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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(11)

第1話あらすじ

  ●雪洋の予言

自宅療養が明けて職場復帰すると、美咲はまた元の仕事三昧へと戻ってしまった。どうせ一ヶ月で戻るからと、職場の者は美咲の仕事に、大して手を出していなかったのだ。

「お帰りなさい」
雪洋が玄関で出迎える。
「ただいま帰りました……」
足が痛くて靴が脱げない。
「肩につかまっていなさい」
ふらつく美咲の足元に雪洋がしゃがむ。
足の裏の腫れに触れないよう、そっと靴を脱がせてくれた。

「近頃ますます帰りが遅くなりましたね。せっかく一度は回復したのに」
立ち上がった雪洋に、すみませんと謝る。
美咲の目に悔し涙が溜まった。
嗚咽が漏れる。

本当に私、何やってんだろう。

声を出さずに肩をふるわせると、涙がパタパタと床に落ちた。
胸の奥で、何かが黒く渦巻き始める。

「責めているわけではありませんよ。いつもご苦労様」

こういうとき、雪洋は決して美咲を責めない。
泣いている子供をあやす母親のように、そっと慈しむような声で慰める。そのぬくもりにひどく癒され、独りじゃないんだ、ここに寄り添ってくれる人がいるんだと安心させてくれる。

――このぬくもりに心から浸ることができたら、どんなに楽で、どんなに心地よいだろう。

「仕事、辞めたっていいんですよ」

だが美咲は「辞めていい」という言葉にいつも頑なだ。一度だってうなずくことはない。辞めたくても辞められないから、言われるたび辛くなる。

「――着替えてきます」
葛藤か苛つきか。
心が乱れる。暴走する。
何に? 雪洋の優しさに?
どうして――

部屋に行こうとすると、雪洋がアシストしようとする。
「一人で大丈夫です!」
なぜこんな険のある声で拒むのか。
自分が嫌になる。

胸の奥が、黒いものにどんどん支配されてゆく。

機嫌の悪さに雪洋も気付いたはずだ。
それでも呆れたり怒ったりして、美咲を突き放すことは決してない。美咲の細波など、雪洋の大きな器には丸ごと納まってしまう。

「これに乗りなさい」
廊下の隅に畳んで置いていた車椅子。
雪洋の声音はいつもと変わらず、穏やかだ。

「これなら私の姿が見えないからいいでしょう? 白衣を着ていないとあなたは嫌がりますからね」
「そんなことは……っ」
「いいから乗りなさい」

渋々車椅子に座る。
胸の奥で黒く渦巻いたものも一緒に乗せて。

 

「あとは大丈夫ですから」
部屋に着くなり雪洋を拒む。

「白衣を着ていないと極端に嫌がりますよね。男性恐怖症ですか?」
「違いますよ。理由は……前にも言ったじゃないですか」
こんな姿、医者にしか見せられない。
男の人には見られたくない。
――それが理由だ。

雪洋は黙って美咲を見つめていたが、もうそれ以上は立ち入ってこなかった。

「明日も遅くなるんですか?」
「はい、部署のみんなと飲み会があるので」
「仕事のあとにですか? 夜遅くでは体が辛いでしょう」
「……大丈夫です」

自分の声の低さに驚く。
体調が悪いからか?
気持ちがすさんでいるからか?
いや、その両方か。

「また『大丈夫』が口癖になりましたね」
「本当に大丈夫ですってば!」

言い方がきつい。
自分でもわかっている。
感情が暴れ出すのを抑えることができない。

また元に戻ってしまうのか。

「もう出席の返事したし、お世話になった方の送別会だから出ないわけにもいかないし。一次会ですぐ帰りますから」
「でも体調が悪いなら断ったって――」
「だから! 終わったらすぐ帰るって言ってるじゃないですか!」

――もう嫌だ。

「飲み会が好きなんじゃない! そういうことじゃない! みんなは普通に参加してるのに、私だけこの体のせいで『普通に』参加することができない! 体を気にしながら参加する二十七歳がどこにいます? ただ『普通に』過ごしたいだけなんです私は!」

言葉が、止まらない――

「先生もうあっちに行ってください! 着替えをしますから!」
「だめです」
「出てってください!」
「今出ていったら、美咲はきっと、物に当たります」

病名がわかった日の夜、雪洋が言った言葉が脳裏に浮かぶ。

「――私に当たりなさいと、言ったでしょう?」

こんな時でも、雪洋の声は落ち着いていた。
今の美咲には、それがあまりにも辛く、胸が痛い。

怒気が揺らいだ隙をついて、雪洋がふんわりと美咲を包み込んだ。痛くないようにと、そっと抱きすくめる。
白衣を着ていない雪洋にそんなことをされて、嫌だとは思わなかった。
ただ、あったかい――そう思った。

「先生……私……っ」
頑なだった気持ちと一緒に、体が崩れ落ちそうになる。震える手で、雪洋へすがりつく。

「もう嫌……っ」
何が嫌?
この体? それとも仕事?

違う。
私自身が、一番嫌。

雪洋が背中をさすり、ポンポンと優しく叩いた。
その手のあたたかさが、背中から胸の中へ伝わり、黒く渦巻いていたものを散らしてゆく。

「――今までできたことができなくなって、美咲は悔しい思いをたくさんしたでしょうし、これからもするでしょう。でもね、悔しくて泣いてうずくまるだけじゃ、何も変わりません。これからはどんどん工夫していくんです」
「……工夫?」
「予防を心がけ、違和感があったらすぐに対処する。卑屈になるためじゃなく、美咲が快適に過ごすために」
「でも私は、普通に生きたい。だってそれが普通なのに……っ」

ついこの前までは異常だと認めてほしかったのに。今度は普通でありたいと願う。
自分でもどうしたいのかわからなくなる。
わからないから、癇癪かんしゃくを起こす。

雪洋の考え方はもちろんわかる。
それでもやはり、
「先生、ごめんなさい……。私まだ……この体を受け入れられない」
納得するには時間がかかる。
こんな自分は、惨めにしか思えない。

「焦らなくていいんですよ。美咲はよくやっています。もう少し、楽をしたっていいんですよ」

自分の体は受け入れられないのに、雪洋の言葉とぬくもりは、じんわりと美咲に染み渡っていった。

 


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小説の本編は無料で読めます。番外編や創作裏話などは有料になることが多いです。

どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…

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