「共感」が抑圧された社会
とある飲食店に入った。どこにでもあるチェーン店だ。
溌剌とした店員がいる。もしかすると店長だろうか。
注文を訊かれて、応える。
私もつい、少しだけ声のトーンが明るくなる。
「いま相手のとっているコミュニケーションが、 あなたがいまとっているコミュニケーションです。」
ふと、『こころの対話』のセンテンスを思い出す。
注文後も、周囲に気を遣ってくれる人だった。
複数名の客に「取り皿使われますか?」とか、会計後の客に「お気をつけて帰ってくださいね。」とか。
「そういう」マニュアルや評価基準があるのかもしれないし、この店員の独断なのかもしれない。いずれにせよ、客入りが疎らな店内は少しだけ明るい雰囲気だった。
暫くその店員と他の客との会話に耳をそばだてていると、
「いや、いらないです。」
と、クスクスと笑いながら応えるグループ客の声が聞こえてきた。
少し遠い席でのやり取りであったため、その店員がどんな気遣い(お節介)をしたのかはよく聞こえなかったが、「それ」は客の一言によって強制的にかき消された。
*
思い起こせば、私も似たような感情を抱いたことがあった。つい最近の出来事だ。
コロナ禍を経てモバイルオーダーが普及して以来、好んで使うようになった。
昼時などはレジが混み合い、注文するまで一苦労だ。ようやくレジに辿り着いたかと思えば、そこから口頭で商品名を読み上げる──。このプロセスにストレスを感じていたのだ。
これとは対照的に、モバイルオーダーは極めて効率的だ。レジ待ち時間を他のことに充てられるし、口頭でのやり取りに伴うオーダーミスも生じない。
先日、あるチェーン店でモバイルオーダーを利用した。持ち帰りの紙袋を利用する場合は、オーダー時にアプリの「チェック」を入れる仕様だ。もう何十回目かの利用だったので、この日もチェックを入れたはずだった。
頃合いを見計らってお店に到着して画面を見せる。すると、店員が商品を「裸」のまま渡してきた。
「あれ?紙袋をお願いしたはずなのですが...」
すると、店員はこう応じた。
「(紙袋の)チェック入れましたか?」
文章にすれば取るに足らない内容だが、自らのミスを微塵も疑わずに客を疑う店員の姿勢に、私はストレスを感じたのだった。
なんとも器の小さい人間だなと自分自身を思うが、チェーン店には客のオーダーをミス無く確実に処理する機械的な対応をどこかで期待している自分がいる。それ以上のものは、求めていない。
後からアプリを見返してみると、確かに「チェック」は入っていた。
でも、いつから「こう」なったのだろうか?
*
『うしろめたさの人類学』(松村圭一郎著)を読んでいると、このモヤモヤが明瞭に言語化されている一節に出会った。
私たちの社会は「経済=交換」と「感情=贈与」とういう、互いのコミュニケーションによってできている。そして、そのコミュニケーションを通じて「関係」が生まれる。
現代の日本社会は「経済=交換」のモードによって大部分が支配されるようになっている。
先述した例で言えば、店員の気遣いに冷笑的に返した客は「経済=交換」の関係を期待していたが故の反応だったのだろう。
私の場合も同じだ。そこには、商品代金を支払う代わりに相応の対価を期待する「経済=交換」の関係性以上のものは無かった。
だからと言って、「感情=贈与」を取り戻すべきだと安直に警鐘を鳴らす気にもなれない。
私自身、「感情=贈与」の関係性がもたらす面倒臭さ・不自由さを嫌というほど感じながら育ってきた。
私が暮らすこの社会は、ディストピアでもあり、ユートピアでもあるのだ。
社会を摩擦の無い便利なものにしていくほどに、益々「経済=交換」のモードに支配されていく。
あの客のクスクス笑いが、私が感じたストレスが、この社会の「共感」をまた一つ抑圧していく。
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