失って気づくのは「大切」だけじゃない
”失って初めて気づく。”
これは何も、大切なものに限ったことではない。
これまであったものが、本当に自分に必要だったのか。
「○○をする時間。」これが無くなった途端に、本質的な問いが自分の中に生まれる。
例えばコロナ禍。
それまでは、どんなにやる気に満ち溢れていようと、落ち込んでいようと、関係なく時間になればグランドに足を運び、ボールを蹴っては追いかけた。
ある日、自分の生活の中で不変の行動にストップがかかった。
緊急事態宣言という前代未聞の状況の渦中に自分は存在することとなったのだ。
すると自分は、「本当に自分はサッカーがしたいのか」と「数あるうちからサッカーを選ぶ理由や意味」を探るようになった。
サッカーで人に出逢い、考え方を学び、価値観に出逢い、礼儀を学んだ。
全てが思い通りにならないことも、思いは伝えないとわからないことも、諦めなければチャンスが来ることも。サッカーに、人生で大切なことを学び、サッカーは人生の縮図であることを知り、心の底からそう思うようになった。
しかし、それでもサッカーである理由を考えた。
十何年も続けてきたサッカーに、いや、サッカーをしていた自分に疑いの目をもった。(当時の部員ブログでも書いていたのでその記事も是非)
いい意味でも、悪い意味でも、自分にはサッカーがあったのだ。
無意識のうちに惰性になっていた。
何を引き換えにサッカーをしているのか。
「ごめん、その日部活あるわ。」
この言葉で、何を断ってきただろう。
この言葉で、何よりサッカーを優先したのだろう。
そして、優先して、望んで、やってきたサッカーからは何を得てきたのだろう。
選択とは、選ぶことであり、棄てること。
選択とは、犠牲でもある。
そう感じている。
”失って初めて気づく。”
ここでの気づきは、何も大切だということだけではない。
必要なものも、無駄なものも、もっと別の何かにも気づくことがある。
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