本を買うことは、ともに暮らす相手をえらぶこと

わたしは、ようやく今一人になったところで、一人でいるのがとても心地よい。

性欲がないわけではないが、他人はわたしの性欲を解消する道具ではない。それを抜きにしてしまったら、特に誰かとわかりあったり支え合ったりして生きていたいなどと思わないので(お金だけは折半できたらいいのになと思うし、他の人のことはわかりたいけど、わたしのことは別にわかられなくていい)、誰かと暮らしたいとは思わない。

というのは正確ではない。わたしは本と暮らしていた。だからさみしくないのだと、昨日、大学生協の書籍部門を徘徊していて気がついた。


わたしはこの大学の生協が長年好きではなかった。ヘテロ男性向けのポルノまがいの漫画ばっかりプッシュしていた時期があったから。何よりむかついたのはその視野狭窄ぶりだけれども、わたしは漫画も好きなので、漫画なんていう超絶すばらしい表現形式をつまらぬ、環境型セクハラにもなるようなポルノに奉仕させるものにはむかむかしてしまう(つまらなくなければいいよ)。

映画版「この世界の片隅に」が公開されたころ、さすがにこの店も心を入れ替えたか?と思ったら、こうの史代など一冊もなくて、何やらよく知らないけれども萌えアニメの設定資料集が「マストバイ!」と平積みにされていた恨みを忘れない。


しかし、自分が決定的に傷つけられない限り恨み続けるというのはなかなかできないもので(逆に、傷つけられたときの恨みはなかなか手放せないもので)、いつのまにかこの店も、いい特集をするようになってしまった。個人出版社特集だとか。港の人セールだとか。わたしは昨日、小一時間ほど、店内をふらふらしていた。こうの史代はおろか、高野文子も、TONO『アデライトの花』も置いていて、びっくりした。


書店の中をふらふらしていると、全体像の見えない言葉がたくさんわたしに堆積してゆく。「言語は行為である」、だとか…
そのいちいちをもう思い出せないのは、未知の本のタイトルに囲まれるという、書店、あるいは図書館の中にいるときにしか味わえない言葉との関わり方だからだ。でも、そのときもらった未知の何かは、つかめないだけでわたしの中にある。

本の背表紙に囲まれるというのは、独特の快楽である。本のタイトルはその本の代表として立つ、独立不羈の自負も持っているし、読者に対する惹句の務めを引き受ける、しなやかなプライドも持っている。それに誘われ、あるいは引き立てられて、映発してゆく心。わたしはいろいろと相談しながら、少しずつ本を抱えていく。本を選ぶと言うが、そこには、本に選ばれている、という緊張感もある。


書店が図書館と決定的に違っているのは、書店の本は、わたしとともに暮らしてくれるかもしれない、ということだ。どうしたって、図書館の本はわたしとは一緒に暮らしてくれない。だからこそ、「この本をわたしの部屋に入れてもよいのだろうか?わたしの本棚の純度を下げることにはならないか?」と思うような本とも、図書館では気軽に親しむことができる。わたしは、「何を読みたいか」という視点は図書館にゆだねて、書店では「これから、この本と暮らしてゆきたいか」という視点をもって歩く。


積読とかいう、感性への忠実さが感じられない言葉(だって、美しくない。本がすきな人がこんな駄洒落をゆるせるものか??)を使う気にはなれないのだが、この言葉を使うひとには、好感を持つ。きっとその人たちも、一緒に暮らす本を買う人なのだろう。いつ読めるかはわからなくても、背表紙に囲まれることが好きな人なのだろう。たぶん、わたしも同じだ。


それでは、昨日買った本たちと、少し話をしてきます(と書いてみたけれど、実際は先週買った本を携えてお仕事にいきます。がんばるぞ)。


わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?