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人を変える中学生活 ②

このシリーズに戻ってきた。
戻ってきてしまった...

マガジン『「てっちゃん」とは』
特にこれまでの人生(大したものじゃないけど)を振り返るシリーズは需要があるのかないのか常に悩んできまして、
10ヶ月ぶりに投稿することになりました笑

このシリーズ、ありのままに書いていくと
個人が特定されかねないので
結構慎重に書いているんですよねー。

今回は大体中学2年くらいの話です。
中2、厨二ではありませんのでっ

一言で言えば、人生最高の時期だった。
ここではあまり伝わらないかもですけど...

追記!
書いていたら4000字を超えてしまったので、
時間があるときにでも読んでくださいっ

以前の中学1年時の話はこちら↓

担任と普通クラス

中学入学当初、思春期で多感な時期でもあることからトイレ等の介助を考慮して
特別支援(特支)の担任を男性にと学校側には
お願いした。
てか約束したはずなんすけどね〜?

中1の時点で一度担任が入れ替わり、
中2になるとまた担任が変わった。

それがなんと女性の先生。
意外と特別支援のベテラン先生で、
特に害はなく良い先生でした。

小学生の頃にも軽くお世話になっていた方でしたし気が楽だった。

まぁこの時点で学校には約束破られてるんで、
一応文句は言ったんですが...


結局担任とは言っても、担任だけじゃなく
他の特支の先生や他学年の教員、教科担任が入れ替わりで付いていたため、介助には問題はなかった。

女性の教員の場合、トイレ介助だといちいち男性の教員を呼んでいたため、こっちとしてはいい迷惑でした。

特別支援の所属ではあったけども
ほとんど普通クラスで普通に授業を受けていて
そっちはもう居心地バツグン!!

中1の時点でめちゃくちゃ仲よかった奴ら以外にも心から友達と思える人もできた。
普通に恋愛もした笑

そっちの担任は僕を変に特別扱いせず、とても好きな先生だった。
この先生のおかげで(中学)英語が好きになれた...高校英語で失速したけど。

んで約1ヶ月後、ゴールデンウィーク明け
また特支担任が変わります。

は???って感じでしょ?

後から聞いた話だと
ベテラン先生はただの繋ぎだったらしい。

恩師

新たな担任は高身長ムキムキ💪先生
この先生、のちの恩師となります。

まぁY先生としましょか
Y先生、元刑事です👮

当時の僕には衝撃的でしたね。

その経験を色々聞くこともできた。
ドラマかよ!みたいな話もあった😅

やや熱血な感じもしてウザかったけど
友達っていうか先輩みたいな感じだった。

もちろんメリハリがあって厳しさもあったからこそ心強い存在で、全てを手伝うわけではなく自主的な行動を促しつつサポートが必要な場合は全力で寄り添ってくれた。

なんかまとめられないけど
言葉に表しづらいくらい信頼できる人で
背中を押してくれる恩師。

もちろん僕ばかりではなく、普通クラスの方でも副担ポジションで動いてたと思う。
視野が広いというか、僕の中では
こういう先生が本当の意味で生徒に
寄り添える頼れる先生になれるんだろなぁと

知ってしまう大人の闇(初級レベル)

初級レベルというとこのタイトル回収は
次回されることでしょー。


時期的にも厨二病チックな考えを持っちゃたけど、まぁ事実ですもん。

担任のY先生は言っちゃえば若手
立場的には残念ながら下の方。

扱いはそこそこ酷いものだったと思う笑
まぁ警察上がりだからメンタル鬼強で
そこは結構学ばせてもらったけど。

当時の僕は社会がどんなものなのか
十分わかってなかった。

生徒に親身になって寄り添える教師こそ
生き残れるのだと...

実際そうではなかった。


与えられたことだけこなし、
上司から言われたことにただ従う。

マニュアルに沿った動きをすればそれで良い。

教師なんて、先生なんて大多数がそんなもの。
当時そう思ったし、中学時代だけでなく大学を除く小〜高12年間通してそれを実感した。

それは主観的なものに過ぎないけど。

学校というものは
別に生徒のためにあるのではない
とも感じた時期もあった。

Y先生は
特別支援学級という言わば厄介ものとも受け取られてしまう存在を受け持つ若手。

雑用として考えていなかったんだろう。

もしかしたら身内贔屓的な状態に陥っていたのかもしれないけど、尊敬する先生が
大したことない役立たずの教員に
バカにされ下に見られるのが
とてもじゃないけど気に食わなかった。

こんなこと言うとY先生が辞めたみたいに
思われるけど、全然バリバリですからね?!

事件と本当の友達

中1の時点でも自分用の狭めの教室があり、
中2でも普通教室のそばにあった。

休み時間特に昼休み、友達と課題や試験勉強ゲーム(トランプやらUNOやら)をしてた。


そこである日、俺が全く知らないうちに
とある揉め事がありまして、
僕以外の利用が禁止されてしまいました。

そこから僕と絡む人は減りました。
まぁ元々僕が目的じゃなく暇つぶし目当てが多いこともわかってましたからね〜

んで普通教室とは離れた別の教室も
使うようになり、僕目的の友達はそっちに
集まってくれるようになりました!

前回の中国人の友達や
成績トップの奴、卓球バカなど
色んな友達に恵まれとても楽しい日々♪

当時の仲間意識は凄かった。
クラスも一緒だったので、誰かが休めばノートを見せ教え合ったりとか

コイツらが本当の友達なんだなぁと
当時しみじみ思ってた気がする。

鰻登りの成績と障害の考え方

学年100人中で下から数えた方が早い
順位だった成績

友達に教えたり教えられたり
授業も意外と真面目に受けてたくらいで
めっちゃ伸びたんですよね。
20位くらいまで上がって...

ぶっちゃけ友達じゃない奴らからは、
車いす=障害者=勉強できないみたいに思われてたっぽくてそれを見返した気分になってた

"バカにしてた奴よりもバカって
救いようがないね〜?"って。
いやもち言葉にはしませんよ!?

結構酷い奴でしょ?
まぁ障害があるからって
優しいとは限らないですから!

たまにそんなこともわからんおバカさんが
いますけども

もちろんみんながバスケしたりとか
活発に動いてる姿を見て
あーあの中に混ざりてぇなぁ〜
なんて思ったこともあった。

でも障害以前にただの人間。
普通に怒るし、人を好きになるし、
〇〇したいし、✖︎✖︎したいし。

...やめなさいっ🫷

てっちゃん、男です、ちゃんと。
下ネタでも笑える健全な男子でした、です。

電動車いす

初代車いすが寿命を迎え、ついに自力で車いすを漕ぐのも腕の筋力低下で難しくなりました。

そこで電動車いすに変えることに

その当時、ほぼラジコン感覚で操作していて
色んなとこにぶつけまくってました笑

めちゃめちゃ危ないですけど、
膝に友達乗せて動いたりしてたなぁ...
中学生男子って感じでしょ?バカっぽくて。

あとこれ1番嫌な奴だったけど

車いすのコントローラー触らせて〜!とか
言ってきて動かさせてあげるんですけど

途中で急に離れてって
振り返ると何事もなかったかのように
誰かとお喋りしてる...

こーいう地味な嫌がらせとかされて
内心"〇ね!!"なんて毒吐いてた☠️

現在も使っていますが、車いすの寿命は多くが約5年でそれを2年近くオーバーしています...

新しい車いすはリクライニング等の機能があるものにして調整を進めてますが、
もう少しかかりそうです。

修学旅行

夏休み明け、
準備は1学期中からスタートしていました。

班別研修では班長に指定され
夏休み前はちょいとドタバタ💦

意外と班長とかリーダーとか向いてたんですよ
おぉらおめぇら俺の手となり足となれぇ!
って具合に...いやちょっ、相当盛ったけど。

2泊3日で関西(奈良・京都・大阪・神戸)へ
スケジュールキツキツで色んな所行きました♪

奈良は東大寺とか奈良公園あたり?
シカ🦌にはトラウマがシカない。小学生の時の宮島といい、この奈良公園といい、
🦌にハムハムされた記憶が蘇ってきてぇ...

京都は班別自主研修という名の自由行動
班長で意外と面倒ごとも担って疲労ヤバかった


それでも
1番印象的というか思い出に残ってるのは
大阪ですかね〜

USJと海遊館、カップヌードルミュージアムに行きましたっ


USJは丁度ハリポタエリアができたときで、
途中土砂降りで酷い目に遭った覚えが...

時計台のとこで友達とバタービール🍺
飲みながら雨宿りしたんですよね〜
あと所持金12000円の1/4をハリポタの杖のために捧げちゃった☆

昼前から夜までいることができて、
時期的にゾンビ🧟が出てくるときだった!
アイス食べてたら急にパッと電気が消えて...

ホテルはUSJそばのところで
ドリームザライド?が
すぐそこに見えてたんすよ〜

友達と先生に叱られるくらいまで
どんちゃん騒ぎしてた!
いやぁ思い出すなぁ〜戻りてぇなぁ〜



海遊館は時間なさすぎてみんな早歩きで回ってお土産買えず🐋

カップヌードルミュージアムは...
写真があるだけで全く記憶にない🍜

神戸ではクラス別で中華街で飯食って
帰った覚えがある🇨🇳
他のクラスは高いけどめちゃ良いもの?を
食べてたって話でみんな文句言ってた笑

帰りのバスでは疲れを知らないようで
バスのカラオケでみんな歌ってたな🎤

修了式後

秋から春まで一気に飛んじゃった...
いや流石にその時期はなんもなかったから

修了式前に誕生日を迎え、
Y先生から誕生日プレゼントをいただいた🎁

ボールペン、名前の英字刻印付きの!
今でも大切にしてる。


テンション爆上げして
修了式を終えた数日後。

短い春休み、友達と満喫して
夜ゲームしながらグータラしてると
ピンポンが鳴った。

応対は親がしたけどY先生が自宅に来た

担任が変わるということを直接
伝えにきてくださった。

もちろん人事とかその手の話は
一教員がどうにかできることではないはず。
それでも何度も謝られて非常に申し訳なかった

それと同時に
先生からもらった僕の担任を続けたかったという言葉はとても嬉しかった。

そりゃボロボロ泣きましたなぁ〜
それくらい依存しちゃってたのかも。

今思えばそれはそれでよかったのかなぁって

僕みたいに誰かに頼ってかないと
生きていけない人間にとっては
ある意味毒にもなり得る存在だったと思う。


でもそのときはショックで
数日なんもできんかったんですよね😇

中3になってからも何かとサポートして
もらったんですけど、
やっぱこの先生が担任だったことは
それだけ僕には支えになってた。

付け加えると友達の存在も当然大きかった!たくさん助けてもらって、
感謝しても仕切れないくらい。

まぁとはいえ最高の1年間となった
中学2年生生活だったのですがぁ〜...

一転して、地獄のような1年間となるのです。


はい。
とても長くなりましたがここまでお付き合いくださりありがとうございましたぁ🙇‍♂️

いやぁ久々にここまで書くとやっぱ
疲れちゃったなぁあ〜

とても面白くない内容だったかもですので
本当申し訳ないですっ

正直まだまだ書きたいことはあった!
特に恩師や大人の闇の話は
まだまだ書きたかった😂

ですが、ひとまず
こんな感じでおしまいとしますー

それではでは〜♪
次回の投稿も早めにしますので!

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