雨宮塔子のパリ通信#11 パリの街中で観るバンクシー作品
10月17日、イギリス中部の町に描いたという新作を自身のInstagramで公開したバンクシー。今回は#10「コロナ禍にパリの展覧会で観るバンクシー作品」に続き、パリの街なかで見ることができるバンクシー作品について。
さて、パリの街に残されたバンクシーの作品は前号で触れたバンクシー展でも展示のあった5作品にあと5点を加え、10作品あるという。
その中でもバンクシー本人が自身のInstagramで公表したことで自分の作品だと認めている8つのグラフィティを見に行きたい。その8つをバンクシーがインスタグラム上に挙げた順番で示してみると次のようになる。
① 「ポンピドゥーセンター裏のカッターにまたがる覆面のネズミ」
13 rue de Beaubourg 3区
② 「傘をさしたネズミとエッフェル塔」
Pont de Grenelle 16区
③ 「紳士と犬」
2 rue Victor Cousin 5区
④ 「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」
41 avenue de Flandre 19区
⑤ 「五月革命のネズミ」
9 passage de la main d’or 11区
(35 rue Maître-Albert 5区)
⑥ 「女の子と卍」( "Little girl covering a swastika")
56 Boulevard Ney 18区
⑦ 「ネズミとシャンパンボトル」
34 rue du Mont-Cenis 18区
(2 rue des Hospitalières Saint-Gervais 4区)
⑧ 「バタクラン」
18 passage Saint-Pierre-Amelot 11区
バンクシーの一連のグラフィティがパリで発見されたのは2018年の6月20日。その数日後にあたる6月26日に①と②を、翌日の27日に③、④、⑤を、28日に⑥、⑦、⑧をと、3日に分けて挙げている。その順番通りに巡ってみようと調べてみると、②、③、⑤、⑦の4点は壁が何者かに消されたり塗り潰されたりして、バンクシーのグラフィティは跡形もないという。⑥は建物自体が現在は取り壊されてグラフィティが描かれた壁ごと消失。さらに⑧は去年の1月に、①は9月に盗難の被害に遭ったそうだ。
この2年の間にほとんどが消失したことになる。バンクシーが2003年に行われたインタビューで「グラフィティこそ民主主義のアートだ。いい作品は残るし、どうでもいい作品は簡単に消されていく」と語っている記事を読んだことがあるけれど、バンクシーを取り巻く環境はこの発言から17年を経た今、はるかに複雑になっている。
ストリートアートを保護するか、あるいは撤去するかは地元コミュニティの反応の違いによると言われているが、そうした地区行政の判断いかんに委ねられるだけではなく、オークションでの彼の作品の落札価格が上がる一方の今、盗難のリスクも比例するように増すばかりなのだから。
「都市や屋外、公共の場所こそアートが存在すべき場所」
「アートは市民とともにあるべき」
(映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』の映画宣伝コメントより)
というバンクシーの持論どおり、今も常にストリートに活動の主軸を置き、無料でグラフィティを描き続けるのは、道行く人誰もが彼の作品を見られるようにという思いからだろう。それが、ストリートの特性である、保護も監視もなく戸外に放置されていることで、盗難の憂き目に遭い、闇市やオークションで法外な値段で売られて、私たち大衆の目に届かないとしたら、バンクシーにとってどんなにもどかしいことだろう。バンクシーは資本主義における不正や不平等や消費主義を、作品を通してずっと批判しているから、なおさらである。
そうしたこともあって、バンクシーはあえて自分のものだと公表しないこともあるのだろうか。先に挙げた8つの作品のうち、⑤と⑦の作品は似た作品が現存している。バンクシーのコメントは出ていないものの、完成度、ロケーション、出現時期からみて本物と見られている。バンクシーは偽物が描かれた時は、自分のものでないと公表してきた姿勢も、この2作品をバンクシーのものとするのに説得力を与えている。
私はその2つの作品、⑤「五月革命のネズミ」(通称:「赤いリボンのネズミ」)と⑦「ネズミとシャンパンボトル」を、先に挙げた8つの作品の中で唯一現存している④「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」(通称:「ナポレオン」)に加えて見に行くことにした。
写真:「五月革命のネズミ」
1968年の8の字が消えてしまっているけれど、May 68 と英語ではなく、Mai (5月)とフランス語で書かれているのも、パリジャンの心を温かくしたのではないだろうか。
2018年はパリの学生運動「五月危機」(「五月革命」ともいう)から50周年を迎えた年。バンクシーも先に書いた自身の6月26日にあげたインスタグラムで
Fifty years since the uprising in Paris 1968.
The birthplace of modern stencil art.
(1968年のパリの決起から50年。現代ステンシルアート誕生の地。)
という言葉を添えていることから、パリに来たのはこの五月革命についてのグラフィティを描くことが目的のひとつだったことが推測できる。
インスタグラムで公表された「五月革命のネズミ」は11区にあったそうだが、このバンクシー非公認の方は5区の、それこそ五月革命の発祥の地となったソルボンヌ大学からほど近い、モベール広場にあった。私も何度か食材を買ったことがある、小さなアジア食材店の外壁だ。
写真:バンクシーのグラフィティとは知らない人も少なくない。
この「五月革命のネズミ」は、11区にあったネズミ共々、ミニーマウスの髪型をしているのだけれど、11区のがピンクのリボンであるのに対し、5区のネズミのそれは赤白の水玉模様になっている。本家ミニーマウスのリボンもピンクと赤白水玉の2種類だったっけ・・・。ミニーマウスの髪型をしたバンクシーのネズミは可愛らしいけれど、バンクシーといえば、2015年に手掛けた“Dismaland”/ディズマランド(陰鬱な遊園地)でディズニーをパロディー化したことで有名だ。
このステンシル(型紙)には五月革命の50周年を単に記念しただけではなく、やはり何かしらのアイロニーもこめられているのだろうか。
いずれにせよ、バンクシーの作品にも数多く登場するネズミは都会に生きる労働者階級や弱者の思いを代弁する存在、または人々に追いやられるやっかい者という意味で、非合法であるストリートに常に作品を残すバンクシー自身の投影とも言われている。
自由、平等、セクシャリティをスローガンにソルボンヌの学生が自治と民主化を求めた運動は、最終的に労働者にも波及していった。“権力はストリートにある”という思いで人々をひとつにした五月革命に、バンクシーが深い共感を覚えているのは間違いないと思う。
続いて向かったのは4区にある「ネズミとシャンパンボトル」。じつは私もランチをしたことがある、とあるイスラエル料理店の外壁にそれは描かれていた。フムス(ひよこ豆のペーストにゴマペーストやレモン、ニンニク、オリーブオイルなどで調味したもの)や他のペーストなどをワンプレートにしたランチをしたのはもう10年以上前のことで、店内で食べたのだけれど、コロナ禍とあって今はテラスもたくさん出ているから、贅沢にもバンクシーのグラフィティを眺めながら食事することができるのだ。
写真:4区のマレ地区のイスラエル料理店。向かって左側がテラス席。
この日到着した時は食事の時間ははずしていたため、人影はまばらだったけれど、それでもこの「ネズミとシャンパンボトル」が描かれた奥のコーナーの席はすでに埋まっていた。
写真:「ネズミとシャンパンボトル」
ラベルなどのディテールは18区のモンマルトルにあったステンシルより詳細に描かれているそうだ。
とくにバンクシーのステンシルに目を向けることもなく、静かに談笑していて、バンクシーのステンシルをそれと意識しているかどうかは窺い知ることができなかった。
写真:あくまでもさりげなく描かれている。
バンクシー公認の方の、18区にあった「ネズミとシャンパンボトル」とは、図式を左右で反転させた形になっている。傾いたシャンパンボトルの上方の壁はそこだけ青みがかったグレーの塗料がぼかされていて、残念ながらコルクに乗ったネズミのステンシルが消されてしまっている。シャンパンボトルが比較的クリアに残っているだけに、なぜネズミだけ消失したのかも気になる。
レストランだからシャンパンボトルのステンシルはむしろレストランのテラスの雰囲気を盛り上げているけれど、〈不衛生なネズミはそぐわないから?〉〈レストランのオーナーはバンクシーの存在を、その価値を知らなかった?〉〈あるいはバンクシーだと知っていたからこそ、パレスチナ問題で長年パレスチナ側の立ち位置をとっているバンクシーにあえて異を唱えるため?〉〈もしくはまったくレストランとは関係ない人の仕業?〉
憶測が自分の中でぐるぐると回るが、これも楽しいことだ。
バンクシーの作品巡りは、“宝探し”と表現されるけれど、見た人それぞれが謎解きをしたり、思いを馳せることもそれに含まれているように思う。
このイスラエル料理店から徒歩圏内にあるのが11区にあるバタクラン劇場。2015年に起きたパリ同時多発テロでの犠牲者への追悼としてバンクシーがバタクランの非常扉に描いたグラフィティは前述したように去年の1月に盗難に遭っている。が、すでに窃盗犯6人がフランスで逮捕され、イタリアの農家の屋根裏から無事押収された作品もフランスに引き渡されているという。じきにバタクランに戻ってくるとの報が入って久しいから、もしかしたら非常扉に元通りに設置されているかもしれない。私はダメ元でそちらにも足を延ばしてみることにした。
結果はノー。この9月25日にバタクランにほど近い旧シャルリー・エブド社の入居していたビル付近で、刃物による傷害事件が起きたばかりである。パリ警視庁が現場付近に近づかないよう呼びかけていたくらいだから、バタクランにバンクシーの作品を戻す時期も慎重に図られているのかもしれない。
凄惨な事件が続くこの付近こそ、バンクシーのメッセージがこめられたグラフィティが必要だと切に思った。
バンクシーのグラフィティは描かれた場所との関係に意味が生まれるというけれど、バタクランの非常扉のバンクシー作品の不在が、その意味を実感として私の胸に投げかけてきた。
写真:バタクランの非常扉。90人の犠牲者を追悼したバンクシーのステンシルは、犯人たちにグラインダーで扉ごと切断され強奪された。今もなお、作品はあるべき所に戻ってきていない。
気を取り直して19区に向かう。19区にある「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」は、先に挙げたバンクシーの8つのグラフィティの中で、唯一公式の、現存する作品だ。
実はこの作品こそ、バンクシー最大の来仏目的だったのではないかと、私は秘かに思っている。
パリでバンクシーの一連のグラフィティが発見されたのは、前述した通り、2018年の6月20日。この日は国連総会で制定された「世界難民の日」である。バンクシーが難民問題について強い憤りを持っていることは彼の過去の作品から容易に推測できる。
例えば2015年にはフランスの北部、カレー県に作品を描いている。ロダンの彫刻「カレーの市民」で有名な港町だ。百年戦争さなかの14世紀、1年以上にわたってイギリス軍に包囲された歴史がある。近年にはフランスからイギリスに渡りたい難民たちの移動ルート上にあるため、「ジャングル」と呼ばれる不衛生な環境下でキャンプを張る難民が後を絶たなかった場所である。
このカレーの難民キャンプが解体され、フランスとイギリスのメディアを賑わせたのが2016年10月下旬。バンクシーはそのずっと前にここにシリア移民危機をテーマにした作品をいくつか残しているのだ。
シリア移民の息子であるスティーヴ・ジョブズを描いたのがそのひとつ。年間約76億ドルもの税金を払ってアメリカを潤わせているのは紛れもない、シリア移民の子どもであることに着眼させ、移民受け入れの対応の問題を提起している。
(「シリア移民の息子」に関する記事『The Guardian』 サイトより)
さらに2016年1月には、フランス政府がこの難民キャンプの難民に対して催涙ガス等を使用したことに抗議する作品をロンドンのフランス大使館の向かいの建物の壁に残した。「レ・ミゼラブル」のコゼットがフランス国旗を背に催涙ガスに包まれているグラフィティだ。コゼットの左下には唐突な感じでQRコードが。催涙ガスの使用を否定しているフランス警察が実際に催涙ガスを使用した証拠を示すYouTube動画のそれである。
「レ・ミゼラブル」のコゼットをモデルにした作品に関する記事(『The Guardian』 サイトより)
バンクシーにしてはストレートな表現に思えるけれど、難民に対するフランス政府の対応を広く世間に知らしめ、真っ向から抗議の意を示したかったことが窺える。自由、平等、博愛を表す三色旗の、博愛を示す赤い生地の端の部分が裂かれたようにボロボロになっていて、博愛の精神どころか人権もないがしろにするこの国を象徴しているように見える。
そうしたことを踏まえると、バンクシーは6月20日の難民の日をめがけて来仏したとしか思えない。そしてこの19区にある「ベルナールから峠からアルプスを越えるボナパルト」は、まさに難民、移民対策に対するフランス政府への告発といわれているのだ。
19区の移民街に巡り着く。治安がそうよくないこともあって、観光客はもちろん、在仏日本人もなかなか足を向けることのない地域である。バンクシーのグラフィティは多くの移民が暮らしている公共住宅の壁に描かれていた。状態は悪くなく、マントの赤がまずパッと目に入ってきた。
写真:「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」
以前はグレーだった壁が水色に塗り替えられた公共住宅の外壁。以前の壁ごとプレキシガラスで保護されている。
フランスの新古典主義の画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドの同タイトルの絵のパロディであることがこの赤いマントと騎馬像から一目瞭然だ。ただ大きく違っているのは馬に跨がった人物の顔がマントに覆われて見えないことである。
ダヴィッドのオリジナルの絵の主目的はプロパガンダだったため、"Calme sur un cheval fougueux"(荒馬を冷静に乗りこなす)姿をナポレオン自らダヴィッドに求めたそうだ。その指示通り、冷静沈着なナポレオン・ボナパルトの表情が印象的だ。また、左手で荒馬の手綱をしっかりと引き締めているのに対し、右手は山頂を指差していて、目標を明確に示し、それを完遂させる強い指揮官をイメージさせる。
写真:馬の前脚は欠けているし、赤いマントの端はプレキシガラスからはみ出している。
ところがバンクシーのナポレオンはまるで目的を見失ったように何も見えていない。顔に巻き付いたマントを振りはらおうともしていないから、見ようともしていないのかもしれない。いずれにせよ、見えていないのだから、正しい道に導きようもない。あるいは、正しい道に導けないから、こちら側に、大衆の前に顔向けできないのだろうか。
この作品は、大統領就任が39歳と、40歳で大統領となったナポレオン3世を抜いて史上最年少となったマクロン大統領の移民政策の指揮ぶりを批判していると言われる。
けれど、フランス政府の移民政策の進捗の遅さ、迷走ぶりはマクロン大統領に始まったことではない。バンクシーがマクロン大統領就任前から難民の窮状を告発してきたことを思うと、移民・難民対策に携わってきたフランスの歴代指導者をも、まとめて批判しているのではないだろうか。顔が見えないということは一人に特定できないという意味もこめられているのかもしれない。
写真:移民が多く住む、バンクシーのグラフィティが描かれた公共住宅の公共スペース。子供たちが遊んでいた。
この19区のナポレオンの他に、同じく難民問題をテーマとした作品が⑥の「女の子と卍」だった。今では建物が取り壊されたために壁ごと消失したグラフィティだ。
その建物とは、18区の難民受付施設。近隣には大きな難民シェルターもあったのだが、このシェルターはスペイン人で自身も幼少の頃フランスに移住してきた現パリ市長のアンネ・イダルゴ氏の意に反して閉鎖されたそうだ。閉鎖されたのが2018年の5月、つまりバンクシー来仏のおよそ1か月前だというのはけっして偶然ではないだろう。
「難民が地中海で命を落とすのを、パリ市は見過ごすわけにはいかない」(『HuffPost』2016年5月31日付け)とイダルゴ市長が創設を発表した、移民、難民を受け入れる初の公式シェルターだった。
バンクシーのグラフィティが消失してしまうのは悲しい。が、彼のアートは続いている。
この夏には船を購入したというニュースが入ってきた。アフリカから地中海を渡ってヨーロッパを目指す難民や移民を海上で救助する民間活動を支援するためだという。去年の9月に救助活動を続けている女性に連絡し「難民危機をテーマにした仕事で得た金を、新しい船の購入などに使ってほしい」と申し出て、実際、フランス海軍のものだった船を買い取り、改造したそうだ。
写真:バンクシーのインスタグラムより
だから今日も、「風船と少女」の少女が救命胴衣をつけ、ピンクのハート型の浮き輪を手にしたステンシルが描かれたバンクシーの船は高い志を掲げて航行しているのだろう。
バンクシーと同時代に生きて、同世代でいられることを幸せに思う。これからも彼のパフォーマンスを含めたアートをずっと見守っていきたい。
雨宮塔子 TOKO AMEMIYA(フリーキャスター・エッセイスト)
’93年成城大学文芸学部卒業後、株式会社東京放送(現TBSテレビ)に入社。「どうぶつ奇想天外!」「チューボーですよ!」の初代アシスタントを務めるほか、情報番組やラジオ番組などでも活躍。’99年3月、6年間のアナウンサー生活を経てTBSを退社。単身、フランス・パリに渡り、フランス語、西洋美術史を学ぶ。’16年7月~’19年5月まで「NEWS23」(TBS)のキャスターを務める。同年9月拠点をパリに戻す。現在執筆活動の他、現地の情報などを発信している。趣味はアート鑑賞、映画鑑賞、散歩。2児の母。
【パリ通信#10「コロナ禍にパリの展覧会で観るバンクシー作品」⇩】