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氷河期の僕らのSDGs -生きるということ-

こういう世代間の争いを招くような言説はしたくないが、もう言わざるを得ない時期だと思う。現場の採用担当という切り口で見ていたからこそ、説得力があるという考え方もあります。

氷河期の僕らの今

上場企業の採用をしていた時、獲得人材の質の試算のために人口動態は常に見ていた。そして、不景気だと言いつつも内部留保が上がりつつ、賃金の上昇を抑えていることも。内部留保が企業内に現金を持っている意味でないのは、会計を学んだ者なら周知の事実だ。(知らなければ簿記3級でいいのでやってください)

それでも、派遣社員、共働き、平均給与中央値の低下、賃金の上昇率の低下、円の価値の低下、そして加齢。どれもが氷河期の僕らにとって逆風だ。だが、生きていくにはそれぞれのステージで金がいるのだ。結婚、子育て、どんなに負担を減らしても、どんなに平等になっても、僕らが生きていく上で、金がいる。綺麗事ではなく。


僕らのSDGsとは

持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)が昨今話題になっている。これは環境面が言われているが、重要なのは経済面もまた言われているということだ。

僕ら氷河期が今踏ん張らねば社会として持続性が無くなる。つまり、僕らにとってはSDGsとは賃上げに他ならない。日本社会にとっても同様だ。生まれた生命は、生きている限り止まらず需要を喚起し続ける。それはつまり社会を持続させる力となって金を世の中で回すということだ。今回はボーナスが出なかったから散財をやめようとか、そういう一過性のものではない。消費税が上がったから控えようといったものでもない。

45歳定年も結構。

ならば賃金カーブの若年層の給与テーブルをあげなければ話になるまい。賃金カーブは若手が少ない。その理由は終身雇用の時代をベースとしたものが未だにまかり通っているからだ。それを知らないとは言わせない。そこを無視して45歳で区切るなら、フリーライダーの謗りは逃れることは出来ない。

使い捨てでない、未来に希望をもてるだけの収入を、社会に生きる普通の人が享受できることを求める。社会と若者が生きていくために舵を切る、それが僕らの持続可能だ。脱炭素も結構だが、氷河期の現実を忘れたSDGs議論に意味は無い。高齢者への奉仕を見直し、若年層への投資をせよ。その覚悟がSDGsを語る言葉にはあるのか?

今、リーダーや経営者たちにとってSDGsとは、氷河期とそこから続く新世代たちのマグマを秘めたダモクレスの剣なのだ。




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