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【1話完結小説】蝉

毎年夏になると蝉の鳴き声がして、「ああ夏が来たな」なんてぼんやり思うものだが、今年の蝉の声は少し違った。

「ほらほら夏が始まるよ!なんでもできる夏が始まるよ!君がその気になればなんだってできる夏がさ!いつまでも暗い部屋にこもってないで早く家から飛び出そうよ!僕らもずっと暗い土の中にいたから分かるんだけどさ、やっぱり明るくて広い外はサイコーなんだぜ!好き好んでそんな暗い部屋にずっといるヤツの気がしれないよ!早く外で色んなことしようぜ!君は自由にいつでもどこでも行けるんだからさ!ほらほら夏が始まるよ!」

まるで外からお節介な友達がずっと呼びかけてくるような感じがして、僕はどうも落ち着かないのだった。

「余計なお世話だ、放っておいてくれ」と思う捻くれた気持ちと「そんなに誘ってくれるなら夏が終わる前に外に出て何かしなきゃな」という微かな高揚感。

窓の外に目をやれば、午前10時の明る過ぎる青空に大きな入道雲がそびえ立っていた。この部屋の外には確かに夏が、存在していた。
とりあえず手っ取り早く出かけられる先は近所のコンビニか。夏様のご機嫌伺いを兼ねて、朝昼を兼ねた弁当でも買いに出よう。
顔を洗って着替えて玄関を開けると、木々の上から蝉達が「やぁやぁ、やっと出てきたな!ほら、夏が始まるよ!」と相変わらずお節介な声をかけてきた。

その日行ったコンビニでは、レジの人に随分丁寧に対応されたし、帰り道で何気なく挨拶した近所のお婆さんが「今日も暑くなりそうだねぇ、学生さんも熱中症にならんようにな」と優しく話しかけてくれたから、僕は外に出るのも存外悪くないような気持ちになった。

それから蝉達は毎朝元気に僕に呼びかけてきた。あまり僕のことなど気にしないで、蝉達は蝉達で鳴いて飛んで交尾して、勝手に夏を満喫して欲しいとは思ったけれど。それでも僕は彼らのお節介な声に引っ張られ、地域の夏祭りに出かけたり、数少ない友達を誘って海にドライブしたり、大学の夏期講習に参加したり、アルバイトを見つけて働いたり、そこで出会った女の子といい雰囲気になってきたり…とそれなりに忙しい夏を過ごした。いつしか僕は、蝉達の呼びかけがなくても毎日当たり前のように外に飛び出すようになっていた。

ふと気づけば朝夕の空気はすっかり涼しくなっていた。夏の終わりが近づいている。改めて耳を澄ましてみたが、あんなにうるさかった蝉達の声はもうほとんど聞こえてこない。

ある朝、アルバイトに行くため玄関を開けると、アパートの通路に蝉が一匹、仰向けで転がっていた。僕は蝉のそばにしゃがみ込んで、そっと指先で六本の足に触れた。懐かしい友達と再会して握手するみたいな気分だった。蝉はバタバタと羽を震わせたが、その場から飛び立つ力はもう残っていないようだった。僕は蝉に話しかける。
「ありがとな。夏の初めにお前らが外に誘ってくれたから、予想外に楽しい日々を過ごせてるよ。」

そう言った途端、はたと思い立つ。蝉達の方はこの夏を十分に生ききれたのだろうか。僕は励まされるばっかりで、彼らのことを真剣に考えたことなど一度もなかったかもしれない。

目の前で微かに動いていた蝉の脚が完全に止まった。蝉の夏は今、終わったのだ。僕の夏はまだこの先何年も何十年も巡ってくるというのに。急に、一人ぼっちで取り残されたような気持ちになった。

目線を上げると、向かいの家の屋根の辺りを、赤い蜻蛉が数匹飛んでいる。どこからともなく涼しい風が吹いてくる。蜻蛉達が秋を連れてきたかのようだ。だがしかし、蜻蛉達は決して「秋が始まるよ!」などと僕に呼びかけたりはしないだろう。僕は立ち上がる。秋に向かって、一人で歩き出す。

〈終〉

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