ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の舞曲世界深耕~1873年ウィーン万博年の作品を事例に考える,その魅力・美質・評価をめぐって~(*初回記述 )
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ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の舞曲世界深耕~1873年ウィーン万博年の作品を事例に考える,その魅力・美質・評価をめぐって~(*初回記述 )

Vom Donaustrande _1873

多忙極まりない情報量過多で豊かな錯綜した混迷な巷・現代と言われる21世紀多様化社会に身を置く我々は、今や国という垣根を軽々と越えてインターナショナル及びワールドワイドに音楽に触れあえる何らの不足を覚えない不自由無き日常を営んでいる。もともと西欧で誕生・日の出をみた音楽が、今日では、多種多様な区別の基準や判断がつかぬまでのジャンルに複雑怪奇発展・変貌し、そのジャンル概念すら曖昧になるほど、音楽は、我々にとっての生活上の事欠くことのできぬ決め手・ヒーリングアートとなる、生活と切り離せない不可分な要素と糧に定着されつつある点を知る。生活上つきまとう過酷で様々な煩わしいストレス社会に身を置いている我々には、様々な国の音楽文化・教養に触れ接することで、人は、今も昔も、単調でマンネリ化した日々を営む上での娯楽要素としての新鮮な心の発散薬・解放手段としての何らかの癒しを求め続ける傾向・姿勢にある点も強く変わりばえなく否めない点は揺るぎ無き確かな事実なハズだ。今の荒波にもまれた情報過多社会に生きる心身のバランスの崩れた健康や不調を病める貧しい人々に対して、常にその癒しと形の無い時間的・空間的施し及び自由を与え続けてくれる頼もしい歓迎されるべき心の強い支えとなる友・味方こそが、他ならぬ「音楽」にあるのだと感じる所以故なのだ。そんな数ある西欧文明の過去を生きた知恵ある作曲家たちの中にあって、私の最も理想崇拝し敬服してやまぬ作曲家の一人に、激動の19世紀の中欧、ハプスブルク王家の暗く、決して明るいとは言えぬ衰退の歴史の時代背景の展開下にあって、驚くほど新鮮でユニークな明るく軽めに響く作品、ワルツやポルカ、カドリーユ、行進曲、ギャロップ、それにオペレッタ.を生涯にわたって書き続けた管弦楽の自由な扱いで世紀を変革し続けた達人、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世(1825~99 )その人を例に挙げてみたい。彼については、その生涯の実像は、それらの舞曲作品の響きや特徴の多くが示している性格や明晰さほど、詳しく知られているとは言い切れないが、まあある意味で、ベートーヴェンやシューベルト亡き後の空白のウィーンに君臨した伝統音楽の枠や型に決して固執・依存・準拠しないポピュラー世界を巧みなまでに創り上げ推進した19世紀後半の西欧を代表する特異な作曲家の出現例にあったという評価が、現代人には受け入れられ、見直されていることを改めて、身に染みて感じる日々を多く経験する連続なわけです。毎年、元日のウィーンフィルのニューイヤーコンサートは誰もが知る世界一高級なイベントと見做されて、今やすっかりと定番演奏会に定着こそしていますが、この様な希少な価値あるコンサートが、ヨハン・シュトラウスにとっての生まれ母郷ウィーン、いや、世界で最も著名なコンサートホールであるハズの、今日でも黄金に光り輝き続けている内装の楽友協会ホールで行われることの意義というものは、まさに生前の作曲者自身が望んだ誇りと名誉の歴史的体現・再現であり、時代を超越した音楽の花々を軽々と生み飛ばしたメロディーのヒットメーカーたる実力と価値が没後も伝統というカラーの下で脈々と順調に継承され続けていること以外の何物でもないことは多くの音楽ファンが互いに認め合うところでしょう。今回は、筆者の note へのデビュー1号目という意味から、ひとつふたつばかり、シュトラウス作品の中から魅力のエッセンスが凝縮された軽めのワルツやポルカについて記述しておこうかと思います。まず我々が良く知るシュトラウス2世の大方の作品音源は本当にオリジナル=自筆譜に基ずく原譜に書かれた指示通りの忠実な再現なのか?という点を考えてみたいです。皮肉にもこの音楽家王朝の書き残した全ての数百万枚に及んだと伝えられる膨大量なオリジナル・アウトグラフたちは、ファミリーの構成員であり、優れた指揮者にして、やはり父や2人の兄たち同様に作曲家でもあった末弟のエドゥアルト・シュトラウス1 世(1835 ~1916 ) のヴァンダリズム ( *芸術作品などの意図的な破壊行為 ) によって20世紀に入って間もない頃、ウィーンの工場暖炉の中で灰と化し、稀に見るほど輝かしい、あの時代を克明に描き捉えた音楽本来の持ちうる真実たちがうたかたへと忘却され、歴史の闇へと消えたわけですが、20 世紀中庸には、今に続いている上述したウィーンフィルのニューイヤーコンサートの伝統が初代指揮者のクレーメンス・クラウスの合図で始まりを告げ、生前の業績が再び形を変えて蘇り返り咲く端緒を引き起こし、今日、我々がコンサートやレコード、動画上などを通じて日常的によく耳慣れし親しんで聴いている馴染みの多くの作品が蘇生される基準を定着化・性格化・様式化させたわけです。話せば長くなりますが、この作曲家の神髄はワルツのリズムや形式・性格に負う点が多いわけで、19世紀当時のシュトラウス在命中に彼の周囲環境を取り巻いていただろう舞曲作曲者たちが自作を書く上でのなによりもの規範・尺度として、言わば教科書や百科事典を引く様な感覚で、その作曲上のモチベーション・礎・拠り所としたわけです。と同時に、シュトラウスは彼以前の先人作曲家・パイオニアたちからも少なからず影響を吸収・昇華し、後年の1870年代に入ってからは本格的な舞台音楽・オペレッタに手を染める、さらなる次元域にまで到達し、飛躍発展しえたわけで、スッペやオッフェンバックらの同種の先行する作品の数々からも多くの刺激・意欲的姿勢を受け、大いに学んだハズでしょう。まだウィーンのドムマイヤー・カジノでの1844年の盛況裏に終わったデビュー後間もない若い無名の時代から後年の壮年期に至る長い期間の間に、ウィーンの街一辺倒の限られた垣根・国土に捕らわれず、全ヨーロッパ,特にはロシアやハンガリー、ルーマニアなどのバルカンや東欧民族諸国、ひいては新世界大陸国アメリカの様式や流儀を取り入れた広範な水準の自由な作品世界を書くまでに創作活動域の幅が到達進捗する次元までに及んだわけです。彼のオペレッタ作品のいくつかの素材や音楽の響きには、ウイーンの姉妹都市でもあるハンガリー・ロマのチャールダーシュ形式などに見られる民族音楽の影響や要素が生々しい程に色濃く感じられ、1866年夏のオーストリアの対プロイセン戦争でのボヘミアのバトルフィールドであったケーニヒグレーツ の開戦( ※ 別名 : サドヴァの戦い )での歴史的敗北後の翌年1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国 (*アウスグライヒ ) のかろうじての同盟締結によって、沈滞ムードに陥り絶えず苦悶に直面していた多くの周辺複合民族を抱えるオーストリア=ハプスブルク帝国は最後の中欧域での命運を賭けた生き残り勝負に挑み、20世紀に入り1914年のオーストリア皇太子フェルディナント夫妻の暗殺→サラエボ事件勃発→初の総力戦となった第一次世界大戦開戦→終戦で帝国が解体され、皇帝不在の民主国家となるまで、その最後の暗い歴史の幕が続くわけです。当時、ハプスブルク王家には悲運が多く付きまとう栄光とは言えない、挫折・衰退・悲運の一途にありました。1858年生まれの王位継承者ルドルフ皇太子が、愛人とされたマリー・ヴェッツラとマイヤーリンクの狩猟の館でピストル心中をはかる悲劇 (*マイヤーリンク事件 ) 、172cmの長身容姿と美貌で知られた独🇩🇪バイエルン=ヴィッテルスバッハ王家出身で、1854年にオーストリア=ハプスブルク家に嫁いだ皇妃エリーザベトが外国遊泳中のスイスはレマン湖河畔にて、反政府主義者を名乗るハンガリー人の暴漢ルイージ・ルケーニに襲われ、鋭利な硬鉄の刃物で胸・心臓を突き刺され即死するという不慮の事件にも見舞われました。その様な動揺・波乱万丈続きの暗い世相の社会情勢時代背景下にあって、「ワルツ王」として名を馳せ、一躍時代・世紀の人気者・寵児となりえた軽舞踏音楽のミューズ、ヨハン・シュトラウス2世。 一人の作曲家が書き連ねた音楽作品たちの中で、シュトラウス2世ほど多彩かつ色鮮やかな世界を示した音楽は彼以前には、まだ本格的に存在していなかったと過言できる魅力さが隠されており、基本的には軽めのポピュラーな世界に留まるウィーン音楽なのだけど、響きの特徴や細部詳細を噛み砕いて咀嚼すると、耳で聴いている限りでの様な単純な世界にも収まらない、複雑でヴァリエーションの効いたユニークさが浮き彫りになる点を多くの作品を通して学び直すわけです。今回の私の記述では、ひとつばかり、興味深い作品を引用し引き合いに出すことに代えて見ようかと思います。生涯に作品表に残った作品は作品番号を持つものだけでもOp・1~479まで膨大数量に及んでいますが、それ以外にも、作品名だけで後世に伝わっているものや、消失・焼失したもの、弟ヨーゼフ・シュトラウス ( 1827~70 ) の書いた作品を兄の手になる純作品だと誤認されて伝わっているもの、機会的な意味を持つもの、他作モチーフからの借用・流用で固め編み直したもの....など作品の全貌を知るにはかなりの手間と時間を要しますが、まずは、一般的傾向に倣って、廉価レーベルとして今日世界中で親しまれている52枚のディスクをまとめたMarco Polo / Naxos の完全全集集成盤を基準に考えるわけで、この52枚CD集には、我々の知らないワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の真実のオリジナル世界と呼んでも御幣ない、貴重なナンバーの品々が全て秩序正しく粒揃っており、後世の音楽学者らの膨大な研究成果を反映・定着させて、復元・オーケストレーションされ直した細かな作品に体系的にまとまって触れられる、本当に重宝する情報源・典拠資料となる価値高きものであり、現在のウィーンフィル他のシュトラウス演奏の多くも、この集成盤を基準に再現されているハズなのはほぼ確実と言ってよく、その意味でも、レコーディング史上の画期的なマイルストーンと捉えるべき不滅の意義深い音源の数々が網羅されて並んでいます。私の note 第1作目にご紹介したい作品に、クリエイター名でも使わせていただいている、急速ポルカ(*=ポルカ・シュネル // クイック・ポルカとも )<ドナウの川辺から ( = Vom Donaustrande  ) >Op・356 を作例・事例に取り挙げてみようかと考えます。実際には純オリジナル作品ではなく、ウィーン万博開催年にあった1873年発表の2作目のオペレッタ<ローマの謝肉祭>の劇中の第2幕と第3幕に表れる陽気で楽しいモチーフでアレンジさせた演奏効果のあがる爽快に走り抜ける快活なペースの短い高速調音楽です。ウィーンフィル演奏では、2000年に世紀のミレニアム祭典で沸いた巨匠ムーティ指揮のニューイヤー盤や、2015年の記憶に新しいインドの名匠メータの振ったニューイヤー盤ほか今日多くの音源を通して聴くことができる現況です。とにかくシュトラウス音楽の粋な性格やカラーを実によく捉えている佳品だと考えます。めぼしい特徴所はありませんが、諸般の悪事情が重なり、1873年当時の実質的には失敗に終わった歴史的なウィーン万博の開催年を意識して、作品名にも愛国的な意味合いが込められているネーミングさが読み取れますが、このポルカ以外にも<ローマの謝肉祭>から脚色された音楽も数点あり、~例えばポルカ・マズルカ<オーストリアからの挨拶>、<ロトゥンデ館のカドリーユ>など~1873年誕生のオリジナルではワルツ<我が家で (=Bei uns z'Haus )>や有名な傑作の呼び声高いワルツ<ウィーン気質 (=Wiener Blut ) > や、末の兄弟のエドゥアルト・シュトラウス1世の英雄的な響きの超力作<ウィーン万博行進曲>や、威勢の良さに終始貫かれた生命力に溢れた急速ポルカ<人が笑い生きるところ>、ロマンチックな明暗の色合いと対比が古典的な趣きある独特な表情を生んでいる高雅なワルツ<博覧会>などの様な万博風な特徴的・印象的響きが風の様によく吹いてもいる今日全く枯渇・風化された重要な秘作も謹数あり、我が国日本の明治政府が欧米の先進文物視察と、かつて旧江戸幕府が対列強諸外国と結んだ不平等条約の改正予備交渉を持ち掛けるべく派遣した岩倉使節団なども、万博開期後間もない頃にあった1873年6月当時、ウィーンに行き、オーストリア=ハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフ1成に直接謁見し、万博会場であったプラーター公園の「ロトゥンデ館 ,  Rotunde 」と言われた技術的に建設が大変難航し完成が万博の開期に間に合わなかったらしい特設会場(*20世紀に入り1937年頃に火災で炎上焼失し、再建はされなかった。現在は同じウィーン2区の広大な敷地面積を誇るプラーター公園の跡地場所に見本市会場・メッセが立っている)の中に設けられた「貝殻の形」をした特設ステージ上や、有名な楽友協会ホールでシュトラウス楽団の演奏を実際に聴いたらしい点が後世の時代研究などにより判明しています。実際には、ドイツのエルバーフェルトのユリウス・ランゲンバッハ率いるドイツ🇩🇪人団員・プレイヤーたちから構成された「万国博覧会管弦楽団=Weltausstellungskapelle」がこの1873年の帝都での歴史的記念イベントのために特別に編成・組織され、固有の音楽文化の彩を添えたわけです。それ故に、実質上は、ランゲンバッハ楽団の演奏であったと呼んでも表記上の誤りでないハズです。それが実際に、どの様な響きの演奏であったかは手持ちの資料が無く、ここでは何も掘り下げた詳述はできえませんが、かなりの実力者たちから成るオーケストラ集団であった点は自然と理解できる筋ではないでしょうか。わざわざ、ドイツ🇩🇪から呼び寄せ集めて特別に組織化させたくらいですから。

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又、このウィーン万博では、明治日本の展示館室も設けられ、名古屋城の黄金の鯱や大提灯、日本式庭園、大名屋敷模型、浮世絵、古伊万里、工芸品などが出品され、これら展示品の品々は当時、会場に足を運んだ現地の人々を驚愕させた様です。事実、当時の欧州は、ジャポニズムやシノワズリなどの異国趣味・東洋趣味が流行しており、それらは少なからず、音楽や文学、建築様式などに目覚ましい影響を与えた点は確かな様です。また、当時の黄金時代のシュトラウス楽団=ランゲンバッハ楽団の響きを生で直に耳にし目撃しえた当時の日本人派遣団員一行は相当に強運に恵まれたラッキーな人たちであったと連想されます。その後も、日本ではオーストリア皇帝が明治天皇あるいは皇后に送ったベーゼンドルファー社製 ( *創業はシューベルト没年でもある1828年 ) の、その名も「エンペラー ( *Emperor )」といわれたグランド・ピアノを、天皇自身が実際に周囲の側近楽師に御前演奏させて、メンデルスゾーンのピアノ小品などを耳で聴いたのは確かな事実の様です。このピアノは第二次世界大戦で破壊され、そのオリジナルは現存していませんが、そのレプリカ・複製品は今に伝わり残されており、今でも機会的なイベント時などで稀に活用されている様です。同ピアノは、1930年代には、まだ赤坂離宮 (*赤坂迎賓館とも ) に置かれ、残されていた様です。これらのほんの一部分的な列挙作品を実際に聴いてみるだけであっても、万博往時の帝都ウィーンの響きの特性や雰囲気、活気、加えてそのイメージや印象の強度がよく伝わってきて心が和む余韻が強く否めないものです。この様に、当時のウィーンおよびハプスブルク帝国王家の辿った栄光と負・苦難・挫折の歩みの歴史や、光と影の文化と重ね合わせ、対比させながら聴き進めることで、ヨハン・シュトラウスという巨人の書いた音楽のユニークな無比さ、魅力が一層リアルに強調視され、価値も倍増する輝きを秘めているに間違いないと想像されます。こんな感じで、ヨハン・シュトラウスらのウィーン舞曲世界の隠された、一見するに見落とされがちにすらある個々の既存の作品たちの背後にある魅力を主軸に徹底的に探り続け、今後もタイムリーに等身大目線で皆様に機会あるごとに、あますことなくご紹介・洗い出しができればと、あれこれと思案を巡り返しております。初めからにして、稚拙な見苦しく読むに値しない長文の活字消費となりはしましたが、今回・初回 の音楽記述考察はここまでと致します。不定期ながら、次回の寄稿及び更新もご査読・精読くだされば何卒幸いでございます。 了

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Vom Donaustrande _1873
ここ近年はウィーン音楽が関心対象域です。 主に CD・音楽古書文献・古楽譜の収集、バイオリン演奏、レビュー文章執筆などを自由にしております。あくまで個人・アマチュア領域でしてる水準ゆえ、音楽学的専門性は感じられないかもしれません。気が向いた時に寄稿します。稚拙ですが末永いご愛顧を