「翻訳家として市役所との間に入る」東京でもバズった地方の雄・豊岡市のPR〈ファーストフォロワーとの出会い方〉
国が「地方創生」を掲げ今年で10年。自治体の創意工夫の取り組みを国が後押しし、地方に「仕事をつくる」「人の流れをつくる」「結婚・出産・子育ての希望をかなえる」「魅力的な地域をつくる」に沿った施策をデジタルも活用して展開してきた。しかしながら、国全体の人口減や東京圏への一極集中の流れを変えるには至っておらず、地方はなお厳しい状況にある。「もう10年」なのか「まだ10年」なのか、地域創生ラボでは後者の姿勢をとり、辛抱強く地方の創生に邁進する開拓者を応援する。
「ファーストペンギン」だけでは成立しない地域の課題
「ファーストペンギン」という言葉がある。主にビジネス分野で使われるもので、ペンギンの行動習性からきたものである。普段、陸上で過ごすペンギンだが、危険を顧みず魚を獲るため、最初に海に飛び込む者を指す。ビジネス分野では新しい領域を切り開く人を「ファーストペンギン」と呼び、彼らは、リスクを負いながらも大きなリターンを獲得している。
「私がむしろ重要だと思うことは、そのファーストペンギンに続いて、集団全体が海に飛び込み、皆が成長していく点」
こう語るのは、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の宇宙飛行士候補者候補・米田あゆさん。東京大学入学式(2024年)で述べた祝辞での言葉である。
「誰かが挑んだフロンティアをただ後追いすることではなく、チャレンジ精神そのものを学び、他者と協力し合いながらも、一人ひとりが独自の一歩を踏み出すことではないか」とも語っている。これは、地域にも当てはまる言葉だろう。地域に入って様々な取り組みを行う開拓者「ファーストペンギン」がいるが、ただそのまま後ろを追随するのではなく、独自の一歩を踏み出して成長していく集団があることで、地域は強くなる。言うは易く行うは難しである。
しかし、日本の地域には、ファーストペンギンの思考・熱意にいちはやく気づき、海に飛び込み、成長した人がいる。本連載では、彼らを「ファーストフォロワー」と称し、「ファーストペンギン」との関係性を紹介する。
「もったいない」と言い続けた『サザエさん』オープニング
かつての豊岡といえば、城崎の温泉街と11月から3月にかけての蟹のシーズンが観光の目玉だった。しかし、豊岡にはほかにもまだまだ魅力があるはず。故郷を離れていた田口さんだからこそ、まちの外に魅力が伝わり切らない歯がゆさを感じていたという。とはいえUターン直後の田口さんは市街地から離れた神鍋高原に住んでおり、行政やまちおこしに近い位置にはいなかった。
「アニメ『サザエさん』がオープニングで日本の各地を紹介しているじゃないですか(『日本全国サザエさんの旅』)。豊岡市も取り上げてもらったことがあるんですけど、もったいないように感じました。そこに載ることが目的になってしまっていて、そこから先が設計されていない。どこに届けたいのか、コミュニケーション設計の仕方を考えなくてはと思いました」(田口さん)
その想いを胸にしまっていたわけでない。知人や友人と会う機会があるたび、地域が抱える課題に言及し続けた。折しも、豊岡市の行政も地域活性の転換期を迎えつつあった。
「当時の副市長の真野毅さんが、大交流アクションプランを進めていたんです。今で言うところの関係人口を指す、交流人口を大きくすることを目的にした取組です。真野さんは民間企業出身で、公募で副市長に選ばれた方。ある時、僕と真野さんがお会いすることになりました。豊岡はすごくいいまちなんだけれども、PRの仕方やコミュニケーション設計ができていないこと、一つひとつ丁寧に進めていけばプランを実現できることを伝えたんです」(田口さん)
想いをストレートに伝えたものの、すぐには動き出さないだろうと考えていた田口さん。ところが予想は良い意味で裏切られ、翌日には大交流アクションプランアドバイザー就任依頼の電話がかかってきたという。
「副市長から『非常に参考になる話だったのでアドバイザーをお願いしたい。予算はないけれども、市長まで話を通したから来てくれないか』と頼まれました」(田口さん)
田口さんを驚かせた、豊岡市役所の意思決定のスピード感。そんな変化を市役所内で感じていたのが、もう一人のキーマンである谷口雄彦さんだ。豊岡市役所大交流課初代係長を勤め、現在は市長公室長(秘書広報、経営企画、行革・DX推進)として市政運営に注力している。
世界中が同じような街並みになる中で豊岡市はどうするか
交流人口を増やすために、豊岡市が2013年に新たに設置したのが「大交流課」だ。大交流課に谷口さんが配属されたのは、本人の強い希望があったから。
「急速なグローバル化の進展で、世界中が同じような街並みになっていくけれど、豊岡市のような小さな町が生き伸びるには、グローバルを追いかけるのは違うはず。豊岡らしい歴史や風土に根付いたまちづくりをしていくことで、地域が輝きます。そのためにも豊岡の存在を知ってもらうこと、人・情報・モノ・コトの交流が必要だということで、大交流課ができました」(谷口さん)
「僕は民間で2年間働いてから旧豊岡市役所に入職しました。2005年に1市5町(豊岡市、城崎町、竹野町、日高町、出石町、但東町)が合併して豊岡市となりました。僕は合併のための事務局に派遣され、合併に携わったんです。その後は企画課、都市整備課を経験。大交流課ができたときはすごくワクワクして、行きたいと手を挙げました」(谷口さん)
大交流課初代係長として意気込んだ谷口さんだが、わからないことの連続だったと当時を振り返る。
「情報発信といっても、市役所の記者クラブに情報を投げるくらいしかできませんでした。メディア掲載だって、取材する側が見つけてくれないと取り上げてもらえなくて……」(谷口さん)
当時の市長が掲げていたのが「(情報発信で)箱根の山を越える」という目標。そこにはどんな狙いがあったのだろう。
「東京発のニュースに取り上げられるような取組をして、豊岡の情報を日本全国に届けたかったんです。けれど東京で『豊岡エキシビション』というPRイベントを開催しても、なかなか決め手がありませんでした。意思を持ち体制を整えたものの、やり方がわからない。そこに田口くんが来てくれて一気に開けたんです」(谷口さん)
アドバイザーに就任した田口さんは、市役所に足繫く通うように。
「谷口さんが僕のための場所を作ってくれたというのがすごく大きいんです。それまでは誰かに豊岡の課題について話をしても、感心してくれるだけでした。アクションを起こせる人は(谷口さん以外に)いなかったんですね」(田口さん)
「何かピースが欠けているところに田口くんが来てくれました。副市長の目から見ても、田口くんは豊岡市役所に必要だと感じていたようでした。メディアとのネットワークを繋いでくれるなど、PRの方法を洗練させてくれました」(谷口さん)
「媒体に掲載することはゴールではない」PR戦略
豊岡市にとって、田口さんは進むべきビジョンの解像度をぐっと上げてくれた存在。田口さんと一緒に動くうち、谷口さんにはこんな変化が訪れたのだとか。
「情報発信というのは、媒体に載せることだけがゴールじゃなかったんです。(受け手に)興味を持ってもらい、豊岡に来てもらうのがゴール。さらに豊岡に来てもらったときに、受け皿として提供できるものがなくてはいけない。全体を設計する構想の必要性に気づきました」(谷口さん)
箱根の山を越えて大交流を生み出すためには、地域資源のリブランディングも不可欠だった。
「文学のまちのイベントや城崎温泉発の出版レーベル『本と温泉』が始まったり、伝統的な木造建築と現代建築家の融合も起こりました。建築の融合は、三木屋(『城の崎にて』の作者・志賀直哉が滞在した老舗宿)のリノベーションがきっかけです。それまでは地域の建設会社と工務店にお願いすることがほとんどでしたが、いろいろな建築家が城崎に関わってくれるように」(谷口さん)
まち全体を巻き込んだ、城崎温泉に古くから根付く“共存共栄”のまちづくりには、田口さんのアイデア、そして谷口さんの調整力も欠かせなかった。
「僕が提案するイベントの作り方や仕組みは、市役所では今までにしてこなかったものばかり。それを市役所の中で、事業としてオーソライズしていく流れを谷口さんが作ってくれました」(田口さん)
「市役所って言語が違うし思考も違うんですよ。僕は田口くんと市役所の間で、翻訳家みたいなことをしていたのかなと思います。どういう風にどのタイミングで誰にどう話していくと、役所の中で物事が動いていくのかを整理していた感覚です」(谷口さん)
ヒカリエのd47食堂で提供した「豊岡定食」
田口さんと谷口さんの信頼関係も深まり、本格的に始動した大交流アクションプラン。中でもテコ入れが必要だったのが、東京で開催する「豊岡エキシビション」だ。首都圏における豊岡市の認知度を向上すべく、新しい情報発信モデルの確立が必要だった。
「豊岡エキシビションの目的は、関西では知られている豊岡の取組や観光資源を東京のメディアにも知ってもらい、全国区にしていくことでした」(田口さん)
効果的な戦略を模索する中、誕生したばかりの渋谷ヒカリエに親和性を見出した。
「ヒカリエの8Fに、ナガオカケンメイさんと東急が連携して創設したd47があるんです。d47は、47都道府県をテーマに地方のことを発信するスペース。d47食堂では富山定食や北海道定食といった、都道府県単位での定食を提供されていたのですが、食材が豊富な豊岡なら、市単位でも可能だろうということから、豊岡定食を作ってもらうことにしました。豊岡エキシビションでは、地元食材でのもてなしが一番喜んでもらえるのですが、コストもかかりますし、その場で食べた人だけが楽しめるだけで、そこから情報がなかなか広がっていかないことが課題でした。定食というメニューにしてもらうことで、コストを抑え、多くの人に食べてもらう機会を作り、情報が広がって行くことを目指しました」(田口さん)
2013年に期間限定で提供された豊岡定食には、シロイカやハタハタ、石もずく、旬の野菜など豊岡市自慢の食材がふんだんに使われた。
「さらに豊岡市といえばコウノトリがPRポイントだから、期間中は全ての定食のお米を『コウノトリを育む農法』(コウノトリ保護の観点を取り入れた無農薬・無化学肥料農法)で生産したお米にしてもらい、その旨を冊子に掲載し、豊岡市のコウノトリ野生復帰のストーリーを知ってもらうきっかけとしました」(田口さん)
ほかにも、トークショーや、こんなイベントも開催したという。
「城崎から浴衣を持っていって、浴衣のワークショップを開催しました。当時の城崎は若い女性をターゲットにしていたので、城崎温泉街を浴衣で歩く楽しみを伝えたかったんです。若い女性がターゲットですので、その層へリーチする媒体ということで『OZmagazine』にお声がけし、表紙モデルをしていたKIKIさんと写真家の川島小鳥さんに城崎に来てもらい、浴衣でまち歩きする写真撮影もしました。ワークショップで浴衣の楽しさを実感してもらいつつ、その後のトークショーで、KIKIさんに城崎で撮影した写真を見ながらトークをしてもらい、『でも、浴衣を着て一番映えるのは城崎ですよ』と伝えました」(田口さん)
さらにたくさんの人を驚かせたのが、ヒカリエのギャラリーaiiima内で再現した豊岡市長室。豊岡エキシビション開催中は、来場者が市長の執務の様子をその目で見ることを可能にした。
「全国的にあまり知られていなかった地方都市が、渋谷駅真上のヒカリエに市長室を作ったということでバズりました。俳優の柳生博さんが日本野鳥の会の会長をされていて、豊岡エキシビションにも毎年来てくださっているのですが、打ち上げ的な交流会の席で市長に対して『情報発信の革命が起こったね』と言ってくれたと聞いています」(田口さん)
好評を博すとともに、東京のメディアからも取り上げられた豊岡エキシビション。そのインパクトは全国レベルになった。
「他の自治体からも、予算はいくらで委託先はどこかという質問がきました。予算は数百万で市役所が自前でやっていますと答えると、いつも驚かれます(笑)。メディアもたくさん来てくれるようになりましたし、視察も増えました」(谷口さん)
「箱根の山を越えた大交流」を経て進化する豊岡市
情報発信で箱根の山を越えた手応えを感じ、豊岡エキシビションは丸の内や永田町など開催場所を変えながら交流人口を増やしていった。課題を抱えた地方自治体がチャレンジを成功させた要因を、2人に振り返ってもらった。
「何かアクションしなくちゃいけないし、変えていこうという機運がすごく高まっていたタイミングでしたよね」(田口さん)
「ワクワクしていましたね。大交流課は市役所らしくない課で出島のようだと言われたことも(笑)。田口くんと知り合ってから、豊岡のPRやプロモーション、演劇のまちづくりや専門職大学の誘致など、今までやったことのないことをするようになりました」(谷口さん)
まちの変革期にエネルギッシュな取り組みを進めた田口さんと谷口さん。お互いのことはどのように映っているのだろう。
「田口くんみたいな人が豊岡にいたんだなと驚きました。きっと、僕とは全く違う高校生活を送っていたんだろうな(笑)。現在、僕は大交流課ではない他の部署にいるんですけど、田口くんと一緒に働いていたときの思考回路や感覚を持ち続けたいですね。『谷口さん、それはないよ』と言われたくないなと思いながら仕事しています」(谷口さん)
「僕はアイデアとかは持っているけれど、実務はできない。谷口さんは実務も回せる人で、スピード感をもってアクションを起こしてくれました。僕にとってある意味プロデューサーみたいな人ですね。組織の人間として判断するけれども、最終的には個で判断できる人です」(田口さん)
想いに共感し協働できる仲間は、意外にも正反対の個性を持っているようだ。
「僕と谷口さんは全然違うタイプで、補い合って広がっていけたんです。僕がファーストペンギンで谷口さんがフォロワーというわけではないと思っています。僕がもしかしたらファーストフォロワーなのかもしれないですね」(田口さん)
ファーストペンギンとフォロワーは逆転することもある。それぞれが異なる能力や想いを持っているからこそ、想像を超えた可能性を見出せる。互いをリスペクトし、補い合いながら共存する関係性がまちを強くしていくのかもしれない。