SFの哲学原理


SFの哲学原理――先なる想像のために

「象徴ノ意図サレザルトコロニ象徴ヲ見ルモノニ禍イアレ」
(サミュエル・ベケット『ワット』より)


文=K.N.=TaT

2017年の秋、とあるSF風インスタレーションの製作を進めていた頃の私は一つの困難を抱えていた。それは、「未来記述の不可能性」というあまりにも自明に見える問題の奥の謎、SFという主題が本質的に孕む足枷のことだ。未来の世界を思い描き、それを記述する行為とは一体何なのか、という問いは、ことあるごとに脳内反復されてほとんどひとつのコンプレックスを形成するに至ったのであった。この玉虫色の小石たちは、数多のSF作家が難なく踏み越えてきた小石たちであっただろう。しかし、書くことの不可能性の小石たちに、びっこをひいたベケットただ一人が躓き、眺め、あらゆる並べ方に替えたことで、20世紀の文学に新しい世界がひろがった事実を考慮すれば、21世紀のSF作家にとってこの小石たちは躓き、眺め、あらゆる並べ方に替える価値のある小石たちなのである。問い方を変えよ。「現象の記述がいかに可能か」から「現象の記述行為とは何か」に、「未来の記述がいかに可能か」から「未来の記述行為とは何か」に。

この論考では、SFのアポリアの周縁を彷徨い、中心部に向けて螺旋的なアプローチを可能にするために、「SF認識論」という(すくなくとも私にとっては)新奇な概念を道具立てしよう。前半では、SF認識論のあらましを1999年の3つの映画を通して把捉する。そして後半では、SF認識論と現代の社会との関わりについて論じつつ、主に2020年の2つの映画に焦点をあてたい。少し長いが、息継ぎをしながら読んでみていただきたい。

※無断転用は絶対禁止する。

ホムンクルスの在処

1999年のこと。S.F.氏は気づかぬうちに分岐点にさしかかっていた。この世紀末の四叉路のうち、最も幅広の直進路にかかる信号が『マトリックス』であり、信号は明らかに「赤」を示していたのにもかかわらず、短絡的な彼はこの莫大な興行収入の得られる道を選んでしまったのである。
「赤を飲めば、このまま不思議の国の正体をのぞかせてやろう」という甘言につられた主人公ネオが垣間見たその真実は、果たして真実足り得るほどの強度をもっていたのだろうか?

この映画に見られるような稚拙な二元論を認知科学者のダニエル・デネットは「カルテジアン劇場」の比喩をもって批判した。すなわち、観測する世界が観察主体から全く切り離されて、あたかも『経験』という映画を鑑賞するような、意識という主体(脳に居座る小人=ホムンクルス)が独立に居るように考えるのは誤りである。ホムンクルスの脳にさらに小さな極小人用のシートが備え付けられるというように、無限後退になってしまうからだ。マトリックスの人物がコンピュータによって生み出されているのであれば、それを見ている我々観客の正体とはなんぞや?

つまり、17世紀来のデカルト的偏見を、『マトリックス』は踏襲してしまっているのだが、胡蝶の夢のような素朴な心身二元論はわれわれの世界ではもはや通用しないだろう。いまや認知科学が夜明けを迎え、恐ろしいA.I.の顔面が照らされてきているからだ。恐ろしい、A.I.。

とはいえしかし、実は私は月並みな認知主義に賛同する気は特にない。さらなる高みへ昇っていきたいのだ。バリアフリーの意図を除けば、2階建ての建物に、高度な技術を駆使したエレベーターは必要ない。

なお、カルテジアン劇場論は、スピノザ的な世界観に立てば詭弁であるということは論を俟たない。心身並行論においては、精神と身体に因果連関はないのである。とすると、知の巨人デカルトが犯した残念な過ちは小人の住処にある。精神と身体という二つの実体が脳内の小さな内分泌器である「松果腺(コナリウム)」を通して相互作用すると主張したことなのだ。身体に「魂のありか」があると述べる点では、認知主義も同じだ。卑屈な人間はこの説法を聞けば即座に次のように諦観してしまうだろう。「この世はいかんせんアンバランスなんだね。魂のありかが心臓でもなく、指先でもなく、路傍の花でもなく、7と1/2階のオフィス内のロッカー後ろの扉の奥でもなく、脳の内分泌器にあるなんてね。」

滑稽な位置づけ

赤信号の向こうの道は、不毛な砂漠へつながるだろうに、無数の轍がえぐられていた。

ところでS.F.氏がアクセルを踏んで直進していかなかった二つの道のうち、高速道路に向かうための小道の信号は黄色く点灯していた。S.F.氏の車両の規格用ではない道にせよ、危険信号はたしかに表示されていたのである。

1999年に公開された『マルコヴィッチの穴』は、独自の帰謬法でデカルト主義を嘲っていた。8階と7階の間の天井の低いフロアの一部から、15分間だけ脇役俳優の意識にアクセスできるという荒唐無稽な設定のこの映画は、言わずもがな『マトリックス』とは比較にならない興行収入の低さを誇る。しかし我々にとって重要な示唆を与えてくれるものは大抵金にならないのが世の常だ。

いびつな形で精神が身体に従属するのであれば、その結節点は脳内ではなくてもよく、任意の場所に同定できる。重箱の隅をつつくような皮肉がもたらす滑稽さは、あらたな方向性を指し示してくれる。オフィスが7と1/2階にあるという不自然さも興味深い。意識の階層を喩えるには、エレベーターは最適なオブジェクトであろう。この映画では、松果腺論がもたらす歪んだ(現在から現在への)無限後退は、歯がゆい位置で停止されざるを得ない。ラストを見れば、ホムンクルスの不自由さは明らかだろう。

黄色信号の先は高速道路に通じるように見えたが、そこは出口のないループ線だった。素晴らしい映画ではあったが、良質な帰謬法には発展性がないというのが事実だ。

メタファーの限界

私がこれまでの議論でうきぼりにしたかったことは、根本的な失敗の所在である。そもそも、なぜ我々は、我々の住む世界を伝統的に劇場(テアトル・ムンディ)に喩えて理解しようとしてしまうのだろう?我々が役者なら、観客は誰だ?また一方で、劇場で繰り広げられる主題は、我々の世界の比喩に限定される必要はあるのだろうか?

この問いにこそ新しいSF認識論の生まれる契機がある。SFの哲学はSFのためにあってよい。なんとなれば我々の存在構造と劇場の構造は本来別物なのであるから。神は、人の似姿をしている必然性はどこにもないのと同様に、である。比喩として抽出処理される以前の劇場の繊維をそれ自体として観察するべきだ。もっとも、SF認識論がその道を極めた結果の実りが、我々の生の理解に務めるものに恩恵をもたらすことはありうるにせよ。とかくなんどでも言おう、「象徴ノ意図サレザルトコロニ象徴ヲ見ルモノニ禍イアレ」。劇場は人生の象徴を意図していない。比喩としてだけの存在でもない。

もっと上の階へ

S.F.氏を載せた車が進まなかった最後の道は、もっとも細く、険しかったが、信号は確かに微弱に青白く光っていた。

『マルコヴィッチの穴』という卑猥なタイトルよりもさらに興行収入の低かった1999年の『13F』という映画は、実に明快な手さばきで新しいSF認識論の道筋を探りあてていたのである。以下に要点を絞ったあらすじをみる。

デカルトの有名な言葉「我思うゆえに我あり」が冒頭に意味ありげに示される。

1999年の世界の三人の技術者たちは、あるビルの13階にあるオフィスのスパコンの中に1937年の世界を模した一つの仮想世界(第一世界とする)を創り上げ、複数の人工知能を飼育し、観察していた。そしてそれぞれが、各々の似姿を持つ「個体」をその中に放り込んで面白がっていた。

ある機械を用いると、1999年世界(第二世界とする)の住人は第一世界にその者の似姿の「個体」として侵入することができる。侵入を受けた「個体」はその間意識を失う(ただし、既視感は残存する)。しかし侵入を実行に移した最初の一人、社長フラーは、仮想世界の住人が関与してなのか殺害されてしまった。フラーは何らかの驚愕な事実を知ってしまったようだ。技術者の二人目=主人公ダグラスは、現場証拠とともに殺害の容疑をかけられた。一方フラーの娘だというジェインという人物がオフィスに訪れ、死の直前にフラーの遺志が変更され、会社の相続人がダグラスとなったことを告げる。

殺害の記憶がないダグラスは真相の解明のために第一世界に入る。フラーは手紙に手がかりを遺していたのだ。その手紙を持つ「個体」と接触を試みるが難航する。第二世界に戻ったダグラスは奇妙な既視感からジェインに惹かれる。

再び第一世界に入ったダグラスは、手紙を持つ「個体」を突き止めるが、すでにその「個体」は無情なこの世の真実を知ってしまっていた。創られた第一世界には果てが存在していた。最果ての地の先は、通行止めの道路の先にあり、世界は途切れていた。その先には増設のためか地形の骨格のみがあったのだ。

生きている場所が仮想世界であることに絶望した「個体」はその創造主たちを殺害しようとする。ダグラスはかろうじて逃れて第二世界に戻る。ジェインに会いに行ったが、なぜかジェインはスーパーで働いていて、既視感はあるがダグラスのことは知らないと言う。何かがおかしい。勘を頼りに車を走らせ、通行止めを突き破って先に向かうと、そこは第一世界同様、最果ての地だったのだ・・・・・・。

連絡があり、ダグラスはジェインの意識の入った「個体」と再会する。ジェインは実は第二世界の管理者だった。そしてダグラスという「個体」はジェインの夫の似姿にほかならず、フラー殺害は夫の操作によるものだった。悪に転ずる以前の夫に似た正確のダグラス個体に恋情が移ったジェイン。ところがダグラス個体に夫の意識が侵入してしまい、夫はジェインを殺そうとする。ここで、「仮想世界で侵入者の個体が死した場合、上層の世界において、侵入された個体の意識が復活する」というSFルールが明らかにされ、ジェインは逃走劇の結果夫を死に追いやることに成功する。ダグラスの意識は、2024年の上層の世界(第三世界とする)に転送される。ダグラスとジェインは無事再会を果たしたのであった。ハッピー・エンド。ブラウン管テレビの電源を落とすように暗転。

エレベーターの無限階

以上が大まかな『13F』のあらすじである。なんだAIを主題にしたありそうな筋書きではないかと思われるやもしれぬが、そうではない。これから更に問題点を抜き出していこう。

第一の大きな論点。かりに『13F』が、この世がバーチャルに思える心性を表出することが主眼のSF映画であるのならば、なぜ第一世界が1937年であり、第二世界が1999年であり、第三世界が2024年と時系列順になっているのか?仮想世界はホビットの住む世界でもよい。時系列がばらばらでもよい。もっと別の、全く無関係な世界の重層でもよいのである。フィクションの論理的に無限な可能性。にもかかわらず、この映画は、第一世界から第三世界までを恣意的に時系列順に配置する。さらに映画内での世界説明はこうとくる。第三世界の人々は、数多の仮想空間を創出した。しかし、たまたま仮想空間のうちに仮想空間を創造したのは、第二世界の住人だけだ、と。

ベケットに敬意を表し、分裂病傾向を加速させよう。可能なことをすべてし尽くすまで順列組み合わせ作業を続けることだ。もっと無数に仮想空間を思考せよ。映画にも当然暗示されていることだが、実のところ第三世界が最も外側の世界だといえる根拠はどこにもない。数千どころではなく、数万、数億、数兆と仮想世界を創っていけばどうか?その中の一つの世界が、仮想世界を創り出し、その中の一つの世界が、仮想世界を作り出すことだってありえる。とすれば第三世界が現実だと言える根拠は無効化されてしまうだろう。

では、無限に仮想世界を創ればどうか?当然これは無限後退である。ところがこの非常に示唆的な映画は、三世界の時系列順配置というトリックによって、無限後退を肯定する。仮想世界の外側に、さらに外側に、「現実の」世界がある。そしてそれこそが、「未来」と呼ばれる世界なのである。カルテジアン劇場の存立構造を基盤とする、SF認識論においては、無限後退して想定される観察主体の布置される場所は、「未来」と同一視されてしまうのである。我々鑑賞者は、客席にいながら、登場人物たちを過去の存在として眺める。彼らにとっては、未来が彼らを創造すること、未来から観られること、未来に自由意志が成立することが、まさに彼らの存在を成り立たせるのである。デカルトの命題から始まるこの映画は、新鮮な解釈をこの命題に与えるのである。「(現在の/意識内の)我思う故に我あり」から、「(未来の/意識外の)我創る故に我あり」へ。また、可能世界や、思弁的実在論の偶然性の必然性といった概念が、SF映画にとっては真面目な問題になる。

登場人物から客席を眺めることの不可能性、現在から未来を思い描くことの不可能性は、『13F』の映画内では空間的イメージによって描かれる。仮想世界の「世界の果て」は『トゥルーマン・ショー』の「世界の果て」のような暗闇ではなく、現在の地形の延長として、現在の枠組みにおいてしか未来を思い描けない道化の滑稽さを湛えて拡がっているのだ。そしてもう片方の果ては決して描かれない。過去の過去は省みられることはもはやない。すでに創られきっている事物には関心は向かわない。

人生にとっての舞台と同様に、新カルテジアンの存在者が自己理解に役立てる比喩は、エレベーターである。『13F』の終盤の逃走シーンは示唆的である。第二世界の創造者=第三世界のジェインの夫は、逃げられない地上階に、エレベーターで下降してジェインを追いかけてくる。夢=仮想世界の外の外から、あるいは、未来の未来から。少なくとも二つの意味に解釈されるエレベーターは、想像=創造が可能な階のその上へと、無限に上昇していくことができる。そして映画が描く未来の未来に我々の側が到達したとき、映画が描く未来は我々にとって必ず滑稽に映る。古いSFが描く2010年代が、2021年の我々にすら荒唐無稽なユートピアに思えるということはあまりによくあるだろう。しかしまた同時に、我々は直近の未来についてすら何も語り得ない。2021年6月時点の日本人が、東京五輪の開催をどれだけ真に受けなかろうが、それが起こるか、起こらないか、未だに確実なことは何も言えないのである。同様に、『13F』の描く2024年のロサンゼルスがいかに素朴なユートピアにみえようとも、実際には語り得ない。

時間とAI

野心的なSF映画『13F』が提示する第二の論点は、互換可能性についてである。人間の意識がプログラムとして記述可能なのかどうかは、チューリング以来の懸案事項だろう。認知主義者(あるいは、松果腺の神秘主義者)を暗におちょくりながらも、『13F』の世界では、意識は一応互換可能なものとして、「ダウンロード」され、コード化されて仮想(今や下層といった方が適切だろうが)世界に送り込まれる。過去と現在においては、意識は互換可能なのだ。しかし、未来においてはどうだろうか?「ハッピー・エンド」のラストシーン、近・未来的ロサンゼルスのカットは、ブラウン管テレビの画面が落ちるようなエフェクトで暗転する。第三世界の人物すら実は互換可能な存在にすぎないことの暗示がここでなされることは言うまでもない。しかし、未来の未来はどうか?すなわち、(上の議論から明らかになったことだが)ブラウン管の前、未来の未来に位置する我々観客の意識は互換不可能なのではないか?という問いかけは少し見えづらい仄めかしだろう。

行動主義と認知主義を経て、決定論vs自由意志の議論は意識のコード化可能性vs不可能性に矮小化された。しかしその議論を設定に持ち込むことで『13F』のSF哲学が再燃を意図した議論は、無限後退する意識の外、未来の未来のどこか一点では、自由意志が可能であるということにほかならない。我々がどれだけ決定論的な世界に生きようとも、SF映画の存立構造は、スピノザ主義とは無関係なのである。そして人工知能の実現可能性という論点は、この映画によっては時間論に回収されてしまうのだ。なお、この知見から我々人間の世界の一面を理解することもできなくはない。過去世界個体に現在世界個体は解釈を通して干渉し、現実世界個体に過去世界個体は影響を通して干渉するだろうから。

パラノイド・アンドロイド

『13F』系のSF映画はエレベーターの比喩を通して己を理解することしかできないので、ラッセルのパラドックスについては言語に階層を設定して解決を試みるだろう。バベルの図書館の六角回廊の中心にはエレベーターをおったてて、その窓から、宇宙を眺めることだろう。

物象化という観点から考えてみよう。図書館にびっしりと並んだ本のように、様々な事象は物象化して把捉される。規律社会に生きる敏感なSF作者とSF映画の登場人物は、労働から疎外された労働者のように疎外の内に孤独を感じるのではなく、物象化されてしまう鬱屈や閉塞感を忌避し、現実とは離れたどこかにおいて疎外されることを欲望する。あるいは想像力をさらに延ばし、その疎外の結果として現れる様々な感情を描こうとする。

居心地の悪い、貧しい過去ではなく、より快適で、豊穣な未来に移りたい。夢の中ではなく現実を生きたい。AIではなく人間でありたい。地球から宇宙へ。あるいは、今生きる空間からはアクセスできない管理者が我々の生を支配している。時空旅行物・夢想物・人工知能物・宇宙旅行物・ディストピア物がおびただしい数作られてきたことよ。

そして劇場で作品に触れた我々は、疎外の実現を目の当たりにし、疎外から疎外され、結果、物象化されたことへの鬱屈や閉塞感に共鳴する。SF映画から我々の生へのイデオロギー還流はこのようであるが、半世紀以上の期間行われたこの営みが、現在の社会と関係があるのか、あるとすればどういう関係があるのかについては追って考察したい。

創造主の引っ越し

ところで人間が自らの模倣物を創造することに、人工知能時代の冒涜があるのだろうか?たとえば救済の代わりに「シンギュラリティ」の到来を待ち望む者たちは、それを冒涜とは看做さない。神は死んだのではない。むしろ唯一自由意志を備える創造主は一気に、過去の過去から未来の未来へと転籍を果たしたのである。あわせて鬱病から分裂病へ、祭りの後の生き方(ポスト・フェストゥム)から祭りの前の生き方(アンテ・フェストゥム)への変容。ただしSFの誕生には、分裂病的心性と偏執病的心性の両方が関わっていることは言うまでもなかろう。パラノイド・アンドロイドたちの脳内には誰かの声がしつこく反復している。"I may be paranoid, but not an android!." SFとは、不自由な状況に身を置かれていることへの被害妄想と、来たるべき祭りを待ち焦がれる妄想の一致点である。

なんにせよご主人さまがきまぐれに引っ越してしまったとき、下僕は救済を待つかわりに創造を待つしかない。ウラジーミルとエストラゴンは神に救われるのを待つのではなく、神に創造されるのを待っている。そわそわしながら。すでに救済が所与である世界では救済を待つことはできない。救済までは何事も起こりうるが、創造までは何事も起こらないのである。

『ゴドーを待ちながら』があまりに明確に(曖昧かもしれない)示していた(示していないかもしれない)この心性。現実があまりに滑稽である以上、ベケットはなるべく書かれているとおりに、陳腐に解釈したい。『ワット』においては、ワット氏がwhatでノット氏が(k)notであることなどからしても、ベケットにおいては、象徴の意図されざるところに象徴を意図してはいけないだろう。およそ人格神には創造・監視・守護・救済などの役割があるが、この中で何も起こっていないのに(からこそ)待たないと行けないのは創造だけである。作家の実生活を引き合いにだすことは少し憚られるが、31歳のころにベケットは、通り魔に刺されたところをとある女流ピアニストに救済されている。そして『ゴドー』執筆中のベケットは、3部作の果てしない創造の不可能性に向き合っていた。

ムーンショット計画

ここまでの議論から、SFの発想の根幹にあるものをあらためて考えてみたい。ただしそれは規律社会の時代精神を反映したものに限定されるかもしれないが。群盲が象を評するような、日常的な語の使用からは一旦身をひくと、その定義は科学技術に関する知識の披露とはもはやあまり関係がないと言いたくなる(実際そう言うことはファシスト除けにも便利である)。

なお、科学を知らない科学技術大国ニッポンの空想科学については、内閣府公式の「ムーンショット目標1 2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」と題されたページ(https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html)をみることをおすすめする。生権力のカリカチュアのこのキッチュさに安堵するか恐怖するかはさておき、このページはいわゆるSFの諸特性から科学技術知識という表層をとりはらってくれているため、核にある信念が浮き彫りとなっている。そしてこれは、SFにおいては時間と意識と空間の同一視が成り立ちうるという私の洞察の裏付けともなっているだろう。となると、SFとはまさしく、「時間の先に、現象=夢の外に、空間の外に、すばらしい、あるいはおぞましい自由意志を持つ主体を想定することにより産まれる創造物」というので必要十分なのではないだろうか。いわゆるSFはだいたいこの概念によって、あるいは劇場の比喩―演者と観客の関係によって理解できる。ただし、『13F』(そしてこれから取り上げるインスタレーション《A.I.》)については少し不十分な定義である。そこではなぜエレベーターが2階建ての建造物を突き抜けて伸びていっているのか、という問題については、後半で考察しよう。

なお、ここまで説明をしてこなかったが、私は「SF」という用語にはサイエンス・フィクションとスペキュレイティブ・フィクションの二つの意味をこめている。両方の側面が重なり合う地点に育まれる形式の考察こそが必要だと思っているからだ。ただ思弁的だけというのも足りない。SF認識論は、劇場の制約をハッキングして、物象化と疎外の関係を考察することが重要な特徴なのだ。

ありふれた印度の舌

存在したかもしれないインスタレーション作品《A.I.》の構想/講評を、ボルヘス『伝奇集』やスタニスワフ・レム『完全な真空』にならって述べておく。

・進行
ある男Aは2034年の夢を見る。そこでは、生活はすべてビッグブラザーに管理されていた。感情はすべて与えられえていた。男は眠る。男は目覚める。それは2000年、彼の誕生から幼少期の記憶の世界だった。世界はいずれ退廃すると男の兄は告げる。人々は互いの接触をやめ、それぞれの部屋にこもるだろう。男は眠る。男は目覚める。それはもう少し先の未来。2017年、陰謀論が蔓延する時代だった。男は眠る。男は目覚める。それはもう少し先の未来。コンピュータと人間が融合する時代だった。挙式。男は眠る。男は目覚める。もう少し先の未来。あらゆる予言は自己成就するだろう。男は眠る。男は目覚める。もう少し先の未来。世界は砂漠に見えた。すべてVRゴーグルを通しているように見えた。男は眠る。男は目覚める。もうすこし先の未来。男は死んだようだった。いや、死んでいないかもしれない。恥辱だけが生き残っていくような気がする。また挙式。男は眠る。男はそれでも目覚める。もっと先の未来。核戦争ですべてが終わったようだった。逃げなければ。男は眠る。男は目覚める。今まで俺は、夢を見ていたようだ。しかも俺は、クローン人間第一号だったようだ。さて男は眠る。男は目覚める。ここに目覚める。男はすべてを忘れ、現実を模造した日常を生きる。しかし観客は思う。私たちが今見ている彼の世界は、私たちと同じ世界だろうか?

・要請
すべては住居の一室で執り行われること。
目覚める度にベッドの布団が一枚ずつ剥がれていくよう装置を作ること。
BGMにはレディオヘッドの『Kid A』を流し、曲ごとに場転すること。最初から最後まで、カットは許されない。

失礼。講評はやめておく。考察はすでに、ここまでに書きおえていたようだ。ただ付け加えることがあるとすれば。

疑問。新しい時代のSFがこのように想像されるようになったのはなぜか?

SFの哲学原理――先なる創造のために

「自然によってつくられたありのままの人間にとって、その峰は近づきがたく、だがその麓は近づきうるのでなければならない。それは唯一であり、地理学的に実在しているはずだ。不可視のものの門は可視でなければならない。」
(ルネ・ドーマル『類推の山』より)

SF映画を観て、今度はエレベーターを世界の比喩として役立て始めた愚昧な我々は、プラグマティストとして再び現実社会をみつめなおさなければならないことだろう。しかしその観察はまた、SFの考察に還元して役立てることもまた可能に違いない。

断食芸人から動物小屋へ

迂回も迂回だと思われるだろうが、手はじめはカフカだ。生権力の特質をいち早く察知した作家であり、また珍しく人々に自分の作品を観られることに関心を抱かないこの作家が、死の直前になってなぜか観られることを題材にした短編『断食芸人』を考察しよう。

この物語は、「この何十年かの間に、断食芸人に対する関心がすっかり薄れてしまった。」から始まる。「この何十年か」は、もしカフカの生きた年代を指すのであれば、それは1924年以前の何十年かだ。戦争を奇貨として、規律社会化が飛躍的に進展した時代であろう。断食芸人は、ギロチン処刑のように、死を思わせる君主制社会の時代遅れな見世物だと考えられる。芸人本人にも、誰に見られるともなく断食を続けるほど、神の審級は強く機能しているようだ。

断食芸人が人気を博していた時代には、語り手によればその主な観客層はこどもであり、またヨーロッパ中を興行に回っていた。しかし、そのこどもたちの関心がいまや薄れてしまったというのは、義務教育の拡大と合わせて捉える以外に方法があるだろうか?こどもたちまでが、ますます規律化されていってしまったのではないか。

では、規律社会の関心事はなんだろう。断食芸人の証言によれば、彼は見捨てられ、かわりに彼の檻の近くにある動物小屋に、世間は心を奪われるようになっていった、とのことだ。檻に閉じ込められた「生きのいい豹」が彼に取って代わってしまったのである。「生きのいい豹」を観ることで人々は何を持って帰っていったのだろう?戦争に、工場に、学校に駆り出され、生きるエネルギーを搾取されていた人々は?

動物小屋からSF映画へ

「気に入りの餌はどんどん運び込まれ」て、「必要なものを五体が裂けるばかりに身におびた高貴な獣」は、檻の中をいきいきと駆け回る。その注入された生の喜びは見物人にとってはみることも耐え難い。しかしそれでも、人々は檻の前からは一向にたちさろうとしない・・・・・・。

戦争の時代に、生権力の要請(「活発に生きることは良いことだ!戦え!」)を受け入れることは、異質で興味を惹かれるものでありながら、同時に恐ろしいことでもあったに違いない。力を沸き立たせる力の衝撃は、最初は呆然と受け止めるしかなかった。しかしそれが次第に意識化され、その危険性について作家が批判をしっかりと始めるのは戦間期においてであった。ハクスリー『すばらしい新世界』の登場する時代である。映画においては、素朴すぎる『月世界旅行』よりもむしろ、生権力への反感が映画に登場するときに、造られた強靭な肉体を持つものの悲哀を描く『フランケンシュタイン』からSF映画が始まったと言うべきだろう。なお、スターウォーズシリーズがSF映画の本流なのかどうかは疑問である。舞台を変えただけの神話を愉しむ心性は、さきにのべた定義とはことなっているからだ。

そして戦争は冷やされ、規律社会が自己目的化の様相を呈し始めてからが、まさしくSF映画の黄金時代となった。この時代の映画について詳察する暇はないし、その特徴については前半で示した通りなので、本稿は一気にSF映画の終焉まで光速千鳥足で駆け抜けてしまうこと、お許しいただきたい。

ルドヴィコ療法の失敗

世界大戦は二度終わった。そして終わったが終わらず、「来たるべき」核戦争にむけて冷凍保存されることとなった。人々は、有用性の観点からではなく反逆分子とならないように、徒然にブルシットジョブをさせられながらも、来たるべき何かに向けて、待たされ続けることになった・・・・・・。

ドゥルーズは、1990年の「オートル・ジュルナル」創刊号に「追伸――管理社会について」と題した小論を載せ、そこで規律社会から管理社会への変容を簡明に指摘している。まず、規律社会においては、「個人は閉じられた環境から別の閉じられた環境へと以降をくりかえす」。家族から学校、学校から兵舎、兵舎から工場。そしてときどき病院や監獄と、人々は次々と監禁から監禁へ移っていく。しかし同時に、規律社会は、「すでに私たちの姿を移すこともなく、もはや私たちとは無縁になりつつあった社会なのである。」

そしてドゥルーズによれば、規律が危機を迎えた原因は、監禁が「鋳型」だったからであるという。それぞれの目的に応じて設計された規律法は、刻々と変化する個人をすべて設計することはできないからだ。カフカの『審判』はここで、規律社会と管理社会の二側面を同時に描いたとされている。その規律社会的な特徴はすなわち、「規律社会における見せかけの放免(これは二度にわたる投獄のあいだにあらわれる状態だ)」である。

規律権力の失敗を1971年のキューブリックの名作『時計じかけのオレンジ』から読み取ってみよう。暴力と性交に生きる不良少年アレックスは、仲間の裏切りにより逮捕されて、更生措置を受けてしまう。「ルドヴィコ療法」は、映画館において行われる。そう、映画館は鋳型の規律権力を象徴しているものだ。強制的に暴力的映像を鑑賞させられたアレックスは、一度は真人間となって社会に戻っていくのであるが、それも長くは続かない。ラストにいたっては、彼はまた暴力性と性衝動を回復する・・・・・。なぜか?答えはもはや明瞭だろう。映画館は規律社会を代表する鋳型のメディアだから、繰り返し閉じ込め続けなければ、個人を思うがままにし続けることはできないのである。文字通り「型に嵌まらない」人間たちがどうしても漏れ出てしまう。ハクスリーの予想とは違って、オペラント条件づけは必ずしもうまく行かないのではないか。

生涯学習施設の誕生

ドゥルーズはこう言う。「規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、管理社会では何一つ終えることができない。」効率の悪い規律権力をアップデートした管理社会の特徴とは何か。『審判』における、いつまでも始まらない審判はこの特徴を予見しているという。それは「管理社会における果てしない引き延ばし(こちらは恒常的変異の状態に置かれている)」である、と。

「[監禁に対して]管理のほうは転調であり、刻一刻と変貌をくりかえす自己=変形型の鋳造作業に、あるいはその表面上のどの点をとるかによって網の目が変わる篩に似ている。」紋切り型の処刑ではなく、それぞれの肉体に合わせて判決文を刻み込む『流刑地にて』の拷問機械も想起される。

ドゥルーズによれば、管理社会では数字を用いた支配が進行し、分割不可能なインディヴィジュアルはディヴィジュアルとなり、群れはサンプルからデータになる。金銭は本位制から変動相場制に、信用貨幣になる。この疫病の時代の状況をみれば火をみるより明らかだ。そして我々はゆとり世代でありながら(学習は義務教育「には」詰め込まれないで)生涯学習を強いられている。特に、ドラッカーの『マネジメント』のご時世から、勤勉な日本人は受験戦争と生涯学習を好む。決して完成されることのない学習。救済を与えられながら創造を求め続けられる。ディヴィジュアルに強いられるのは未来の未来における完成への期待である。

大澤真幸『生権力の思想』によれば、管理社会ではパノプティコンはスマートフォンを含むケータイに、つまりビッグ・ブラザーからリトル・ブラザーに変化しつつある。一方見られる側の心性は、可視性を持つ大きな出窓を持つ住居に、つまり「「見られているかもしれない」という不安から、「見られていないかもしれない」という不安」、さらに見られることへの欲望に反転している。そして、理想の健康な身体への執念と私生活の暴露が爆発的に増えている。また、主体は断片化している。古典的な告白の主体化作用は、「私はAである」という自己反省を反復することで、逆に語り得ない主体Xを自らの内に見出させようとする。一方で個人情報データベースは、その残余Xではなく、個人を収集された断片のみとみなし、それに同一化させる客観的な主体化の作用を持つ。

管理社会の『城』

では、管理社会におけるSF映画表現はどうなっていくのだろうか?考察に値する映画は、『ブレードランナー2049』である。

まず、タイトルにある2049という数字は2の11乗+1であるということ。これを、バイナリデータで記述される部分から漏れ出る1点を暗示していると解釈するのはきっと穿ち過ぎでもないだろう。管理社会における重要な特徴の一つこそが人工知能への待望であると考えられる。そのため、ここでは『2049』を、管理社会を描くSF映画の試みとして捉えてみたい。

主人公の名前はK。この名前からは誰でもカフカの長編小説における主人公たちを想起せざるを得ない。カフカの「K」は、具体的な名前をもたないこと、つまり社会において居場所を持たないことを意味する。例えば『城』におけるKは、城下町の中における消失点であり、職業というこの世界における唯一の役割を何らあたえられていない中、自分を測量士(つまり世界を数学言語ですべて記述することを目標とする職)と言い張り続ける。しかし、城下町に赴任する以前の記憶を一切持たない。その状況に身を置かれながらも、権力の中心地である城、つまり空間の消失点と関わりを持とうとし続けるのであった。

一方『2049』のKは、新型レプリカント(人造人間)であることを自認し、旧型レプリカントを「解任(=殺害)」するという職務(ブレードランナー)を受け持っている。前作の主人公デッカード(もちろんデカルトのもじりである)が人間(諸説あるが)であったことに対し、Kはもはや人間ではない。つまり、思惟するということを存立根拠とはしない存在である。レプリカントを処分するのも人間ではなくレプリカントなのである。

旧型と新型のレプリカントの違いは規律社会と管理社会の対比をよく表している。旧型のレプリカントは非常に短期に寿命を設定されていて、使いものにならなくなれば廃棄される。さらに環境に対する適応能力は低い。それに対し、新型のレプリカントは寿命制限は変更され、顧客の要望に応じて寿命が変動し、反抗は決してしない。

『2049』のKは、なぜか幼少期の記憶を持っている。しかし、彼は大人の状態で生産されたレプリカントのはずなので、その記憶は与えられたものであり、何らアイデンティティを保証するものではない。だがその記憶からすれば、父は「人間」のデッカードであり、母は旧型レプリカントのレイチェルだということになる。心を持つ存在なのかどうかという問題は、同時に生が有限なのか無限なのかという問題、さらには反抗が可能なのか不可能なのかという問題にかかわっている。『時計じかけのオレンジ』が示したことは、映画館という装置は反抗の可能性を常に孕むということであり、それが可能かどうかという問題はまさしくSF映画の根本的な問いである。Kは、この重層的な問いの答えを探求する。

ところが、Kはデッカードとレイチェルの息子ではなかった。本当のこどもは別に実在しており、彼は彼女を守るためのおとりに過ぎなかったことが判明するのである。デッカードは自身もレプリカントであるという疑いをかけられ、拷問される。思惟する存在であるデッカードを守るため、Kは戦い、救出に成功する。重傷を負ったKは雪(『城』のオマージュ)の降る中、死に至る。

本来寿命のないレプリカントなのだから、Kが死んだのは、重傷を負ったからではなく、『城』とは異なり、デッカード親子を救出するという「役目」を遂行し終えたからだ。『城』では消失しなかった自己の点Xは、レプリカントという客観的主体にとっては、与えられた職務を成し遂げた途端に消失してしまったのだ。

恋人ホログラムの抽象的な身体、反抗の象徴であるタバコの前作からの圧倒的減少など、管理社会との関わりで考察すべき点はほかにもありそうだが、これくらいにしておく。

ここではデッカードの娘の存続こそが重要である。人間でもありレプリカントでもある彼女は、それ故、思惟の可能性をはらみながらも、「考えること」ではなく、「生み出すこと」を重宝され、薄汚い孤児院からなぜかガラス張りの無菌室に移り、なにも為さないのに、可能な限り生を引き延ばされ続けていく。

これこそが管理社会における生の様態ではなかろうか?

エレベーター化した劇場

管理社会においては、我々は劇場に赴いて疎外を一時的に体験する機会はどんどん減っていくだろう。それでは、劇場はなくなってしまうのか?そうではない。むしろ、我々は劇場に閉じ込められつづけている。

ポストモダン的状況下で、エルンスト『百頭女』の緒言にブルトンが書いているような、処女林をくぐったような喜びを芸術や娯楽において獲得し続けることは(子ども、あるいは特異な才能を持っているか、キッチュな人間でなければ)ほとんど不可能に近い。そのような状況下で、大きな喜びは引き延ばされ、分割され、小出しになりながら与えられるだろう。

スマートフォンはエレベーター化した劇場である。そこではゴドーを待つのではなく、創造の刺激を追いかけ続ける。SNSやリアルタイム配信は、鑑賞者にとっては決してリアルタイムではなく、動画配信では画面下タイムバーの右端のその右に、SNSではタイムラインの上端のその上に、我々は何か新しいコンテンツ、楽しみごとを待ち続ける。

クラム・ノット・山麓・ダクト

『城』においては、同定不可能な自己の点Xと、到達不可能な空間の点Xが存在したが、『2049』においては、自己の点Xは喪失してしまった。それでは、空間の点Xはどこにいったのだろう?

松果腺から他者の精神に到達することのように、空間の点Xに到達することは困難であるが、『城』のクラム氏、べケット『ワット』のノット(not)氏、ドーマル『類推の山』の山麓、あるいはギリアム監督『未来世紀ブラジル』のダクトのように、空間の点Xに何らかの結節点(knot)が存在すると考えることでうまれる思想がある。それは安冨歩の言う「神秘的な合理主義」に近く、非合理的なほどに合理性を突き詰めることだ。その求心力には危険でありながらロマンティックな魅惑がある。

ところが、語り尽くせぬ主体Xも、地図の支配領域の拡大によって、地球上に到着できぬ地理学上の点Xもなくなりつつある管理社会では、唯一記述しつくせない点が未来になる。そのため未来にはますます期待の圧が大きくなるだろう。

ブロック宇宙の『ゴドー』

話は戻るが、S.F.氏が進まなかった青信号の先は、垂直に上昇する高速道路につながっていた。普通車では進めないこの道を、S.F.氏の分身はエレベーター化した電話ボックスで昇っていったのだ。

2020年のアメリカ映画『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!(原題:Bill & Ted Face the Music)』は、人気SFコメディシリーズの第三部であるが、前作から29年の月日が流れて公開された。以下にかなり省略した(荒唐無稽だからだ)あらすじを述べよう。

第一作からロックスターになって世界を救うことを夢見ていた2人の少年(ひとりは、若き日のキアヌ・リーブスだ!)は、ついぞその夢を叶えられず、壮年期を迎えてしまった。もっとも、作っている音楽はなぜか前衛音楽風で、ちっともロックとは言えない代物なのだが。彼らは既婚だが妻よりも友を愛し、それぞれの娘に相手の名のミドルネームを付けるほどの友バカっぷりだ。

そんな二人は、未来からの使者に地球滅亡の危機を告げられ、世界を救う音楽を完成させるという目的のために電話ボックス型のタイムマシンで冒険に乗り出す。なぜ時空旅行をするのかといえば、彼らはこう考えたからだ。過去の巨匠たちと協力すれば、最高の曲ができる!さらに彼らは荒業を思いつく・・・・・・。もし俺たちが音楽で成功するとすれば、未来の俺たちが完璧な曲を創っているだろう。だったらそれを未来の俺たちからもらってくればいいじゃないか!彼らは音楽には向き合わない。

そんなわけで、『クリスマス・キャロル』のスクルージでさえ留めていた情緒を失った彼らは、過去の偉人を集めつつ、未来の自分たちと接触を試みるがどの時点においてもセンスの無い彼らには名曲の兆しがない。しかし彼らは旅を繰り返す。過去の過去へと、未来の未来へと。

彼らは死を間近に迎えた未来の彼らに出会う。老人になった二人は、無限の未来と過去が環状につながっているという世界観を明らかにし、2020年の二人に、彼らの名字がメモされた「最高の」曲入りのUSBを渡す。しかしビルは、(いろいろあって)未来からの刺客に殺された娘のためにそれを壊してしまう。娘たちを地獄から救い出した二人だが、曲は喪失してしまっている。ビルとテッドは、USBの中身は実は娘たちの作曲だと気づく。偉人を集めたバンドで彼女たちの曲を演奏することにし、さらに無限の時間と無限の空間の無数の人々に楽器をわたしてそれを演奏する。その音楽により、世界は滅亡の危機を逃れた。死にかけの老人時代のビルとテッドも、ギターを弾いてまだやれると確信する。ハッピー・エンド。

彼らはSF界のゴゴとディディだ。ベケット『ゴドーを待ちながら』では、浮浪者の二人が可能なことを現在において尽くそうとし、到達しない創造をそわそわしながら待つのに対し、ビルとテッドは創造を追いかけながら待つというように、撞着語法がさらに悪化している。無限に未来の未来を思考するSFにおいては、突き詰めていけば時空間のあらゆる可能性が尽くされることになる。だからこそ老人になった二人は、ブロック宇宙論のような思想を持つことになるのだ。

「疲労したものは、もはや何も実現することができないが、消尽したものは、もはや何も可能にすることができないのだ。」(ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』より)

まさしくビルとテッドは、自ら何も実現することはなく、その上あらゆる時空間を旅することによって自ら消尽してしまい、何も可能にすることはできない。しかし分裂病的に先の祭りを待ち望む。それでも創造は不可能である。では、創造はどこにあるのか?完成された曲がある消失点は、ブロック宇宙には存在しない。ここで"conceive"は「思う」というより「思いつく」に、いや「思いつく」ではなく「孕む」という意味になる。何も可能にしなかった彼らは、娘たちにただ創造を託すしかない。

21世紀のスキッツォイドマン

(感染拡大してもオリンピックは開催するのかという質問に対して)「オリンピックの開催にあたっては、選手や大会感染者の感染対策をしっかり講じ、安心して参加をできるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく。」
(菅義偉「2021年5月10日 衆議院集中審議答弁」より)

(感染拡大してもオリンピックは開催するのかという質問に対して)「オリンピックの開催にあたっては、選手や大会感染者の感染対策をしっかり講じ、安心して参加をできるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく。」
(菅義偉「2021年5月10日 衆議院集中審議答弁」より)

(感染拡大してもオリンピックは開催するのかという質問に対して)「オリンピックの開催にあたっては、選手や大会感染者の感染対策をしっかり講じ、安心して参加をできるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく。」
(菅義偉「2021年5月10日 衆議院集中審議答弁」より)

到達しえない空間の点Xに繋がる結節点を妄想する思考には危険な側面がある。『ビルとテッドの時空旅行』からその危険性を抽出してみよう。

彼らの思考法の本質は、論点先取である。「もし、この世に完璧な音楽があるとすれば」、そして「その音楽を未来の俺たちが作ることができるとすれば」。完璧な音楽などない。それは到達不可能な空間の点Xだ。そしてそれは永遠に可能にならない時間の点Xでもある。つまり彼らは、時間と空間の両方で論点を先取りしているのである。

この思考回路は容易に陰謀論につながる。人工地震でもフリーメイソンでもディープステートでもフラットアースでも何でもよい。ファンダメンタリズム系の「もし聖書がすべて事実で、救済が最後にあるとすれば」も同じ思考回路だ。客観的な現実をすべて作り出す、自由意志を持った主体Xが空間内に存在すると信じることが陰謀論の特徴である。まさにこの点において、認知主義と陰謀論は共鳴し、終末思想に取って代わってシンギュラリティという妄想が析出される。しかし、その主体Xにはアクセス不可能である。何らかの不全感から、認識と現実のズレを埋め合わせるためにこの主体Xの実体を妄想するこの病は、ますます世界中に増えつつある。しかしそれでもその主体Xとの結節点は存在しない。つまり、去勢されているのではなく、他者へ繋がるマルコヴィッチの穴が存在しないのが現実なのだ。

無数の実例は挙げずに、21世紀のスキッツォイドマンがもし失恋をすればどうなるか考えてみよう。

彼は好意を寄せていた女から突然フラレてしまう。まったく心当たりがない彼は、現実世界ではあらゆる行動において女が「あえて」冷たく振る舞っていると信じこむ。「もし彼女が本当は俺のことが好きなのであれば、現実世界の拒絶には何らかの意図があることになる。」

一方で彼はネット世界で彼女の「開かれた」言動をすべて観察する。インターネットは彼にとっては、彼女の思考に繋がるマルコヴィッチの穴のように受け取られるからだ。しかも彼は、その言動の中に、本当は自分が女から愛されているのだという証拠を見出そうとする。もし女に愛されているのであれば、彼女の思考の内部はすべて彼自身に「のみ」向けられていることになるからだ。

しまいには、匿名掲示板で彼は彼女とコンタクトを取ろうとする。ネット世界自体が彼女の思考と同一化し、あらゆる匿名Xの投稿が、彼女の発言であるかのように思えてくるからだ。一方彼は現実世界で女と結ばれることをひたすら待ち続ける。「もし愛し合っているのであれば、時間が経てばいつか必ず再会できるだろう。」

これは、ありえない話では決してない。こうなりたくなければ、ビルとテッドの論点先取を真似するのはやめよう。

バック・トゥー・ザ・フューチャー

ところで日本語においては、「先」という言葉で「過去」と「未来」の両方を指示し、「後」という言葉で「未来」と「過去」の両方を指示することが可能である。勝俣鎮夫『中世社会の基層をさぐる』では、両語における前者から後者への意味的転換がそれぞれ中世から近世にかけて起こったことが示唆されている。この転換が意味していることはどうやら、時間的過去を空間における前方に、未来を後方に対応させるようなイメージから、時間的未来を空間における前方に、過去を後方に対応させるようなイメージへの認識の変容のようだ。つまり、古代・中世の日本人は、「未来(アト・跡・後)に背を向ける姿勢をとり、過去(サキ・前・先)と向き合い、過去から現在にいたる道を見据え、未来に向って、後ずさりしているという歴史認識」のもとに生きていたのだ。

同書には、堀田善衛氏の「未来からの挨拶――Back to the Future」というエッセイの要旨にも触れられている。それによれば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の題はホメロスからの引用であり、古代ギリシアにも同様な時間認識が存在していたことが指摘されている。プラトニズムや、中国の老荘思想、あるいはインド哲学における注釈主義なども、同様の認識に基づいているように思われる。このような時間に向き合う姿勢では、「見ることができない未来に生きていく手掛りは、眼前の過去と現在を見据え、そこから学んだ経験しかないという歴史主義が基本的観念となるのは当然である」と堀田氏は述べている。

では、近代の時間認識とは一体何の産物なのだろうか?真木悠介『時間の比較社会学』は、西洋近代的時間認識を二つの観念の合成物として把握することを試みている。それは、①ヘブライズム的な反自然主義的文化・社会から発展した、虚無化してゆく不可逆性としての時間観念と、②ヘレニズム的な都市化された社会形態の中で発展した、抽象的に無限化されうる等質的な量としての時間観念のあいのこであるという。

真木は、この時間観念に立った時、つまり絶えず虚無化していく時間において初めて、無限小の現在一点に生きる自己存在の不確実さに対する不安、そして疎外感こそが、「我思う、故に我あり」という結論に至るデカルトの問いを生んだということを示唆している。同時に、この感覚のもとで、現在のリアリティは解体され、例えばプルーストにおいて、失われた時にのみリアリティが求められるようになるという。しかしまた、「時間の解体が喪失であると同時にひとつの解放でもありえ」るのであるが。

こうした時間感覚に基づき、未来を志向する進歩主義もまた誕生し、現在を未来に向けて手段化するような、サルトル的な「投企」によって虚無が満たされようとする、というのが真木の見立てである。

SFには、まさしくこの進歩主義的な発想法を含んでいるものと、規律社会における物象化の魔の手への抵抗を根底に含むものの二種類があるだろう。しかしこれまでにみたように、前者が行き着く果てには、『ビルとテッド』における消尽が待ち受けており、後者における、抵抗の基盤となる自己の点Xは『ブレードランナー2049』が描く管理社会において、儚く息を引き取られることになる。さて、我々はそれでもSFを続けるのだろうか?

円形劇場からの救出作戦

S.F.氏の最後の分身は、進行方向の可能性をすべて尽くしてしまったためか、一方通行の標識を無視し、強く決意した表情で、Uターンで来た道を戻っていくことにした。

SF映画監督であると同時に、『メメント』(過去の過去へ)や『インセプション』(夢の中の中へ)などの優れた反SF映画作家でもあるクリストファー・ノーランが2020年に公開した、『テネット』について考察をしてみよう。

まず冒頭、円形のオペラハウスが未来から来た刺客によって破壊されかけるシーンがいきなり象徴的である。エンデ『モモ』においては、廃墟と化した円形劇場が、モモが時間と空間によって「のみ」支配される世界に参入する場として登場していた。だが、今度はその劇場の観客を謎の男が救出することから物語は始まるのである。

そしてモモは自分で自分の名前を与えたのに対して、また『城』のKがかろうじて、否定的規定によって生じる主体の点Xを保持するという意味で「K」という名を持っていたのに対して、『テネット』の主人公にはもはや名前すらない。主人公の身体には、主体Xは宿っていないのである。

『テネット』のテネットは、第一に時間=空間であることだ。ただし突き詰めたブロック宇宙論とは異なり、人間が生きる時間の幅以上のことは考えないことがこの映画の潔いところである。さらに潔いことに、映画の内部では、物象化されたクロノス的時間だけが存在しており、カイロス的時間は存在しない。そして『テネット』では、デジャブはありえない。現在から断絶された未来の香りは、未来が不確定だからこそ可能になるのだ。そして彼はバベルの図書館にエレベーターを設置するという暴挙ははたらかない。かわりに、時間逆行装置によって、図書館の階段を登り降りするように、過去と未来をクロノス的時間の量をかけて往復するのである。

第二のテネットは、第一のテネットから導きだされることではあるが、決定論的世界観である。このことは、『ダークナイト』においてジョーカーに、トロッコ問題のバリエーションを多数繰り出させることでその馬鹿らしさを指摘していたことからも納得がいくだろう。自由意志とそれに基づく選択の自由という固定観念を彼の描くジョーカーは嘲っていたのだ。

この映画においては、創造主としての神は過去の過去にも、未来の未来にももはや存在しない。時空間の中には存在しないのである。ボルヘス愛を公言するノーランは、おそらくボルヘスを経由して、スピノザ的な神概念と心身並行論をまさしく劇場において表現している。映画館のスクリーンは他者につながる松果腺=マルコヴィッチの穴ではない。まさしくこの世界観において初めて、劇場の観客は救出され、物象化された時空間から意識する主体Xは安息地をみつけることだろう。

はじまりに

こうして、1999年と2020年にS.F.氏は四叉路をすべて消尽した。SF映画はこれ以上なにを可能にすることができるのであろうか?

 少なくとも、我々の生はかならずしもこの四叉路の上にあるわけではない。合理的に考えることよりも、神秘的に感じることを大切にすればよいのかもしれない。ニールのように、過去を志向する人生も悪くないだろう。あるいは、また終わるために、はじめるために、何よりも抵抗のために、創作をすることも必要だろう。私は、(場所は限定しないが)劇場こそが唯一の抵抗の拠点であると考える。最悪のものは、無視せず記述し続けなければならない。

 この論考は、デカルト批判を通してSF認識論を展開することから始まり、さらにカフカやベケットを経由しつつ現代社会を検討し、カフカやベケットを経由してまたSF映画解釈に戻り、スピノザ的にデカルトをまた批判するという複雑な構造になってしまった。そのために少し長くなってしまったが、もし最後まで読んだ方がいれば大変に感謝である。

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