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ディクショナリー

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 放課後の視聴覚室。わたしたちは向かい合い、見つめ合う。
「デーツ、あなたの辞書にはどんな単語でも物語が載っているっていうのはほんとう?」
「疑うなら、アプリコット、君の辞書を開いて読み上げてみればいい。そのあとでわたしがそれを補足してあげよう」
 わたしは促されるままに手元の辞書をひと息で開く、読み上げる。

 しろつめくさ【白詰草】
マメ科の多年草。ヨーロッパ原産。江戸時代に渡来し、各地に野生化している。牧草ともされる。茎は地をはい、倒卵形の小葉三個から成る複葉を互生。夏、長い花柄の頂に白色の蝶形花を球状につける。クローバー。オランダゲンゲ。ツメクサ。

 なつめは、瞳を閉じ、少しうつむく。知っている、とちいさくつぶやく。
「探される、葉。幸運は複葉に委ねた。丸い花は容赦なく摘まれる。これから長い船旅に出掛けるのだ。旅の主役ではない、よく言えば護衛。繊細なガラスの器を護るのが仕事。詰草、もがれた首がぎっしりと詰められてオランダから辿り着く」
 ふっ、となつめは息を吐く。わたしは思わず拍手をしていた。
「いいじゃない! それはほんとうの話?」
「そう、ウィキペディアに載ってたのを読んだことがあるから、ほんとうなのじゃない? もう少し詳しく調べて、ちゃんとした台本に起こそう」
 なつめは、そう言って笑いかける。
 わたしたちは演劇部。部員は実質、わたしたちふたり。幽霊部員(ゴースト)にささえられてなんとかやってきたけれど、後輩に恵まれることもなく、今度の文化祭が演劇部最後の公演になりそうだ。演目は決まっている。
『ディクショナリー』
 わたしたちは即興から台本をつくってゆく。
「白詰草かあ。なるほどねえ」
「あんず、いい単語を見つけたね。最後を飾るのに相応しいと思う。ねえ、あんず、あなたはなにに包んでもらいたい?」
 甘い匂いがふわっと横切る。ドーナッツ?
「なにって? 包まれる? どこかに運ばれるってこと?」
「もちろん、わたしたちは、いつか必ず運ばれる」
 そう言って、なつめは天井をゆびさした。
「ああ」
「そう、天国」
 開け放たれた窓から強い風が吹き込んで、カーテンをおおきくたなびかせる。真っ白い花に埋めつくされて眠るなつめの亡骸が浮かぶ。
「たっぷりのアネモネ」
 なつめは夜の猫みたいな瞳をしてそう言う。わたしはなつめの亡骸のイメージをアップデートする。もったりとした花弁、赤、白、紫。
「わたしはラナンキュラスがいい」
「あんずのイメージにぴったり。ちいさなカエルたち」
「なにそれ」
「ラナってカエルっていう意味だよ」
「そうなの。わたし、カエル好きよ」
「よかった。それなら、約束」
 そう言ってなつめは右手の小指をわたしの顔の前に差し出す。わたしは、何も考えずにわたしの小指でそれをからめとる。
「好きな花に梱包されてわたしたちは天国に運ばれる。遺言する、わたしたちは好きな花に囲まれたいと」
「遺言する。わたしたちは好きな花に囲まれて天国にゆきたいと」
 からめたゆびを切る。
「約束よ」
 と、なつめが言う。わたしは、制服姿のなつめがアネモネに包まれるのを想像しているのに、わたしは、あきらかにおばあちゃんになったわたしがラナンキュラスに包まれるのを想像する。なんという不謹慎。あるいは、なつめの方が理想に叶っている、という憧れ、嫉妬、ああ、なつめは綺麗だね。
「このくだりもディクショナリーに入れようか」
 わたしは、一瞬、躊躇するも、いいかも、と賛成する。
「テーマが少しおおきくなるかもしれない。でもいいか、わたしたちの最後の公演になるかもしれない」
「たくさんのゴーストに支えられて演じるダイアローグ」
「顧問はさながら墓守ね」
「そして、わたしたちはリビングデッド。ああ、もうわたしたちを包んだ花は枯れてしまった」
「ポケットにドライフラワーを一輪、挿し込もう」
「いいね。デーツ、わたしたちもドライフルーツだから」
「そうね、アプリコット。あまくあまくしぼまりましょう」
 わたしたちは、ハイファイブをする。
「もうひとつ単語を見つけておこうか」
「そうだね」
 そう言ってわたしは、辞書を一度閉じ、もう一度勢い良く広げる。

   ディクショナリー 一

 舞台の幕が上がる。スポットライトにあてられて佇んでいるのは、デーツ。短く刈り込んだ髪の毛、丸縁の眼鏡、紺色のワンピースは薄い胸でも、そのラインが分かる大人びたものだ。はだしにスクウェアトゥの革靴を履いている。タブレット端末で何か読み物を読んでいる。
 そこへ左の袖から登場するアプリコット。ボブにした茶色い髪の毛、ざっくりとした白いワンピース、分厚い本を抱え、はだしにスクウェアトゥの革靴を踏み鳴らし、駆け込んでくる。
 ドアのチャイムがチリンチリンと鳴る。
「こんにちは、デーツさん。わたし、あなたの秘密を知ったわ! あなたはただの古本屋の店主ではないのね、作家と聞いたわ」
「こんにちは、アプリコットさん。そんなに慌てて、どんな大ニュースかと思えば、そんなこと。わたしは作家ではないですよ。ただ、やたらとおおきな辞書をもっているだけ」
「秘密の辞書と聞いたわ。そこに物語をかきつけているという。わたしの持っているものとどれほど違うのか確かめにきたの」
 ふふふ、とデーツは笑う。
「それであなた、ずいぶん大きな辞書をかかえて走ってきたのね。いいわ、試しにそこから単語を拾って教えてみせて」
 アプリコットは、目の前に辞書を掲げ、瞳を閉じ、小さくよし、とつぶやいてから勢い良く開く。

 ドーナツ〖doughnut〗
〔「ドー(dough)」は練り粉の意。ドーナッツとも〕
小麦粉に砂糖バター卵などをまぜてこね,丸く輪にして油で揚げた菓子。「—型」

「ドーナツ」
「そう、ドーナツ」
 ふう、とデーツはため息のようなものをひとつつき、タブレットを操作する。
「もちろん、」
 デーツはタブレットをおろし、アプリコットの瞳を覗き込む。まばたきをしないまま、正面を向いて続ける。
「もちろん、ここで語られるドーナツは輪形で真ん中に穴があいているものについて。アプリコットさん、あなたがドーナツを食べる時、当然、あなたの影もドーナツを食べるわ。そうでしょう? ドーナツを食べる時は、けっして影のドーナツと交換してはいけない。そんなお話。

『オールドファッションを口元に運ぶ。影のわたしも同じものを口元に運ぶ。
 同じもの?
 このドーナツとあのドーナツは、つまりドーナツとドーナツの影は同じ味なの? もちろん違うと思う。
 食べてみる? とわたしの影がドーナツを差し出す。わたしは影のドーナツをかじる。ドーナツの穴が欠ける。そこから光があふれる、反対にわたしの体は影に満たされる。あっという間に世界は反転する。
 わたしは影に。
 影はわたしに。
 影のドーナツを飲み込むと、世界の反転はすぐにやんだ。わたしはわたしのままだ。
 わたしの影も、ぽかんと口をあけている。一瞬、世界は反転した。試しにもうひとくち、影のドーナツを食べてみる。反転しない。欠けた穴ではすでにその効力を失っているのかも知れない。
 ドーナツ、買いにゆこうか。わたしは影に聞く。影はうなずき、一緒にコンビニエンスストアへと向かう。
 その後、ひとかかえのドーナツをわたしたちは楽しむことになる。一ダースの実験の結果、確かに影のドーナツを食べると世界は反転する。影が普通のドーナツを食べても、何の変化もない、見た目の上では。ただ飲み込まれるだけだ。
 影のドーナツをわたしが食べる。
 わたしは影に。
 影はわたしに。
 その度にわたしはいくらかわたしを失い、影を得る。
 影はいくらか影を失い、わたしを得る。
 わたしは影を帯びる、いくらかはゆううつだ。
 影はわたしを帯びる、すなわち影は薄まり、彼女もまたゆううつになる。
 それで、わたしたちは実験をやめた。あとは思考実験に頼るしかないんだけれど、いい加減胸焼けがひどくて思考力がない。
 食べ過ぎはよくないっていう寓話』

 アプリコットさん、あなた、ドーナツ好き?」
「え、ええ。好きですけれど」
「ちょうど二つあるからいっしょにいただきましょう」
 デーツが頬張るのを確認してから、アプリコットがドーナツを頬張る。ゆっくりと飲み込む二人。
「ほら、何もない」
 とデーツが話した瞬間、スポットライトが消える。
 幕はあがったまま、暗がりの中で誰かが蠢いている気配だけが伝わってくる。

   ディクショナリー 二

 スポットライトが再び点灯する。その光の中に浮かびあがるのは、古本屋の店主、デーツ。腰まで届きそうな髪の毛、紺色のワンピースは薄い胸でも、そのラインが分かる大人びたものだ。はだしにスクウェアトゥの革靴を履いている。タブレット端末で何か読み物を読んでいる。
 そこへ左の袖から登場するアプリコット。ボブにした茶色い髪の毛、マリメッコのウニッコ柄のワンピースを着て、分厚い本を抱え、はだしにビルケンシュトックのサンダルを踏み鳴らし、駆け込んでくる。
 ドアのチャイムがチリンチリンと鳴る。
「こんにちは、デーツさん。わたし、あなたの秘密を知ったわ! あなたはただの古本屋の店主ではないのね、作家と聞いたわ」
「こんにちは、アプリコットさん。そんなに慌てて、どんな大ニュースかと思えば、そんなこと。わたしは作家ではないですよ。ただ、やたらとおおきな辞書をもっているだけ」
「秘密の辞書と聞いたわ。そこに物語をかきつけているという。わたしの持っているものとどれほど違うのか確かめにきたの」
 ふふふ、とデーツは笑う。
「それであなた、ずいぶん大きな辞書をかかえて走ってきたのね。いいわ、試しにそこから単語を拾って教えてみせて」
 アプリコットは、目の前に辞書を掲げ、瞳を閉じ、小さくよし、とつぶやいてから勢い良く開く。

 しろつめくさ【白詰草】
マメ科の多年草。ヨーロッパ原産。江戸時代に渡来し、各地に野生化している。牧草ともされる。茎は地をはい、倒卵形の小葉三個から成る複葉を互生。夏、長い花柄の頂に白色の蝶形花を球状につける。クローバー。オランダゲンゲ。ツメクサ。

「シロツメクサ」
「そう、シロツメクサ」
 開け放たれた窓から強い風が吹き込んで、カーテンをおおきくたなびかせる。
「ドーナツで世界が反転して、わたしはいつものわたしに戻る。眼鏡を外して、元通りの髪の長さになるだけだけれど」
「デーツは見た目がおおきく変化するのに、わたしは服飾品が変わるだけか」
「わたしから離れるの。わたしは身体的特徴が反転して元に戻る」
「男の子から女の子に」
「そこまでじゃないけれど。ベリーショートに憧れがあるの」
「それいい。それなら、マダムのなつめを想像できる。かっこいい。コム・デ・ギャルソンを着ているよね。年齢が反転する?」
「ドーナツごときで、そんなに変化しないよ。眼鏡が壊れるっていうだけの話しだよ」
「眼鏡が壊れる」
「わたしたちは何も変わらないの。みんなの眼鏡が壊れるのよ」
「観客のオペラグラスをわたしたちはかじる。右からデーツがひと齧り」
「左からアプリコットがひと齧り」
 放課後の視聴覚室に女の子の笑い声が満ちる。

   ディクショナリー 三

「好きな花に梱包されてわたしたちは天国に運ばれる。遺言する、わたしたちは好きな花に囲まれたいと」
「遺言する。わたしたちは好きな花に囲まれて天国にゆきたいと」
 舞台は暗転する。
 再びスポットライト。
 ラナンキュラスに満たされた棺にアプリコットが納められている。髪の毛は真っ白で、幾重にも皺が顔に刻まれている。
「アプリコット、あなたはたくさん笑ったのね」
 緑のラナンキュラスを手向けるデーツも髪の毛は白く、歩く姿は弱々しい。
「わたしの約束を守る人はいないのよ、アプリコット。だから、これも」
 そう言ってデーツは、真っ赤な花びらのアネモネをアプリコットの顔のそばに置く。その後で、大きな書物を取り出し、か細い声で読み上げる。

 ゆうじょう【友情】
友達の間の親愛の情。友人の間の情け。友達のよしみ。「—に厚い人」

 なつめは、瞳を閉じ、少しうつむく。知っている、とちいさくつぶやく。
「わたしたちの物語はこれで終わる。ずいぶんと無茶をした。即興からあつらえ、上演中に他人の眼鏡を壊したりもした。とにかく好きなように演じた。楽しかった。あんず、あなたとは、これから先、もしかしたらまったく会うこともなくなるかもしれない。それでも友情は続く。ゆびきりの呪いは、たぶんわたしのほうが強くかけた」

「そう、それで、レクイエムが流れる?」
「ううん、静かに幕が下りる。わたしたちは制服に着替えてカーテンコールを待つ」
「カーテンコール、あるかしら?」
「なくても、出ていってこう叫ぶ。
 このディクショナリーにあなたは含まれる。
 語られなかった単語に、どうかたくさんの物語を見出すことができますように。
 わたしたちの友情を齧ったあなたがたに、少しのゆううつとたくさんのよいことがありますように!」
 カーテンははためいている。
 放課後の視聴覚室に、もう人の気配はない。

 【了】

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 しろつめくさ、ドーナツ、ゆうじょうの箇所は、アイフォーンアプリ「大辞林」から引用。体裁を揃えて表記した。


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