雲もなく凪ぎたる朝の我なれやいとはれてのみ世をば経ぬらん

《私訳》
雲もなく、風もない朝。それが私なのか。
ただ晴れに晴れた空として、ただ疎まれて、この世を暮らすのか。

《出典》
古今集・恋五・753、紀友則

古今集は恋の歌を恋の段階の進行順に即して分類し配列している。
すなわち恋一は恋の始まり、恋二はつらい片思い。恋三は成就しても揺れる心、恋四は終わりゆく恋。この歌の含まれている恋五は、もう終わってしまった恋である。

作者は紀友則。
「ひさかたの光のどけき春の日にしづごころなく花の散るらん」でも、
のどかな、動きのない空の下に、心がちりぢりになるような美を描き出した作者である。

この歌でも、終わった恋の悲しみをいうのに、「雲もなく凪ぎたる朝」、爽やかで、穏やかで、澄み切った、しかし完全に停滞している世界を提出する。

そしてその朝が「我」そのものだという。
こんな表現の後には、時代を問わぬ人間一般の感覚として、希望や喜びの表現が続きそうなものだ。
だが友則は、その後に苦しみの表現を直接続けて、しかも初二句の明澄を一切損ねない。

それが可能になっているのは、三句の「いとはれて」が、「いと晴れて」「厭はれて」の掛詞だからである。
この三句は、よく晴れた朝の空の明るさをさらに強めながら、その澄んだ景色を、厭われる我が身にすっかり重ね合わせる。

雲もない、よく晴れた朝が暗に示しえている空の高さ、遠さは、「厭はれ」る隔絶感とも通うところがあって、うまい。だがこのモチーフの持つ効果は、それだけではない。

「諦」の訓にあてられている「あきらむ」という言葉は、「明らむ」に近いという。何もかもが明白になって、澄み切った希望のなさ。もうここから先へは一歩も進むことができないと悟る心。磨き抜かれたゼロ、すべての色を経験してきた白である。
この歌の明るさに漂うのは、こんな色合いの諦めだ。
「いとはれて」の明るさと絶望の重ね合わせは、言葉の形態上のみのものではない。そのモチーフの元来もつイメージにおいても、強く呼応する重ね合わせなのである。(わたしは言葉の上だけのかすかな接点にすがってゆく言語芸術も好きだが)。

ただ、朝の晴れた空というモチーフのイメージが、一つであるわけでない。諦めだけでなく、いやそれ以上に、希望、喜びといったものと結びつく(なお、和歌のよって立つ王朝貴族の世界では朝は恋人の別れる時間だが、それは普通もっと暗い時分だ)。

したがって、厭われた身と穏やかな朝の明るさをイコールで結ぶなんてことがしっくりこない、というのも一理ある。斬新で、効果的だが、同時にちょっと無体な表現でもあるのではないか。

わたしは、和歌の表現の魅力とは、現実の世界の原理だけに従っていてはであうことのできないもの、結びつくことのないものを結い合わせる力だと思っているが、それにしたって、たしかにちょっとけれんみがあるかもしれない、とも思う。

だが無論、この無体な落差は意図されたものだ。その落差そのものが、この歌の主体の悲しみの深さであり、明るすぎる景色との不一致が、そのままこの世に身の置き所のない、歌中主体のあり方を示す。
この掛詞はたしかに軋んでいて、強引で、理不尽だ。でもその軋みそのものが主体の味わっている苦しみである。

見渡せば、哀惜の思いを、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」(古今集・哀傷・832、上野岑雄)と述べた歌もあった。大切な主を喪った者が、桜に、せめて今年だけは墨の色に咲いてくれと懇願する。
ほがらかに咲きいでた花の色と、喪に服す人の心の落差に耐えかねたのである。

しかしこの友則詠はその落差に耐える。申し分のない明るさ、穏やかさ、新しさに満ちた景色と恋を失った歌中主体との落差を直視し、掛詞の中に言い留めた。
人が死に、桜が朽ちても、この落差は言葉の中に固定されている。掛詞というレトリックの力をまとって、一瞬の衝撃であり続けている。

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以前のわたしは、ここまでしか考えていなかった。この時点で、十分この歌が好きだった。
でもたしかに、上の句の衝撃が大きく、下の句が弱いような印象はあった。

最近、せめて古今集くらいは全部暗唱できなくては、と何度目かに思いはじめた。
暗唱しようとすると、自分が一首のどこを読めてないかがわかる。2回ほど、「世をば経るらん」と間違えて、考えて、この歌がより好きになった。

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(今日までの本文研究の結果)一般に準拠すべきとされる本文の下の句は「世をば経ぬらん」である。
「経る」に、完了・存続を示す「ぬ」がついている。
ということはつまり、この歌の主体の自身の把握には、物事の進行度、時間の感覚がまとわりついている。

これ以上なく晴れて穏やかな朝の空のように、厭われてこの世を生きている「わたし」は、今のみの点的な存在ではない。
「ぬ」が完了であれば、これまでずっと。存続であれば、これまでも、これからも。
朝の空の絶望を生きるというのである。

完了か存続かというのは(外国語の文法体系の影響も受けつつ、一部の)日本語学者が観察し見出した区分(をわかりやすく学校で教えるために用いられている用語)であり、詩の原理とはまた別の論理によっている。
自律的な言葉の世界の中で息をしつつ、それを破壊してゆくのが詩というものなのだ。日本語の文法体系が必ずしも和歌を解明できないことは、認める。でもここではあえて山田文法、というよりは学校文法に戻る。

そして結局、存続をとる。この歌の主体はこれからずっと厭われて生きていく、この明白なあきらめ、真理のもと、ずっと生きていくのだと思いたい。「存続」というよりも、完成した状態、もう変えられない状態がそのまま継続していくというのがわたしの理解に近い。終わり続ける、あるいは終わりのない終わり、そういったものだ。

わたしはそれくらいの絶望の重みを「世」という言葉に、それくらいの不変性を「雲もなく凪ぎたる朝」、停滞の極致に至った明るさに見出す。だから、「世」に「夜」との掛詞をみたり、「凪ぎたる」に「泣きたる」の掛詞をみるような解釈はとらない。

もちろんその絶望の重みと不可変性を重視するからこそ、この主体に一切の未来を与えない、という解釈も十分成立すると思う。
もうこの人はこの世を経験し終えた。すっかり完了した。もう何も残っていない。

これも捨てがたいのだが、わたしが存続ととってしまうのは、最後の「らん」のせいだ。

現在推量、または視界外の推量を示す「らん」。
どちらの機能を担う場合も、じつに心深い言葉だが、とりわけ視界外推量の「らん」はうつくしい。視界外推量の「らん」とは、埒外のもの、主体の手の及ばないものに、及ばないと承知していながら、なお心を馳せていく姿勢である。

この場合はさすがに視界外推量ではなく現在推量ととるべきだろうが、しかしそれでも、我が身のことを「らん」と思いやる言葉遣いには、自分のことであり、現在のことでありながらも「だろうか」と推量するばかりで断言できない、自分自身に対しても無力な人のあり方が現れているように思う。そして、その無力な自分をしずかに見つめる主体の瞳が。

その瞳のしずかさがより効果的になるのは、「ぬ」を完了と取るときではなく、存続ととるときではないかと思う。一度きりの終わりは、ちょっと「らん」に対して派手で、甘い。

上句が示した主体の絶望と、下句が描いた無力なありさまと、それを静かに言葉にぬきとめる強さ、それにふさわしいのは、完了よりも存続のように思えるのだ。澄み切った、終わり続けて終わることのない絶望を、しずかに見つめている認識それ自体の美しさ。

きっとこの歌の主体は、虫ピンに刺しとどめられた蛾のように、明るい絶望のままであり続けるだろう。
もうこの主体に終わりはない。人間ではない。この世がある限り続くだろう朝の空となって、絶望であり続ける。そんな自分を見つめ続けている。

そんなふうに理解してみたい。

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文章を書けなくて辛いので、文章を書いて癒やされたいが、書く内容がないので困っていたけれども、
なんてことはない、和歌があった。

和歌は、3行以上文字が読めない人、眠い人、時間がない人、体力がない人、お金ない人にも読める、やさしいやさしい文学であり、芸術である。著作権なんてものにも縛られていない。もちろん、ある程度楽しく読めるようになるには基礎投資が必要で、そこに大変なお金と幸運が必要であることは認めるが。

でもとにかく、和歌はわたしにはやさしい。
ありがとう和歌。なんか妙にダウナーな解釈をとうとうと述べてしまったけれども、わたしはめちゃくちゃハッピーだ。

もう少し上手に書けたらいいんだけどな。あったまかってーな、と書きながら何度か思った。でも書き続けているうちにちょっとでもうまくなれたらいい。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?