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複次元的鑑賞法について

絵画を鑑賞することは2次元の絵とそれを観る「私」というもう一つの要素が入って3次元的になるかと思います。ですが、時間や他者を含めることで鑑賞の場における次元はあげることができるかと思っています。

2次元的絵画

鑑賞といえば私は真っ先に絵画が浮かびます。ここでは2次元の世界です。当たり前と言えば当たり前ですが、ここには作品という概念しか存在しません。その背後にある作者の意図や込められた想いも絵として抽象的に存在するのみでそれ以上でも以下でもなくなります。

そこからなんとか読み解こうとするときに絵画は別軸の概念を獲得するのです。

そして、現在の日本の多くの美術館におけるアートの鑑賞法というのは、この2次元的鑑賞が多いように思います。それを観ることが目的となっている感じがあるのではないでしょうか。それは、絵の前で立ち止まることやじっくり観ることが邪魔とされるような雰囲気を感じるからです。絵を鑑賞するのではなく観ることに意味があるように思えます。

3次元的鑑賞

これは何かというと、その絵を見てなんかしらを思おうとする人が介入することです。絵を飾り、その前に人がたち、絵について何かしら考えを起こし、そこに込められた想いや意図をなんとか受け取ろうとするときにこの3次元的構造が生まれるかと思います。

歴史的背景を用いて見れば、フランス革命以前の絵画は特権階級層のもので、そこにあることに意味があるとされそれ以前の画家は筆を走らせていたのではないでしょうか。しかし、鑑賞するためやそれを用いて対話をするために生まれていたのではなく、ものとしてそこに存在することによって価値を得ていたのです。

しかし、革命以降市民は多くのものを獲得しました。その一つがアートです。誰もがそこに描かれたものを自由に閲覧することができ、自由に考えを述べることができたのです。こう考えてみますとアートとはかつてのフランス市民なしには現在のような姿ではなかったのかもしれません。一方で、当時も開かれた芸術としては、音楽などがあったのではないでしょうか。

教会を中心にして育っていった音楽ですが、そこには聖典の意思を超え市民が自由に思いを馳せることのできる文化があったのかと思います。

これが、私の思う3次元的鑑賞になります。自由に鑑賞をし思いを馳せることができる鑑賞のことです。

4次元的鑑賞

これは、海外の美術館や日本ではギャラリートークとして馴染みのある鑑賞法です。ここには、絵画という2次元情報からそれを観察する主観そして、一緒に分かち合う他者が入ってきます。

こうなると絵画を中心とした複雑な構造が生まれます。イメージにしにくいのでなんとなくイラストにしてみますとこんな感じかと思います。

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「私は〇〇だと思う」、「僕は違っては〇〇だと思う」など絵画を中心としたコミュニケーションが生まれ徐々に絵画に対して私と概念が具体的になってきます。様々な視座からの情報を吟味して自由な解釈をうんでいきます。これが私は鑑賞の中でも一番の醍醐味なのではないかと思います。

もとより、見えない込められた意思や意図に覆いを馳せる3次元的鑑賞も面白いのですが、それだけでは結局なんだったのかがわかりにくく、忘れやすくなっていきます。最適解とされているものを聞いて「なるほど」と思う人は多いと思いますが、それをいつまで持続できるでしょうか。それは、知っているのではなく覚えただけに過ぎず、覚えたものはいつか忘れてしまいます。

そこで、じっくりと多角的に批判的に自己の意見を吟味することで覚えるのではなく、わかることができるのではないでしょうか。

それが体験できるのが、美術館のギャラリートークや対話型鑑賞と言われるものになってくると思います。

絵を見るか・自らを見るか

もう少し、この4次元的鑑賞法について考えていきたいのですが、観る側が何を求めているかによってこの出口は大きく変わっていきます。

それは、芸術主体学習主体という2つです。

芸術に関して、絵の解釈に対して深めたい人はそれこそ、その背景やそこにある学びを追求していくことに重きを置いていると思います。そういう人が4次元的鑑賞法を行うのであれば、重要なのは込められた想いや事実です。この場合、適度に作者の背景や絵の背景を教えてもらいながら芸術作品に関して少しづつわかる範囲を広げていきます。ここでも、他者ではなくとも何か背景を知るための足場かけとしての文献や先駆者たちの言葉が役立つかもしれません。

学習に関しては、それこそ鑑賞の方法であったり、思考の方法を獲得するというものです。「どのように絵を見ていいのかわからない」という人はこちらが圧倒的に不足している気がします。どうしても、道を極めたものが上といったような価値観がある今日では先述した芸術に理解が深い人がすごいように思えますが、そうとも限らないのです。

美的発達段階と言った絵画を観察する人の発達段階を述べた理論があります。ここでは、ハウゼンという認知科学者の理論を用いますが、
1.  説明的段階
2. 構成的段階
3. 分類の段階
4. 解釈的段階
5. 創造的再構成の段階

と言った発達段階理論があります。

これによってみていくと、詳しくは省きますが最終5段階目では、事実を踏まえた上でさらに自分がどのように解釈し世界を定めていくとされています。(詳しくは調べてね)

これは、最終的には絵の知識より、いかに自らが絵との関係性を気づきわからないものをどうやって楽しむかというものになります。そうなってくる時に忘れてはならないのが絵の知識になります。様々なリソースをうまく使いつつ結局これはなんなのだろうかと批判的に考えを深めていく段階が最終的な目的地になっているそうです。ここで注意しなくてはならないのが、第五段階だからいいというものではないということです。

それこそ、アートの専門家たちは人にそれを伝えなくてはなりません。そうしてくると第3,4段階の事実や背景の知識を十分に使いこなせる必要があります。だからと言って彼らが最終段階に行かないことを否定する人はいないかと思います。一方で楽しみたいだけなのに、知識を強要されて嫌な思いをした人もいるかと思います。

など、それぞれ個人に必要なものとできることとの間にこの理論があることを忘れてはいけません。

結局どのように自分が絵と向き合ってみたいのかを考えてそれに適した鑑賞の方法を選択するしかないのかもしれませんね。

私は、学習寄りの体験を作ろうとしています。専門家ではないから楽しめないというのはそれこそ市民が勝ち取った芸術の文化ではないと思っているからです。また、根源的にわからないものを楽しんでいく姿勢や態度、既知のものを批判的に疑って新しいものを生み出そうとする思考法などを育むことができたならばより日常も豊かなものにできるのではないかと考えています。

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