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2023/11/16 「死に向き合う事で」残りの人生を考える


人生は長いようで短い

人生は長いようで短い。
過ぎてしまった時間は取り戻せない。
そして人生には必ず終わりがある。
誰もが必ず迎えるものそれは死ぬ事。

死に向き合う機会が減っている

寿命が伸びた事や、地縁血縁の繋がりが薄くなった事から、誰かの葬式に参列する経験が少なくなった。昔は、会社の誰々が亡くなったとなると総出で参列していたが、最近はそういうのがほとんど聞かなくなり、家族葬で、香典は固辞しますというのが多くなった。

無駄に時間を過ごしていないか?

故に、死ぬ事と向き合う事が少ない事は、幸せな事なのかもしれないが、その分、生きる事に対して無駄な時間を過ごしてしまっているのではないかと感じるようになった。

昔なら寿命が来ていた?

人生50年と言われた戦国時代では、自分ももう寿命を迎える時期に差し掛かったが、今の時代ではまだ中間ぐらいのイメージで、上には先輩の世代がたくさんいるように感じる。

死を覚悟することで

しかし、確実に年を重ねているので、それだけ死に近づいているとも言える。幸い家族が健康でいてくれるおかげで、その事を避けて過ごしているが、本当は、死を覚悟して、死に物狂いで、人生を過ごさないともったいないのではないかと思う。

時間は平等に与えられているが

時間は平等に与えらているが、過ごし方次第で、価値が変わる。価値ある過ごし方をしていると、無駄に過ごしている人の違いは、何か、それは意図的に生きているかどうかという事ではないだろうか。人生の目標に向かって、進んでいる人と、ただ、日々を過ごしている人では、時間とともに差が開いて行くばかりである。

意図して生きる

意図して生きるということは、自分の人生を何に投資するかの覚悟を決めたという事であり、そこに向かって歩んでいる事でもある。自分のビジネスを持っている人は、おそらくそういう人生であるが、組織でサラリーマンをしていると、そういう覚悟を持たなくても、給料が手に入るものだからそこに対する緊張感がない。

安泰の人生はこれからはありえない

まあある意味そういう人生も気楽でいいじゃないかとも思えるが、人生は一度きりで、やり直しが効かないし、今後の老後を考えた時に、きちんと資産形成をおこなっておかなれば、退職後の人生は決して安泰ではないのだ。

団塊Jr時代の不幸

特に団塊Jr世代の私たちは、景気がよかった頃を子供時代を過ごしてしまい、自分たちが社会人になってからは、どんどん下り坂になっているのをただただゆっくりと沈むのに身を任せてここまで来てしまったと今更ながら実感するようになった。

死に向き合う

ちょうど残りの人生が半分と考えた時に、これまでは考えていなかった死に向き合うという事を考えてみたい。一番死に近いのは、まだ健在とはいえ、両親のことであろう。これから迎える親の死に向かって、自分は何ができるのだろうか。

近くで暮らす意味

介護や看取り、病気に対する対応を考えると、遠くにいることがデメリットでしかない。そう考えるといくらリモートの時代とはいえ、家族が物理的に近くで暮らすという事には、意味があるのだと改めて思う。

人は一人では生きられない

人は一人では生きられない。子どもも一人では産む事すらできない。家族という存在やそれを支えてくれる共同体という存在がなければ、まともに生活を送る事はできないのだ。そう考えると、やはり人間にとっては、「誰と」一緒に行動するのかという事は非常に大事な事であり、しっかりとそのあたりを地縁のコミュニティで形成していくということは大切な事なのではと改めて感じる。

疎まれていたものが実は大切なことだった

これまでの成長社会においては、地縁社会は煩わしいもので、できれば関わりたくないというマインドセットが支配的であり、お金さえあればなんとかできるという風潮さえあった。
しかし、一度日本がかつてほど豊かではなくなった現在では、もう一度このあたりの社会をどう再構築していくのかが重要な話になるのではないかと感じる。社会とは、何かの総体ではなくて、そこの地域の一人一人の個人の存在だけなく、その共同体としてあり方が本来存在すべきであると言える。

共同体として

そこには社会主義とか共産主義とかのイデオロギーの話ではなく、日本人としての共同体としてどうあるべきかという事の本質が求められていると思う。しかし、私たちは戦後教育の延長線上で、宗教や神話についてタブー視されてきた背景があり、社会人になるまで、というかつい最近まで、その事に関心すら持たない「無関心」者になってしまっていたと思う。

これまでは会社が支えてくれていたが・・・

それでも社会が成長していた時には、資本主義が、会社という村組織がそれを賄っていたと思うが、バブル崩壊に会社組織が肩代わりしていたものですらどんどん削られていき、最後はハラスメント扱いされて、それらのものを全て失ってしまったのではないかとさえ思う。

清い川には

まさに、清い川には魚が住まない状態に今の日本はなってしまったのではないかと感じる。いったい誰がこんな日本にしてしまったのか。といって犯人探しをしても仕方がない。

どう再構築するか

大事なのは今それに気がついた事であり、ここからどうやってそれを取り戻すのか、または、再構築していくのかという事に尽きる。

ネオ資本主義

この次に社会においては、「ポスト資本主義」という言葉もあるが、ネオ資本主義的な文脈で、個人個人が資本家となり、個人株式会社を運営し、自分自身に投資を行い、自分という資産形成を行う時代になって行くのではないかと思う。

ネットワーク時代に

かつては、リソースやスペックの問題で、労働集約的に集まって一つの事をやらなければ、大きな力が出せなかったが、今は、ネットワークの時代であり、働き方やお金の稼ぎ方自体が変わって来たとも言える。

二足の草鞋

そしてこれからは、それらがハイブリッドに、個人と組織の二足の草鞋を履く副業、越境人材の時代になると考えている。

すでにそのような活動を行っている人も周りでも見かけるようになったが、自分自身もそのような立ち位置でのポジションを確立していきたいと考えている。

自分が何を成して、何を残すのか

今日までで、これまでのようにサラリーマン根性での「明日があるさ」の考え方を改めて、死を意識して、自分が何を成して、何を残すのかを考え、全力で生き抜きたいと思う。



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