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どこにでもあるかもしれない今日という奇跡の日の物語り

「とんでもない夢を見たんよ」

母が深いため息をつきながら、私と姉に言った。

「お父さんがね…、象を買ってきたんよ。本物の象よ」

夢だというのに、母はとんでもない重大な秘密を告白するかのように、最後の「本物の」というところは、なぜか小声で言った。

私と姉は吹き出し、腹を抱えて大笑いした。

「なにそれ最悪じゃん」と姉。

「ほんとに気が狂いそうになるわ」

母は笑いとも泣きとも怒りとも見える複雑な表情に顔を歪めた。

事実、父は「本物の象」すら買いかねないような破天荒な人だった。脱サラをして、海外からの美術品を輸入する会社を始めた。会社といっても商品の在庫は家に届くのだ。

1番すごかったのは直径4、5メートルはあるだろうかというほどの巨大な石像が、クレーン車で家の庭に運び込まれた時だった。クレーン車が近所の家の外壁をこすり一悶着もあったように記憶している。

木箱に入ったその石像は、しばらく家の庭にドテンと横たわっていたのだが、母によると、後にあれはどこかの県のお寺の関係者の筋に、仕入れ価格にも届かないような値段でやっと購入してもらうことができたのだとか。当時女子高生だった私には石像はキツかった。普通なんてつまらないと思う年頃だけど、こと家に関してはどうか世間から普通に見られますようにと、恥ずかしさにびくつきながら生きていた。

あの頃、家族は父の熱狂的なビジネスのやり方に翻弄され、ただ唖然として、濁流に呑み込まれる被害を最小限にとどめるべく、各々の人生を家庭の外で生きることで自己防衛しながら生きていた。

母は公務員としてコツコツと真面目に働き、姉はバブル期の女子大生で、私はパンクやロックや小説が好きで奇抜なファッション雑誌をバイブルにしていて、自分は学校の人とはちょっと違うようであると思いながらも、現実はとりたてて抜きん出だ才能もない、なんとなく毎日を生きるただの地方の高校生だった。

エメラルドグリーン

綺麗な緑色のまあるい実がコロンと地面に落ちているのを息子が見つけた。殻が割れて中が見える。

胡桃だ!

硬く茶色い胡桃の殻は、こんなにも鮮やかなエメラルドグリーンの実に覆われて、中にひっそりと隠れていたのだ。エメラルドのような宝物のような…不思議な存在感。誰かの落し物だろうか?
よく見ると、あっちにもこっちにもコロコロ。

見上げると枝をどさりと広げた大木に、ピカピカに輝くエメラルドグリーンのまあるい実がたくさんなっている。

「そうか! これが胡桃の木なんだ」

そこに良い木があれば必ず登りたがる10歳男児。かなりの大木でなかなか困難にみえたが、胡桃の木にどうしても登りたいとうんと粘るので、息子の尻をエイヤと持ち上げ手伝った。奮闘したが、ようやくすとんと木の幹に座ることができた。

誰もいない静かな夕方。木の葉がさわさわ揺れる音。犬と私は木の上の息子を見上げて見守る。胡桃の木の上で、息子の目にはいつもとはちょっと違う風景が見えているだろうか…。

毎日やっていることといえば子育てだけで、探検の範囲もせいぜい近所を歩き回るぐらいだけど…。胡桃というものはあんなに美しいエメラルドグリーンの実の中に入っていたのだということを知って、あの立派な木を思い出し、なんとも良い日だったなぁと、今日という日の余韻を味わう。

発見とはすごいものである。地面に落ちている小さな実を拾い上げるか素通りするかで、世界すら変わることがあるのかもしれない。

その夜、女優の樹木希林さんがナレーションを務めるドキュメンタリー映画「人生フルーツ」をYouTubeで発見し、ぐっと引き込まれ鑑賞。
すると途中、画面に今日見た「エメラルドグリーンの胡桃の実」が出てくるではないか。
津端修一さんがナイフで丁寧にその実を削るシーンに「これはなんでしょう? アボカドみたいな?え? く、胡桃? ほぉ~」という樹木希林さんの深みと愛情のあるナレーション。

ほんの数時間前に息子と一緒に人生ではじめて見たあのエメラルドグリーンの色をした胡桃の実が画面に生き生きと映っていて、私はこのタイミングに絶句した。

実は樹木希林さんには特別な思いがある。
樹木さんの葬儀の時に、アゲハ蝶が現れたという記事をどこかで読んだのだ。

「葬儀中に突然、現れたアゲハ蝶」というその記事には、娘の内田也哉子さんが “積年の親とのわだかまりが解けた”と参列者に語っていた時にアゲハ蝶が姿を見せたというエピソードが書かれていて、その光景は、私が体験した父の葬儀の時とそっくりで、あの日のお堂の静けさと蝶のひらりひらりとした羽ばたきを思い出させたのだ。

こちらのスポーツ新聞の記事でした

台風24号が襲った9月30日、樹木希林さん(享年75)の本葬儀の取材で東京・光林寺(南麻布)に行きました。そこで信じられないような不思議なことが起きました。

 ちょうど娘の内田也哉子さんが“積年の親とのわだかまりが解けた”と語る挨拶をしているときでした。開式までぐずついていた空模様がうそのように、そのとき晴れていました。希林さんも生前に見た樹齢300年という立派な桜の木そばに、アゲハ蝶が姿を見せたのです

2018年10月3日 16時0分スポーツ報知

魚座の父

破天荒で計り知れず、簡単にいえば「常識では収まらない」人間だった父。晩年はその得体の知れなさが増し、腫れもののような存在として家族をとくに母を翻弄し続けた。

癌が発覚し死にゆくあの父という人間をなんとか生きている間に理解しようと努めたのだが、なにせ会話らしい会話もない親子関係だったので結局理解をし合い涙をこぼすというような場所には最後まで到達することはできず、生前の父と私の間にはドラマのようなことはなんにも起こらなかった。

しかし、父が死んだあと、叔父やまわりの人から私の知らなかったさまざまなエピソードを聞くことになろうとは、そしてそれこそが後に私自身の人生の転機になるとは想像だにしていなかった。

お通夜で約30年ぶりに会った父のお兄さんである叔父さんたち。我が家は特に父方は、長い間親戚付き合いなどもなかったのだ。事業がうまくいかなかった父はプライドもあり、おそらくお兄さんたちに顔向けができないという思いを秘めていたのではないだろうか。

久しぶりに会った叔父さんたちは優しくて穏やかで素晴らしい人たちだった。心を閉ざして疎遠になっていたのは、父の方だったのだろう。

叔父たちから聞いた父の物語。

海辺の街で育った少年時代、たくさんいた友達のこと、お兄さんに水泳を教えていたこと、はじめて就職したときのこと、父の純粋な一面、母と出会った若き頃のこと、父を慕ってくれていた人がいたこと…。

そんなエピソードひとつひとつが、鮮やかで自由で純粋で、溢れる希望を抱いて歩いていた、父の本来の姿を見せてくれたようで、私はこんなにも父のことを知らなかったのだと、胸がいっぱいになった。

そして、3人兄弟の末っ子だった父は、母親の秘蔵っ子でとても愛されていたということをはじめて聞き、それは私に途方もない大きな安堵をもたらした。

叔父さんは言った。「あいつは地に足が着いとらんかったけえ、あなたのお母さんには迷惑をかけたじゃろうのう。良くいえば空の星を追いかける宮沢賢治のような人間じゃったんよのう

事業に失敗した後の晩年は酒に溺れ人生に怒りを持っていたが、本当は人には優しかった父。夢や希望をたくさん抱いていた父。海辺の田舎町で兄弟や友人たちと魚のように泳ぎ育った、魚座の父。考えたことすらなかった父の永い物語。

この日を境に、私はこれまでまったく知らなかった父の唯一無二の人生の輝きのカケラを拾いあつめることに時間を費やした。そして、長年理解にくるしんだ部分がサラサラと溶け、後にすべてが赦しと、感謝と、無償の愛のたたずむ場所へと着地した。

両親の夫婦だけにしかわからない複雑な愛情もあるのだということも父が逝ってから理解した。
直接本人の口から語られたわけではなかったが、故人についてまわりの人から話を聞くという方法で、こんなふうに父という人間について、若かった両親の軌跡について知ることができたのは、私の人生においてまさにドンデン返しの出来事だった。

お葬式のアゲハ蝶

6月9日。よく晴れた穏やかな日だった。真昼のお寺のお堂に、お坊さんの読経が静かにゆれる。しんとした空気、まるでゆりかごの中にでもいるかのような心地よい風が漂っていた。ぼんやりと霞んだ目で父の遺影を眺めていた。

父の人生、父の魂のゆくえ。写真でしか見たことのない父の母親である祖母の顔が、とつぜんゆらりゆらりと脳裏に浮かんできて、父の遺影のその顔にぴったりと重なった。かつて母親からうんと愛されていた父は、


そうだ、幸せだったのだ

その瞬間、開け放たれていたお堂を囲む障子戸からとつぜん突風が吹き込んだ。

春一番のようなザザザという不思議な風。

その時だった。

一頭の黒いアゲハ蝶が「ひらり」と姿を現し、祭壇の下から優雅に旋回しながら父の遺影を通り過ぎ、一番上の観音像のうしろの方へ飛んで消えた。


「あぁ、お父さんはいま成仏できたのだな」

私は確信した。突風についてはその場にいた全員が顔を見合わせて首をかしげていたが、そのアゲハ蝶を見ていたのは私と読経をあげたお坊さんだけだった。

星のようにきらきら光る

胡桃からの樹木希林さん、そして久しぶりにあの葬儀の日の不思議なアゲハ蝶のことを思い出した1日だった。その晩、エンジェルカードを引いてみた。「Contentment」小さなカードにはそう書かれ、意味は「満足」。天使が植物を観察していて側には蝶の挿絵が添えられていた。


蝶が、また、現れた…!


エンジェルはちゃんとながめている。私はもう絶句を通りこし、そこにあるメッセージを大切に読みとろうと、心を落ち着かせた。

「人生の今ここを味わい創造力を絶やさずおもしろがること、不安からくる努力を手放すこと、満たされた喜びと安らぎを見つけること」

このエンジェルカードのメッセージである。なんとなく、樹木希林さんのあの深みのある声で語られている気さえする。

人生は短く、地球上の生物の命は限られた時間しかない。

鳥だって植物だって虫だって、瞬間しか生きられないけど、その瞬間を喜びながら生きている。今この瞬間を季節とともに踊り飛び跳ね、太陽に輝き、雨に歌い、最大限に魂を謳歌して生きている。

人間は70年も80年も生きるのに、生きている価値という瞬間の重ね合わせを忘れてしまう。

私たちの体で感じる五感や六感という敏感さは、その瞬間を感じ取る贈り物だ。体で感じるには心を閉ざさないこと。今を生き、味わい、おもしろがる。

地面に落ちている胡桃を拾い上げる好奇心と感受性を持ち続けたい。

まわりに愛する人がまだ生きている。私も今ここを生きて、子育てに炊事洗濯家事に奮闘し毎日を泣いたり笑ったりしながら鮮やかに生きている。その奇跡に感謝をする。

今がすでに満ちたりているということに気付くこと。人生とは、きっとそういうものなのだろう。

散歩の帰り道。いつも通る変わり映えのしない場所だと思っていたけれど、ふと見た足元にちいさな花たちが星のようにきらきらと光っていた。これが私の今日という奇跡の1日で、ひょっとするとどこにでもあるかもしれない物語り。








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