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“自分”をわかり合える存在にする

そういえば私が大学院を出ておよそ10年ほどになる。
私のしたいことは何なのか、いよいよ時系列が追いついてきた。


〇物言わぬ10年

私は大学を出てもなお、
大学の、主に自分のいた研究室周辺の活動に様々な形で関わってきた。
近年は少し手薄だが。

臨時で講師を頼まれて請け負うことも何度かあった。

そうしながら教育を学ぶ、志す、考える環境に身を置く人の傍にいた

もちろん、そういった環境はこの国の中に限っても至る所にある。
そしてそれぞれの場所に独自の文化があるだろう。
そういう意味でいえば、ごく限られた場所での経験だ。

そこで私は彼らの指導者ではないし、
意見や考えを求められれば話くらいはすることもあるが、
自分の考えや思いを語りつくすようなことはあまりない

そういう意味で、ほとんど物言わぬまま10年を過ごした。

このシリーズをわざわざ全て読んでいる人がいるかどうかわからないが、
そもそも私は自分の考えを端的に述べられない。

話が下手なのもあるかもしれないが、
それ以上に端的に述べても伝わると思えない。

伝わると思えないことをわざわざ話すのは空虚な感じがしてしまう。
それでも伝えないと、と思うほどのことでもない。


だから、私が話をするのは大体、
ああこの人ならこの辺りまで伝わりそうかな~?
という前提をどこかで見定めている。

相手の経験や理解力や想像力を推し量って、どこまで話すか決める。

こういう小難しい話をする時に、
相手にわかってもらうためにわざわざ言い換えたり噛み砕いたり
ということをあまりしたくないからだろう。

自分の中で練り直し、検討もするが、
自分の感性と想いに合うように書くし、話す。
それが最も正確に自分の考えを述べているはずだ。

言葉や表現を変えることは、
自分の想いをわかってもらうためには遠回りであるように感じる
言葉や言い方の少しの差でも違和感を感じてしまいやすい。

物言わぬ10年で染みついた何かが私にそうさせる、のかもしれない。

〇私の願いを書いている

それでよくnoteに書く気になったなと思われるかもしれないが、
実際のところスタンスは基本的に変わっていない

自分の中に浮かんだ言葉のままに書くことを優先している。
それでもありがたいことに、読んでくれている人がいる。

書き物を公開しているということは
誰にでもわかってもらえると思っているということではない。
(自分で読み直すとずいぶん丁寧に書いてるなと思ってはいるが。)
むしろわかる人にわかってもらえればいいかな、くらい。

せっかく一度書いて公開しておくだけでいいのだから、
そこで何かを受け取ってくれる人がいれば、
私の願いはより広く伝わっていくのではないかなと思っている。


教育について考えるとき、いろんな人がいろんなことをいろんな風に言う。
私も何かを対象にどこかからの立場で書いている。

私の根底に流れるのは、
まあなんとなく誰もに幸せであってほしい
みたいなことだ。

誰であれ、不幸せな姿を見かけることは私にとって喜ばしくない。
様々な世の中のざわめきも、すぐ隣の不遇な現実も、
杞憂かもしれないが、どこかで心を傾かされている。

呑気に生きていくには少し困る。

そのために、
世の人々にこんなことを考えてもらいたい、
教育に携わる人にこのことを考えてほしい、
教育がこんなものであってほしい、
というようなことを書いている。


多分読む人によって、この人は何を言ってるんだろう、と思ったり
ああこれはちょっと面白いかな、と思ったりしている(?)のだろう。

その差が出るのはしょうがない、私には制御できない。する気もない。

〇自分で自分をどこまで語れるか

しかしそもそもそのようなことは、
一から百まで言葉にして語るのは中々難しい

そんなことをする時間がないということもあるが、
自分の中で丁寧に言葉にしていき、
1つの体系化された理論のように述べていくことが難しいからだろう。


私の言いたいことと同じことを指しているのかは知らないが、
大学にいると近年の教育関係での研究の一つの流行り(?)なのか、
教員の自己理論化みたいな研究や実践、というものが聞こえてくる。

(まあ世の研究について語るつもりはないので特に広げないが、
 どういう背景なのかなと少し思う。)


私自身も自分のもつ教育観や方法論や理念などについて
余すところなく言葉で語れるわけではないと思うが、
そう言ったことはこれまであまりうまく扱われてこなかったのだろう。
あるいは注目されなかったのかもしれない。

ただ確かに、割と感覚的に教育が行われている気はする。
こういうものがいい気がする、こうするとダメな感じがする。
この人はいい先生、素晴らしい先生、この先生なら大丈夫、みたいな。

理由は過去の行動や実績であって、
理論的な背景ではあまりないような印象
そもそも理論的に成立させられる話なのか、という認識もあるだろう。

日々の教育活動に、確たる証拠や確信が必要だとは必ずしも思わないし、
経験によって磨かれた直感は十分信ずるに値する人もいることだろう。
もちろんよく勉強している人もいるはずだ。

でも、そもそも教育なんてものは人に関わることなのだから、
自分なりに努力はするが、曖昧で結果はどうなるかわからない

でもがんばってるから(?)、今までうまくいっていたから(?)
すごい、素晴らしい、みたいな部分がある(あった?)のは確かだろう。

簡単に言えば“非科学的”みたいなことかもしれない。

もしうまくいっても、理由はよくわからない、と言う感じ。
あるいは理由を述べたとしても、この時は、その場合はそうだけど、
全てに通じるわけではない、ときっと多くの人が思えてしまう。

〇自分のもつ構造や理念をつかむ

(構造や理念という言葉がうまく言い当たっていると感じるかは
 個人差がある気がするので一応前置きしておくが、
 ここではその表現を使っていく。)

しかし私からすると、これまでの教育は根拠が曖昧である、みたいなことは
別に構わないとか仕方ないかなぁ程度の印象だが、
自分がなぜこうするのかこうありたいのか、ということを
自分で理解していることは教師かどうかに関係なく重要であると考える。

どんなこともそうだが、「うまくいっても、理由はよくわからない」の
“よくわからない”は良くも悪くもあり、そして重要だ。

例えば教育において、結果がやる前からわかる、わかるようになる、
とするのは発想としてあまりにも不気味だ。
しかし、だからと言って因果関係がよくわからなくてもよい、仕方がない、
とするのもどこか後ろ向きで投げやりに感じる。

実際、何らかの前向きな可能性や期待感を以てこそ
熱心に教育活動に取り組めるという人は多いだろう。

そんな“よくわからない”を
より丁寧に前向きに受け止めていく時に大事になるのは、
まず自分の教育活動の構造や理念を本人がよく理解しているかどうかだ。

何を目指していて、何を大事に思っていて、
その理由はどんなところにあって、だからどんな実践をしているのか、
というような感じのことだ。

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個人の教育活動の構造や理念なんて、
外から他人が見ていてもそうはわからない

だから、それをまず各個人がどれだけ把握しているかによって、
隣にいる誰かと、あるいは過去や未来の自分
まともなコミュニケーションが成立するかどうかは大きく左右される
なぜなら、一般的にこうするべきだ、普通はこうするだろう、
こうなっているはずだ、という発想は通じないことのほうが多いからだ。

両者の間で検討することができれば、それは1歩先へ進む可能性をもてる。
揃って迷路に入っていくとも思えるかも知れないが、立ち止まらずに済む
迷路の前で立ち往生していても、その迷路はどうせ抜けられない
1人では迷路に入っていくことさえできないこともある。

自分と相手の行動の構造や理念をわかり合った先
適切な関係を築けるか、よりよい教育をつくり出せるか
また別の課題として現れるが、
お互いにわかり合うという前提に、これは必要になってくる。


そして、これはおそらく教育のみでなく、
他の多くの営みにおいても個人をベースにする限り変わらない

生き方が多様化した先で、個人が大事にしている考え方
その成り立ち、信念、幸福、などというものは
自分自身で捉えてうまく付き合っていかないと
どう生きていけばいいかなんて誰も教えてくれない

すべての、あるいは多くの人に必要なことであれば、
それは教育で扱う必要性が高いものであると考える。


誰も同じ地図を見ていないのに、その誰かと一緒の世界で生きている。

〇自分で自分を生きやすくする

何をしていても、ふと気が付けば自分のことばかり考えている

こういうことは自分はしたくない、こんなことが好き。

なんでしたくないかと言うとこんなことがイヤでこんなことが…、
なんで好きかと言うとこんなことがよくてこんなことがなんとかで…。

自分が今これをしなかったのはなんでだろう、
なんでこれは受け入れたんだろう?

ああ多分こうなるような気がしたんだろうな、
こういう場合は自分でも納得できるんだろうな。


自覚している限り、小学生の頃にはすでにそんな感じだった。
この生き方がそれほど特別だとは思わないくらいには自然にやっている。

誰かに助けてほしい、相談に乗ってほしい、慰めてもらいたい、とか
ほとんど思わない。
もちろんそれがダメなことであるとかそういうことではない、
必要ならしたらいい

ただ、いつでもそういう環境があるとは限らない
何らかの問題や困難、重大な選択と向き合うことになった時に、
自分の力で自分に合うように少しでも自分の振る舞い生き方環境
うまく調整したり選択したりしていく
ことができるなら、
それはその人をより生きやすくするだろう。

自分にとってどんなものがどのような印象で、
どんなことがどのような気持ちにさせるのか。
そしてその時どうしているのが生きやすく
その先に自分はどうしていたいのか


特に私の場合は一々言葉で考えるタイプで、
どのくらいの人に通じているかはわからないが、
元々自分に対して言葉で表現することに少しは向いているのだろう。
(言葉で表現する必要は必ずしもないと思うが、これはまた別の話。)

私の語ることやその根拠は自分の中で培ってきたものがほとんどだ。


限界のようなものは至る所にある。
うまくいかないこと考えたこともないこと
幾度となく目の前に現れる

当然何でも思い通りになるというわけでもないが、
その度に今までの自分が、限界を塗り替えていく。

確かにできないことはいくらでもある。
しかし、私のこれまでを支えてきたこともまた、いくらでもある

考え事や書き物に時間をより多く割こうとした時に、 サポートを受けられることは大変助かります。 次もまたあなたに価値ある投稿となるとは約束できませんが、 もし私の投稿の続きに興味や関心がありましたら、 サポートいただけると幸いです。