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教育の機会は多様にある(その3)


【ホームスクールと学校教育】

 ホームスクール家庭にむけて、その家庭での学習内容を報告するようにと指示する向きがちらほら届いています。ただ報告してもそれが出席扱いになるわけではないのです。学校長が個人的になにかしらを判断するための資料とするのであり、対外的に「学校の責任を果たしましたよ」という証明にすぎないものです。ホームスクールを含む在宅学習を実践する家庭では、家庭学習内容が学校教育履修として認められ、公正な評価として学校の指導要録に記載されることを望んでいます。しかし強調しておきますが、それがすべてのホームスクール家庭の希望ではありません。すべてのホームスクール家庭に必要な措置でもありません。このことはホームスクール制度を求めるうえで重要なポイントであり、普通教育の機会確保を語るうえでは欠かせない視点です。


 教育機会確保法は、最初に通らなかった「多様な」教育機会確保法案がありました。その中には「個別学習計画書を提出する」内容の条文がありました。各家庭でその計画書を作成し、文科省から認定を受け、学校以外のまなびを義務教育として認定するというものです。これがひとつの《就学義務違反》かどうかを区別するフルイとなる予定だったのだといいます。出席日数0日でも卒業可能であるとなった経緯を前述しましたが、就学義務違反(不当にこどもの意思が尊重されずに学校に行かせないなど)なのか不登校(こども「学校に行かない」意思がある)なのかという区別をつけることの困難があるのです。(※参考 前川喜平氏講演内容より)。
 
 ホームスクール家庭に対して家での過ごし方、その学習内容を文書にして提出させることは、ある意味《就学義務違反》か《不登校》かの区別を学校が行おうとしている現れなのかもしれないと受け止めることができるのです。しかし家庭がホームスクールを実践するということに限っては、計画書の提出とそれを許可認定されるというようなことは必要なものではないし、益にもなりません。それは学校から不当に支配されていることを意味するからです。念のため確認しておきますが、ここでいうホームスクールとはオルタナティブ、自由なまなび、自由教育をさし、学校教育で行われる学習カリキュラムの履修ではありません。
 「ホームスクールをします」というだけの報告をどこかで受け付ける、そういう機関がありますよ、ということであれば納得の話ではあります。ですが求められるのが、「ホームスクールの学習内容を報告せよ」「そうすればホームスクール実践を許可認定する」ものであれば、話はまったく違ってくるのです。
 前述の在宅学習内容を、学校教育履修として評価される要望は、その理由として高校進学等があげられます。その内申制度に沿うには必要不可欠であるという認識があるからです。すべての児童生徒が高等教育への進学を希望しなおかつそれが適しているとはいえないのではないでしょうか。
 職業の中には早く取り掛かれば早いほど技術の向上が認められるものもあります。急激な時代の変化を振り返ってみても、この先、どのような暮らしが人生で得られるのかを誰も断定できないのです。今まであたりまえと思われていた人生のレールは、すでにその先は保障されていないものとなっています。また学力という知識の獲得とその評価によらない広い教養と知恵、人間性、世界観や人生観といったもので得る「しあわせ」の実現は、さらに未知の可能性を秘めています。幸福感を得る素材がどこにあるかは、それこそひとりひとり違うのです。
 
 ホームスクールは、そのカリキュラム(もしくはノンカリキュラム)スタイルを家庭で、こどもの個々の特質に合わせて組み立てることに特徴があり、他の家庭と同じものにはなり得ません。ましてや学校教育における学習指導要領に当てはめることもできないものです。学校の学習カリキュラムを家庭でおこなおうとする試みはスクールアットホームとよばれ、家庭が学校化するものです。これは学校教育の画一性から逃れることがなく、こどもひとりひとりの特性を生かす機会を逃すことにもつながります。また教員養成の資質と、学校という環境をそのまま家庭にあてはめることには無理があります。
 ホームスクールで過ごす様子を、学習指導要領のカリキュラムにてらしあわせて計画書を作成したり、報告することは不可能です。それは、いわばこどもが育つすべての気づきのうちから、学習指導要領に該当する項目を抜き出しなさいというようなものだからです。学校教育はいいかえると、人間の営みを教科に分類することで成り立っています。多くのホームスクールでは、暮らしがまなびそのものとなり、時間割のように教科に分割することができません。もしあるとすれば、それは到達目標が明確となったカリキュラムを活用することでありホームスクーリングとよばれます。ただしそのカリキュラム内容は、その順番や内容については学校教育と同期しているとは限りません。より専門性に富んでいるかもしれないし、より特殊性に富んでいるかもしれません。

 家庭で子が成長するという自然な暮らしの営みを、成績をつける評価対象として観察し、記録することは難しいことです。育児日記に点数をつけるようなものです。確かに幼児教育では発達段階にてらしあわせて、どこまでできているかというリストは存在します。しかし成長するにつれて、精神的な成長もあれば、内面の成長もあり、より多くの要素が順不同に発達していきます。どこまで保護者がそれを客観的な視点からうかがい知ることができるでしょうか。9才も過ぎればすでに大人の理解など的はずれだとこどもたちは思っているかもしれません。それでもおとなにつきあっているのです。
 自由なまなびであるホームスクールとは、ホームスクーリングであれアンスクーリングであれ、親と子が主体となり、子の自主性を重んじ、その純粋な行動を尊重する日々の在り方をいうはずです。誰に評価されることも、誰に認められ許可される必要もないのです。
 すでに普通教育として認められています。
 この事実を、学校から支配されるかたちで隠されてはいけないのです。

 

【ホームスクールやオルタナティブ教育は、学校教育法の義務教育として認められるのか】

 学校教育法で、普通教育の目的を達成するための目標をかかげている家庭教育と自由教育であれば、学校教育の義務教育(履修)と認められていてもなんら剥離はおこさないのではないかという可能性について。

 もう一度、学校教育法第2章義務教育にある条文を振り返ってほしいと思います。
 《普通教育の目的を実現するための目標を達成するよう行われる》ことが義務教育であるといっています。掲げた条文のなかには「学校内外における」と二度出てきますが、「学校」を基準とするのは、これが学校教育法に書かれた文言であるからです。そのほかの内容をみてみても、「学校」の部分を「家庭」や「自由教育を実践する施設をもつ運営主体」と置き換えても、なんら齟齬を生じないのではないでしょうか?
 その具体的なカリキュラム、具体的な内容は、問われていはいないからです。だからこそ公立であってもそれぞれの特徴をもった学校が存在してきたのでしょう。もっとも最近は教員研修も国からの指定の研修にしか参加できないような実情もあり、なお一層の画一化を醸し出しています。教育機会の均等は求められていますが、教育成果の高いレベルでの平準化は果たして求められることでしょうか。

 教育基本法のもと、普通教育として学校教育法とならんだオルタナティブ教育法の成立をのぞむ声が続いてます。それは学校教育の管理下にあったり、学校教育として認められるようになるというようなものでは決してないはずです。むしろ、そうであってはいけないという強い意思を持たなくてはいけないものです。こどもの人権と家庭の安心を確保するためにです。普通教育を学校教育に独占させたままではいけないのでしょう。
 
 教育機会確保法を、学校教育との折り合いをつけるために活用するような動きには厳しく見守っていきたいと思います。家庭のひとりとして賛成や反対という立場ではなく、こどもたちにどのような影響があるのか、果たしてこどもたちの最善の利益をもたらしてくれるものになっているのか、見極めていくことが親としてできることのひとつだと考えます。そのための情報交換、最新の動き、意見をよく見聞きしたいと思っています。


ホームスクーリング・センターkokageコラム
2017/04/15記『教育の機会は多様にある』
2018/09/10最終更新 

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