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《不登校》の3つの要素

《不登校》と、ざっくりと語られ過ぎです。

《不登校》には少なくとも3つの要素(声)があることを理解してほしい。
➀学校復帰/社会復帰
②休養・休息
③多様なまなび(オルタナティブ/多様な形態)

 これらを別々の集合と意識してそれぞれに語られていなくて、まったくのカオスなんです。まったくぬるいままの何色なのかもわからない湯だまりなんです。温まりもしない。休まりもしない。かといって、一度つかってしまえば、そこからあがることも困難になっているのではないですか。


➀学校復帰/社会復帰:なにも今すぐ〔在籍する学校に戻る〕ことでも行き渋りを〔治す〕などという意味でもない。

 今は充分は休養と休息が必要であるが、いつか必要な時そしてそれが可能になった時、学校でまなぶ機会を奪われないように配慮と支援を必要とする声。
 学校を必要とする人はたくさんいる。
 学校でまなぶ必要のある人もいる。
 
 経済格差とは、地方単位でも家族単位でもあります。学びたくてもその教育機関に進めない人がいたり、そこで学びたくても病気治療や住居との距離がハードルになって通えないことがあったりということです。

 家庭教育の格差もいわれています。経済格差ともリンクしますが、親の持つ教育観により家計の優先順位が違っていて、経済的な余裕があってもなくても高等教育に進学させてもらえなかったり、必要な道具を買ってもらえなかったりと、家庭環境に左右されることです。

 これらは公教育の福祉の側面にもっとも期待されているところです。学校に行っている行っていないに関係なく、学校=一条校に在籍しているかどうかに関わらず、どこでまなびたいのかまなんでいるのかの別にも関係がありません。こどもを含むすべての人たちに確保されるべき教育の機会を社会はどう考えるのか。公教育がどのように市民を支えるのかという課題です。
 いまだに「公教育=学校教育=義務教育」という概念が崩れていません。そのことも「こどもを含むすべてのひとたちがまなぶ機会」を考えることから遠ざけられています。

 そして支援に足りていないのが、心を支えるケアサポートです。それは基本的なカウンセリングだけでなく、周囲の理解や受け容れ、包容、寛容さ、待ってくれることや寄り添ってくれること、そんな雰囲気です。教育を受ける権利について理解があまり無く、偏見と差別というカタチで目に見えてそこにあるのに、どういうわけかそれに対抗するすべが無いように感じられているのは、そういったケアが足りていないからです。過去に慣習に任せるままで「今までそうしてきた」とか「聴いたことが無い」とか「普通」「常識」といった言葉で知ろうとしていないのです。未知に踏み込んだ人のほうこそが無力であると思い込まされる事態に陥るのです。「世間の目」が立ちはだかっています。時にそれは幻にすぎないこともあるのに、それを気づこうとする気力体力すら奪われています。誰に奪われているのでしょうか。

②休養と休息:疲弊した心を休ませるのに必要な長い休養がいる。時には立ち止まって考えるために短い休息も必要だ。人間なんだから。

 学齢期のこどもであれ、学生であれ、社会人であれ、そのなにものにも属さない人であれ、人間ですから休養と休息は絶対に必要だとする声です。それなのにどういうわけかそれが忘れられがちです。
 なぜなんでしょうか。
 どうしてなんでしょうか。
 それがゆるされない社会であるという認識と、それを無自覚で受け入れてしまっている認識、そしてそれが「おかしいだろ」と感じる正常な感覚をどこかに落としてはいまいか。問いたい課題です。


③多様なまなび(オルタナティブ/多様な形態):既存の学校制度の枠にとらわれないまなびの機会

 学校制度で定められた規定枠にそぐわない人もいます。しかし、それも公教育として管轄されるべき範囲であって、日本という国の教育制度の内であるにも関わらず手つかずであるという事実があり、国際的にも指摘されているそれらの課題を国全体で取り組んでほしいという声です。

 あたかもオルタナティブはごくごく最近のブームであるかのように話題にされている面もあるようですし、不登校からの流れ、学校の代替として認識されていることに大変な危機感を覚えます。なぜなら、都合のいいように解釈され、利用されがちだからです。

 それぞれ➀②③の人々があるいはその周囲にいる人々が「3つの声」が《不登校》ひとつにまとめて語られてしまうことが事態を一歩も進めなくし、力の強い権力を有するものだけに都合よく使われていってしまいます。すでにそうなってはいませんか。

 多くは感情的な理由をかかげて語っています。
 感情は課題を共有する人たちには共感を得るとしても、他には攻撃や排除に映ることもあるのです。その立場にいる人にとっては正論であり、ごく正当な望みであり、感情であるかもしれません。でも立場が違えば、その要求はデメリットや不安材料でしかないこともあるのです。共通項を持っていればなおさらです。

休養・休息(②)を求める心の内では〔学校なんて無くていい。行かなくていい〕という言葉が癒しを与えてくれます。一度は全否定することが安堵を生み、そこから受容が始まるのですから。

 オルタナティブを求める声(③)には②の「学校なんて無くていい。行かなくていい」との声に重なることがあります。でも「学校ではないところとその支援と保障を望む」のですから、その理由や動機は違っています。表に出てくる同じ音がする声だけをとりあげて《仲間・グループ》にしようとする試みは、そうすることで「大きな声」になるからでしょう。「大きな声」になれば耳を傾けてくれる人も増えるはずですから、それは意図する戦略です。その先では仲間が別れる可能性も潜んでいます。あるところまでは共同戦線で、というわけです。
 
 学校復帰/社会復帰(➀)を求める心にあるときは、上記の声はなんとも不安を覚えるはずです。
 学校がより良くなることを望んでいる。
 もし学校ではないところであれば、その保証を望む傾向にある。

〔専門機関にこどもの将来を託す親の責任〕という信念があるはずだからです。
 学校が示す役割とよく理解していて、国家形成を理解しているといっていいのでしょう。ある意味、国のための国民・国民のための国という概念を深く信仰しています。
 ですが状況により、学校をあきらめなければならなくなったとしたら、オルタナティブなまなび、既存の学校以外のまなびの場の確保と支援の声(③)に重なっていきます。
 そして、学校と同様であることの保証を求める声をさらに上乗せする声をあげていきます。この声をことさら拾い、仕事をまっとうしなければならないのが公共機関と市民団体・機関です。世間一般に向けて、その正当性を証明しなければならないからです。市民団体・機関においては、そうしなければ存続を許されません。運営する者の居場所も生活も、利用する人々の居場所も生活も崩れてしまいますから、それを崩さないことが最優先とせざるをえないのではと思います。大変苦しいなか、仮面をかぶらなくてはいけない人々がたくさんいます。公と私の立場と個人的な気持ちに挟まれている人たちです。そのどちらかに割り切ることを決意する人たちもいます。そうして同じ場にいながら、同じ課題に取り組みながら、同じ悩みを共有しながら、社会の仕組みに分断され、力を奪われていくのです。


 
 それぞれの要素と部分集合の存在を理解することなく、もっとも中心にいるはずのこどもとその家族の声を聴いているようでざっくりとひとくくりにすることで、国も自治体も学校もそして民間の教育団体もグループもそれぞれのポジションから脱しないで円の中から外へと訴えるばかりのようではありませんか。

 なぜなんでしょう。
 それが「分かりやすい」からです。
 そうすればそれぞれ「市民からの支持」を得るからです。
 「自分たちだけ」に。
 
 まるで票の獲得のように。
 まるで商品のヒット化をはかるように。
 まるで保護を求めるかのように。
 まるで自分たちの世界を作ればよい、他の世界のことなど知らないとでもいうかのように。

 「大きな声」で市民権を得ようとすればするほど、そこからはじきだされるこどもとその親が、実は相当な数いるのではないでしょうか。どこにもあげられる声を持たない人々がいるのではないでしょうか。彼らはときどきひょいとそこに現れます。身近なところにひとりふたりと。ですが大きな声ではないので点在していてつながることが難しいように思えます。孤独のうちにあるものは飄々として、あるものは打ちひしがれて、漂っています。


 こどもたちはそんな大人の社会をどう見てるんでしょう。

 
つまらない
こどもは おとながつくた世界にひきこまれるだけでいいのか
取り込まれるだけでいいのか
おとなのミニチュアであるだけでいいのか

ちがうんじゃないの?

おとな も こども も どっちでもいい
どちらでもない
つまらないと思うひとたちは、もっとたのしんだらいい
つまらないひとたちを置いてけぼりにしていい

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。