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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(21)

第1話あらすじ

「美咲! どうしました!?」
雪洋の声――
倒れたおかげで頭に血が巡り始めたのか、めまいは少し治まっていた。

「水を何回も流す音がしたから心配していたんです。嘔吐ですか? 下痢ですか? 倒れたとき頭は打っていませんか?」

ゆっくりと体を起こされる。
頭に異常がないか、雪洋が指先で探っている。

「頭は平気……。おなか、急に痛くなって……便意が、何回も、何回も……」
「下痢ですか?」

美咲はかすかにうなずき、でも、と唇を動かした。話すのがひどく億劫だった。

「おかしいの……さっきから、血が……いっぱい……」
「下血――」

雪洋の顔が青ざめた。

「美咲、こういうのは出た量が重要なんです。どのくらい出ました? 思い出して」

どのくらいと言われても、なんと答えたらいいものか。

「ペットボトルが500mlなんです。何本分ですか」
「先生、その例えやだ……」
「そんなこといいから!」

先生の怒鳴り声、久しぶりだな、と美咲はぼんやりした頭で思った。前に聞いたのは、美咲の身を本気で心配してくれたときだった。

「わかんないよ……。でもいっぱい出た……。それが、三回……」

言いながら目の前が暗くなってきた。
遠くで耳鳴りがしているような感覚もある。

「でももう出ないし、今はちょっとだけ指がしびれてるのと、視界がかすむくらいで……。だから、大丈夫です……」
「それはすでに大丈夫じゃないです!」

美咲のめくれたパジャマの裾からひどい紫斑がのぞく。それを見た雪洋がギリッと歯噛みした。

あれ? 先生いつもと違う。
すごく怖い顔。……怒ってるの?
ううん、違う。
先生の方がなんだか……苦しそう……

何が起こっているのかよくわからない。
でも雪洋がそんな顔をしていたということが、自分のおかれた状況を理解させた。

――これはきっと、よくない。

かすんでいた視界がいよいよ真っ暗になった。
雪洋の顔も、見えなくなってしまった。

「あ……先生、どうしよう……」

遠くにあった耳鳴りが急に近くなった。
上体がふらふらして定まらない。
吐き気がする。
頭も痛く、後ろへ引っ張られるように重い。

こんなのは初めてだ。

真っ暗な視界の中、雪洋の手が肩を支えているのが、かろうじてわかる程度。

「ものすごい貧血が、きそう……」
これまでに経験した貧血の比ではない。

「これ、本当に……だめなやつかも……先生……」頭が、体が、黒く濃い霧に飲まれたようだ。

どうしよう、どうなるの私。

怖い――

そう言った。
そう言ったつもりだが。

何も聞こえない。
何も見えない。
感覚もない。

何よりも雪洋の顔が見えないことが、一番の不安だった。

先生、助けて――

うまく言えただろうか。
口は動いただろうか。

頭の重みに負けた時、ガクン、と力なく、美咲の頭は後ろへ倒れた。

その直後――
内股に、生温かいものが這っていくのを感じた。

何……?

雪洋は瞠目して、美咲の内股を這っていくものを凝視していた。
急速にパジャマを染めてゆく、大量の血を。

「美咲っ!!」

美咲の意識は、再び途切れた。

  *

『こうさか医院から高坂総合病院へ、転院搬送――』

深夜。市内に救急無線が飛び交う。

『二十七歳女性、大量下血し、現在意識無し。ドクター、一名同乗』
『了解○消本部――』

さっきから騒がしい……
救急車のサイレン? すごい近くで鳴ってる。

今度は何?
電子音……聞いたことがある。
病院で……
バイタルをチェックする、モニターの音……

美咲が薄くまぶたを開ける。
体がひどく重い。
目だけを動かし、音が鳴る方を見る。

ほらあった、あのモニター。
見たことある。
病院で、両親が息を引き取るときに――

あれ? 55と32って……血圧?
上なの下なの? 本当に血圧?
誰の? 私の?

いくらなんでも低すぎ。
これじゃまるで死にそうじゃないの。
両親のときも、こんなふうに血圧が急に下がって――

え? 私、死ぬの?

……でもまぁ、このまま死んでも特に未練はないか。それにこのくらいの苦痛で死ぬなら楽な方かも。

ああでも、結婚はしてみたかったなぁ。
出産も……
まぁいい、あきらめよう。
他にやり残したことは……

――ある。

人生の店じまいを中止し、美咲は体中の力を集結させて口を開いた。

「せん……せ……」

ごくかすかな声量だったが、さっきと違って発声できた感覚はあった。

「美咲?」
すぐに雪洋が顔を見せる。

よかった、いた。
雪洋に向けて、もう一度唇を動かす。

「ここにいますよ。なんですか?」
何か伝えたがっていることを察した雪洋が、美咲の唇へ耳を寄せた。

こんな雑音だらけの中でうまく伝わるだろうか。不安に思いながら美咲は雪洋へ語りかけた。

先生、知らずにひどいこと言って、ごめんなさい。
もう恨んでませんから。
どうかもう、五年前の私に、とらわれないで――

雪洋の顔が、見る間に強張る。
「美咲、知って――」

慄く雪洋へ、美咲は残った力を全部使って、微笑んだ。

やっぱり、こんな急に死んじゃうのは、困るなあ……

  *

視界に映るのは、高坂総合病院の病室の天井。
ナースステーションの目の前にあり、「重症室」と呼ばれる部屋。

点滴で左腕から入ってゆく何種類もの液体。
その中でも一際異彩を放っているのが、真っ赤な液体。

――輸血なんて大袈裟なこと、私らしくないな。

言葉は声にならず、唇も思うように動いてくれない。相変わらず、体が重い。

「血液サラサラにする薬飲んでたから、それで余計に出血したんでしょう」

救急処置室の医者が言っていた。
その薬は中止して、止血剤に切り替えるとも。

血圧がわずかに安定した隙を見て、胃カメラとCTをやった。
結果はともに「異常無し」。

久々にその言葉を聞いたな、と美咲は苦笑したが、顔の筋肉は少しも動かすことができなかった。

そのまま入院となり、何日か絶飲食して出血が止まったら、今度は大腸カメラで出血源を探すとのこと。もうまな板の鯉だ。

私が悪い――
罰が当たったのだ。

今日だけ待って、今日だけ頑張ってと、体に言って無理をした。

結果、体は待てなかった。いや、体はちゃんとその日まで頑張ってくれたのだ。
約束を果たし、日付を超えた途端に力尽きた。

体に罪はない。
悪いのは、体の操縦者である自分。

それに、雪洋にも心配をかけた。

雪洋――
救急車の中で話して以来、姿を見ていない。

「先生……どこ……?」

ようやく声になって放たれた言葉は、あまりにも弱々しい。

「雪洋なら帰したよ。もう医院を開ける時間だからね」

虚ろな美咲の視界に姿を現したのは、瀬名だった。

「気分は――いいわけないか。天野さん、今回は消化器科での入院になるけど、血管炎の合併症かも知れないから、僕も毎日様子見に来るからね」
「はい……よろしくお願い……します……」

語尾はもう消え入りそうだ。
一言発するのも億劫だが、どうしても聞きたいことがある。

「雪洋先生は……もう、来てくれないんでしょうか……」

泣きそうな顔で問う美咲に、瀬名が問い返す。

「あいつ、青ざめた顔して『美咲があのことを知っていました』って言ってたんだけど。何があったの?」
「私……本当に死ぬと思って……。だから救急車の中で、もう恨んでないから、五年前の私に、とらわれないでって……」

そういうことか、と瀬名がメガネを指で押し上げた。

「ありがとう。そういうふうにあいつに言ってくれて。雪洋ね、すごい悔しがってたよ。自分がついていながら――とでも思ってるんだろうな。あいつのあんな顔を見るのは、俺も初めてだ」

そんな、とかすかな声を漏らす。
「私が悪いのに……。先生のせいじゃ……」

視界が涙で揺れる。
体のこと以上に、取り返しのつかないことをしたのだろうか。

「大丈夫、雪洋は君を見捨てたりしない。だから今はゆっくり休んでおこうね」

今の美咲には、瀬名の言葉を信じるしかない。

瀬名が病室から去る時、教えてくれた。
雪洋がなぜあのネームプレートを後生大事に持っていたのかを。

『戒め』なのだと。

忘れたい過去でもあるが、美咲を失望させたあのときのことを、ずっと胸に刻みつけていたのだと。

もう、いいのに……
姿の見えない雪洋につぶやく。

先生どうか、もう自分を許してください――


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どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…

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