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真夏のタイムトラベル【第3章:青年の志】

#3週連続短編歴史小説
文字数:800文字(目安読書時間:3分)
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第3章:青年の志

 キンダイを目前に、リンゴ🍎の乗る列車は急停止しました。車掌のアナウンスによると、機材故障のため運転見合わせ、再開目処は立たないとのこと。朝からツイてない!仕方なく下車したリンゴの前にはどこか懐かしい田園風景が広がります。此処で史跡巡りもアリ、と持ち前の明るさで気を取り直したリンゴ。連絡がてらスマホを取り出そうとするも、キャリーケースと飲料で両手が塞がっています。あの茅葺き屋根の建物に入って一旦座ろう。リンゴがドアを開けると・・

 所狭しと机を並べた人々が、テキストを手に声を揃えています。《子曰く、学びて時にこれを習う。亦説ばしからずや。・・》授業中だ!慌てて退室しようとしたリンゴに、近くに座る青年が声をかけてくれました。「見かけない顔だ、まぁ座りなさい。読本を貸そう。」少し涼もうと腰をおろすリンゴに青年は続けます。「君は新入生か?入門簿を書いて後でタンソウ先生に渡すと良い。」それでもまだピンと来ない様子のリンゴに、青年は笑いながら言いました。「学びたいんだろう?咸宜園で。」そう、リンゴは幕末の名門私塾に迷い込んだのでした。

 握りしめたスマホが示す日付は1830年、夏。「君も何か理由があって来たのだろう、深くは訊くまい。」途方に暮れるリンゴに、青年の気遣いは有難いものでした。教室には素読の声が響き渡ります。熱心な門下生はリンゴのことなど気にも留めません。「君にはつい話してしまうが、実は近いうちに豊後を発つ予定だ。この国を変えるためにね。」窓の外を見て静かに語る青年の目線は江戸の方角を捉えます。その熱い眼差しの先には、確かにキンダイが見えていました。

 当時の歴史をスマホで調べていると、運転再開の通知が鳴りました。リンゴは青年に礼を伝え、今後何かの役に立つかもしれない、と半ば強引に手持ちの御守りを渡したのでした。さぁ、帰ろう。大遅刻の理由、ヌバタマとスリザリンに信じてもらえるかな。

時代設定

時代:近代一歩手前、幕末期(1830年夏)
地域:日本🇯🇵 咸宜園(現在の大分県日田市にあった私塾)
お助けアイテム:スマートフォン📱

リンゴ🍎がタイムトラベルしたのは幕末期の名門私塾、咸宜園。様々な分野で近代化が推し進められたこの時代に、とりわけ大きな役割を果たしたのが教育📖の場。私塾の実態と咸宜園の取り組みを知れば、リンゴ🍎が教室内で特段怪しまれなかった理由が分かる。

⚫︎私塾とは何か

18世紀末から19世紀前半にかけて急激に発達した、プライベート・アカデミー。運営は私立で、学者の学識や政治・哲学・教育などについての見識を募ってやってきた学生たちを、学者の居宅で教授するもの。学者の人格や教育の仕方によって、学校の性格や気風がきまる。カリキュラムについて為政者からの統制はなく、もっぱら自由。よって蘭学、国学、兵学、医学、航海術などの専門分野で教授がなされた。儒教などの異学各派もOK。庶民派の寺子屋とは対照的に私塾は武士階級出身の教師が大勢を占めており、学問のレベルはかなり高かった。学生の受け入れについて、身分的、地域的な制限はなかった。今日の「私立学校」は入学の門戸が狭いという意味合いを含むこともあるので注意が必要。徳川時代の私塾はきわめて「開かれた」学校であり、幕府や藩、地域集団の管理からは完全に外れていた。

⚫︎咸宜園の実践に見る近代

文化一四年(1817)から安政三年(1856)まで広瀬淡窓によって主宰された漢学塾。淡窓の死後は後継者の手に移り、明治三〇年(1897)まで80年間存続した。塾舎のあった大分県日田市は淡窓の故郷で、江戸時代初期より幕府の直轄地として政治・経済の中心であった。日田御用商人の家に生まれた淡窓は生まれつき体が弱く、家業は継がず儒者の道を選んだ。

学校経営者として抜群の才能を発揮した淡窓。咸宜園の教育の仕組みには、多くの近代的側面が観察される。なかでも傑作と称されるのが、「月旦評」として知られる学籍簿📑である。門下生の学習活動の得点を記録・集計し、十九の等級制を敷くというもの。年齢、身分、学歴は一切関係なく、試験で必要な得点を獲得することによってのみ、昇級🌸することができる。いわば実力主義。賢愚、貧富、長幼の別を問わない咸宜園の教育方針は、まさしく「門戸の解放」であった。咸宜園の月旦評はのちに多くの私塾で採用され、明治五年(1872)頒布の「学制」にも影響を与えたといわれている。

咸宜園の等級別カリキュラム
月旦評と明治の「学制」

細かな描写について

リンゴ🍎がタイムトラベル先に持ち込んだ魔法アイテム🪄は、スマートフォン📱。文明の利器のなかでもSランクを引いたと言ってよいが、日常生活に馴染み過ぎて特別感はなかったか。幕末でもなぜか電波良好、便利な検索機能は青年とのコミュニケーションに一役買った。

①リンゴが出会った謎の青年

モデルとなったのは、咸宜園の門下生の一人と言われる高野長英。シーボルトの鳴滝塾で学んだのち、広瀬淡窓の元を訪れた。シーボルト事件後、身を置いていただけという説もある。咸宜園にタイムトラベルしたリンゴ🍎にお節介を焼きながらも、終始素性を明かさないのは逃亡中ゆえ。そんな長英の目に、放浪者リンゴ🍎はどこか仲間のように映ったのだろうか。少なくとも利害関係はなさそうだと、自身の野望をうっかり口走ってしまうのもまた一興。

⚫︎高野長英の生涯(文化元〜嘉永三年・1804〜1850)

江戸時代後期の蘭学者。水沢藩(現在の岩手県奥州市)に医者の子として生まれ、16歳から西洋医学とオランダ語を学ぶ。文政八年(1825)、21歳の時に長崎へ行き、シーボルトに学んだ。「シーボルト事件」では逃亡して捕縛を免れ、各地を転々とする。咸宜園に入ったのはこの頃と考えられるが、確固たる証拠はない。入門簿の“島道勇”は長英の変名ではないかといわれている。幕府の外国人に対する政策を批判して捕われ、入獄。火事🔥が起きたときに脱獄して逃げ、諸方をめぐって流浪。嘉永三年、ついに捕吏に追われ、自殺した。

②リンゴが青年に手渡した御守り

運よくスマホ📱を持ち込んだリンゴ🍎は、検索機能を駆使してタイムトラベル先の時代背景を正確に捉えることができた。青年の正体を特定することは難しくとも、他の門下生とは一線を画す立ち振る舞いに「只者ではない」と感じたはず。そんなリンゴが近代日本の開拓者(予想)に授けたのは、手持ちの御守り🤲🏻。史実でのみ知る幕末期⚔️の混乱、渦中に飛び込んでいこうとする青年の行先を案じる。作品都合での後付けにはなるが、実は1830年夏に日本は「文政京都地震」という大規模災害に見舞われる。現在の京都を震源として発生、推定マグニチュードは6.5で歴史的建造物の倒壊や死者の存在も伝えられている。まさに青年(ここでは長英本人)が豊後から江戸に向かう道、京都滞在中の出来事であった。当時は地震にまつわる迷信も多く、人々が不安に駆られる中で長英は『泰西地震説』を書き著した。西洋科学を拠り所とするこの論文は、日本の地震学の発展に寄与したと言われている。リンゴの御守りが天災から青年の身を守ったのか、その辺りは読者の想像にお任せしたい。

⚫︎長英が目指した近代日本

当時、鎖国を続けていた江戸幕府。この政策により、医学🩺、天文学🪐などあらゆる分野で日本はヨーロッパに遅れをとっていた。そんな日本が限定的に貿易を行っていた国のうちの一つがオランダ🇳🇱で、長英のように向学心のある若者はオランダ語を学んで西洋の情報を仕入れていた。

長英は鳴滝塾でシーボルトから西洋の最新医学を学んだほか、興味のあるテーマについてオランダ語で19もの論文を提出。なかでも『鯨及び捕鯨について』は高く評価され、シーボルトから学位習得の称号を与えられた。この論文はのちに別の人物によってヨーロッパで発表され、資源(鯨🐋の油)を必要としたアメリカ🇺🇸が日本に来航⛴️するきっかけとなった。

27歳で江戸に入り、「大観堂」と名付けた塾・医院を開業した長英。語学力を活かして西洋書の翻訳と著述に励んだ。長英の関心は医学に留まらず、自然哲学にまで及んだ。西洋科学こそ真理と信じた長英は、庶民の要望に耳を傾け、西洋事情を紹介する書物を多く記した。今となっては長英に先見の明があったことは確かだが、当時異常なまでに外国を警戒していた幕府からは異端者の扱いを受け、この後も紆余曲折あって生涯囚われの身となる。

新時代の幕開け🌅をその目で見ることは叶わなかった長英だが、夜明け前に蒔いた種の数々が後世で花開き、近代化を助けた。まさしく、近代日本の「影の立役者」といえる。

参考文献

R・ルビンジャー著『私塾』(1982年、サイマル出版会)

https://www.city.oshu.iwate.jp/material/files/group/132/55197_185037_misc.pdf

感想

今回企画は私的都合のため限られた期間内での取り組みとなりましたが、二人🐍🌙から激励を受けて奮起、執筆に至りました。

主人公のリンゴ🍎がスマホ📱=現代を象徴するアイテム🪄を持ち込むため、トラベル先ではなるべく自然な場面展開を意識しました。旅先で通じていたのは電波📶だけではなかったようで、リンゴ🍎は自身と同じく事情を抱えた青年と心を通わせます。こちらの青年の正体を明かさないという選択をしたところ、二人🐍🌙の作品と比較すると何だか意地悪になってしまいました🙏🏻笑 3章というポジションを頂いたのは丁度良かったかもしれません。

近代🇯🇵と聞くと明治維新や産業革命などエポックメイキング💡な出来事を思い浮かべる方が多いかもしれません💭今回は折角なので、その潮流を作った少し前の時代まで遡ってみることにしました⛲️咸宜園をはじめとする幕末期の私塾には、志ある多くの若者が集いました。彼等の広い視野と強い意思が諸学の発展に繋がり、閉鎖的で遅れた日本を一歩前に進めました。この頃から近代は既に始まっていたのではないか、と筆者は想像しています。

2024.8.23 可愛やリンゴ🍎

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