見出し画像

教育機会確保法の成立前と後で、教育権の認識はどう変わったか

 ホームスクーリング・センターkokageは、アンスクーリング家庭で過ごしてきた私(4人のこどもらと5人暮らし)が、これまでの10数年の学校とのやりとりの経験から得た知見をまとめてみたいという気持ちが込められています。もともとのきっかけはオルタナティブ教育を広める活動の一部でした。



「こどもの意思で学校に行かない」と、「親の意思でこどもを学校に行かせない」

 教育機会確保法の成立(2017年)以前では、学校にこどもが行かない理由として、親の意思だけで「ホームスクールをするので、こどもを学校に行かせません」と申し出ることは、学校教育法に抵触する可能性があるとして勧められる行為ではありませんでした。
 では「違法か」という点については、結論から言えば、学校教育以外の普通教育を選択する場合の手続き等を定めた法律等は存在しないので、あてはめる法律が無いのですから、違法ではないと考えるのが当然でしょう。「違法」というと、すぐさま罰則がついてくるものと考えられがちかもしれませんが、違法だからといって必ずしも罰則の規定が存在しているとはいえないことも前提として知っておきたいことですね。

 学校教育法に抵触する可能性とは

①正当な理由がない場合
 学校教育法に照らし合わせてみれば、普通教育に学校教育を選択していると明確な意思がある家庭ならば、学校教育を提供する学校の運営に沿って、学校教育を子どもに受けさせる義務をおっていると解釈できます。
 現行の日本の教育制度では、公教育は学校教育のみとなっています。ですから、すべての学齢期のこどもがいずれかの一条校の在籍生徒となっています。「学校に登校しない」ことは、こどもに起因するこどもの負うべき責任ではなく、「学校に行かせない」親の就学義務不履行ということで、出席督促状というものも存在しましたし、罰則規定も実行されたことがありました。「学校に行くこと」は、こどもの義務ではないが、親の義務であるといえます。これはこどもを労働に使うことや、教育を与えない動機があった結果「学校に行かせない」親・保護者に対するものです。


②正当な理由があると認識されている場合
 学校教育法に抵触する可能性として、不登校はこれにあてはまりません。「不登校の理由」に正当性が求められる道理はありません。「不登校」の状況にあることが登校しない正当な事由となっています。
 すでに長い不登校の歴史の中で知られていることですが、「登校拒否」という単語で知られていたころから「問題行動ではない」と周知されるべきとされていた事実です。よって不登校を理由として「登校しない」ことは暗黙の了解として存在し続けてきたのでした。
 「学校にがんばって行こう!」とか「今日は、校門まででいいから」などど諭したり、親に「今、がんばらないで将来どうしますか」などと脅す(親切心のつもりでも)などをして、学校に慣れされるといった古いやりかたは、登校刺激といって推奨されることではありません。特にこういった方法は子どもの個人の人格(個人の尊厳)を認めていないやりかただからです。
 「不登校」は正当な事由であり、出席督促状も罰則規定も事実上、適用されなくなりました。「事実上」と言わなければならにわけは、廃止はされておらず、効力は有効のまま現存しているからです。また、「子供は学校に行くもの」という価値観念もいまだ残っています。
 不登校支援はいまだ充分なものではありません。生徒や保護者の希望に寄り添ったものになっているかという点では多くの疑問を抱えています。


 近年の、不登校は「こどもの意思」であることが前提だと認識されはじめています。けれども、もう少し細かく見ていくと「本人が行きたいにも関わらず、行くことができない」状態のことを指します。もちろんそれ以外のケースもあります。
 「行くことができないので、今は、登校しない」という意思が本人にあり、それを尊重することが大切なのです。

③本人や親の判断力が未熟だと想定される場合
 本人の意思といっても、まだ判断能力の未熟な年齢においては、親の意見に左右されることはまぬがれません。親・保護者でも、その決定の判断基準や情報の処理、精神状態によってはその決定を全面的にゆだねてよいものかと判断しかねる場合もあります。精神状態というのは、「こどもが学校に行かない」状況やそのきっかけなどに対して、冷静な分析がなく、激昂して、話し合いができないなど、間に仲裁や第三者の介入が必要な場合です。
 判断と意思決定と、その条件を生徒に対する責任を持つ立場でどれだけ容認できるのか、現場の判断にゆだねられています。現場がどれだけその決定に責任の負うのかという覚悟にも左右されるでしょう。

 ただし、その現場を支える制度や仕組み、スクールソーシャルワーカーなどの人員確保や特別支援(スペシャルニーズ)を必要とする生徒たちの専門的な支援等、まだまだ不十分です。その概念の熟慮も及ばず、その必要性を感じる温度差もあるのです。なぜなら、これらの課題が話し合われるのは、ほとんど当事者の間であったり、なにかあったときに初めて議論されることだったりするからです。社会課題として、誰もが知り、考えることができる空気がいまだ無いということなのでしょう。

④親の信念で「学校以外の学習機会を選択する」場合

 ・信仰上の理由 
 ・教育理念(オルタナティブ教育など)
 ・公教育(学校教育)への疑念
 ・将来の進学・進路等の理由(海外への移住が決定しているなど)
 ・特性に応じた特別支援(スペシャルニーズ)のある学校を選ぶ

 このようなとき、いずれにせよ一条校の在籍生徒となっている場合が主ですが(各種学校・インターナショナルスクールなどを除く)、学校とのやりとりで多くの親はその決断を信頼されています。学校側のいくつかの不安を払拭するだけの材料がそろっているからです。おおむね在籍校との関係は良好な家庭です。
 しかし、このケースについても「絶対」ということはありません。親の意思が強く、こどもがそれ以外の選択肢を与えられていない場合も想定しうるからです。

 ①から④まで想定されるケースをみると、〔教育・福祉〕の課題がそれぞれに横たわっていることに気づかれたでしょう。制度上の課題と、思想や概念、価値観といった課題です。そして、いずれにせよ共通する課題は〔多様性を受け容れる寛容な社会〕といえるのではないでしょうか。


こどもの意見表明権~こどもオンブズマン制度~

 どのケースにおいても、日本ではまだ「こども意思」を丁寧にひろう公的な機関や機会は用意されているとはいえません。

 こどもの意見表明権を護るこどもオンブズマン制度はまだ十分に拡がっていないと感じます。その思想が、市民レベルで共有されていないという意味です。こどもの人権を護ろうとする意識と、それを守る公的機関としての第三者の存在の必要性が熟慮されていないのです。その必要性や重要性に、充分気づかれ、話し合われていないのではないでしょうか。
 そのため「こどもの声」を置き去りにして、おとなたちが考える「こどもによかれ」と考える、多種多様な提案がなされていくばかりです。どれだけ良い提案であっても、当の中心となる「こども」の気持ちが置いてけぼりでは、本当は「その子」のためにと始めたことであっても、当人にはそぐわず、当人が「いつか・どこかに」ちょうどよい居場所に巡り合うのは、偶然が持ってくる奇跡となってしまいます。
 ですから、「学校に行かないこどもたち」がどれほど今までに数多く存在していたにも関わらず、こどもたちがみずから「居たいと思える場所」は、「どこにでもある」ものとはならず、「どこか遠くにはあるけど、近くには無い」状況が生まれているのではないかと思ってしまいます。そして、結局、多くの悩める親たちは、「どこか」を探し続け、さらに「どこか」と同じ理想的な場所を身近に「いちから誰かと作る」ということを繰り返してしまうのです。「見つける」ことが困難なのですね。
 答えは、こどもに聴けばいいことだったりするかもしれないのに。身近な人に訊ねれば早いのかもしれないのに。どこか遠くの誰かがなんとかしてくれると考えるようになってしまっているかもしれないのです。だって「どこにでもある」なんて思えてないから。


学校教育の多様化と、多様で自由なまなび

ここから先は

7,323字
この記事のみ ¥ 1,000
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。