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「人に迷惑をかけるな」は呪いの言葉

人間関係の本質は”迷惑の掛け合い”

身の回りで想像してみてください。よく2人でもお茶したり身の上話もする仲の良い友達と、たまにグループで飲みに行くくらいの友達。どちらもその時は楽しいし好きだとして、何が違うでしょう?

2人でも行く友達とは、恋愛相談をしたり、同じ仕事や部活で苦楽を共にしたり、キャリアやお金の相談などをしたことがあるかもしれません。ここで気になるのは、「仲良くなったから相談した」のか「相談したから仲良くなった」のか、という点です。

結論から言えば、ぼくは「相談したから仲良くなった」の方が実態に近いと思っています。

勿論、ある程度「信頼できそう」というアテが付かないと、深い相談はそもそもしないと思います。ただ、普段のふるまいを見て、ある程度アテがついた段階で、深い相談や共同作業などがないと、次のステップの関係には発展しにくい気がします。

そして、この「相談」「共同作業」というのは、「契約もないのに時間や労力を人に使わせる」という意味では、広く言えば迷惑行為に入る気もします。自分は「これくらいの話なら相談しても受け入れてくれるだろう」と思っても、相手や場合によっては「ダルいな~」「迷惑だな~」と感じるかもしれません。

ただ、繰り返しになりますが、この”迷惑行為”をしないと、次のステップには進めません。できれば、自分が好きだなと感じた人とは関係を深めたいですが、一方で相手に拒否されてしまったら、とてもツラい気持ちになることは目に見えています。

どうにかこうにか、「迷惑だな~」ではなく、「ワタシ頼られてる!」と感じて欲しいものです。

”頼られること”と存在意義の実感

では、「迷惑をかける」と「頼る」の違いは何でしょうか?

誤解を避けるために言うと、実際に迷惑かどうかは受け手の主観でしかない(セクハラと一緒で「受け手が迷惑と言えば迷惑」)ので、客観的に「アレは”迷惑”で、コレは”頼る”」と、仕分けをしたいわけではありません。ここで考えたいのは、「どういう状態になれば受け手は迷惑と感じるか」という点です。

そもそも、ぼくたちはなぜ人からの相談や依頼を無償でも受け付けるのでしょう?なぜ友達のために何時間もかけて相談に乗ったり、怒ったり、教えたりするのでしょう?

それは、ぼくたちは人から頼られることで、自分の存在意義を実感することができるからです。先ほど「なぜ無償でも相談や依頼を受け付けるか」と書きましたが、そういう意味では、実際のところ”無償”ではなく、「存在意義の実感」という形で報われています。

では「どんな内容でも頼られたいか」と言われると、直感的にはNoでしょう。例えば、とても尊敬している先輩や上司から難しい頼み事をされても頑張って答えようとするかもしれませんし、知り合いくらいの同僚から簡単なお願いされても気が乗らないかもしれません。子供のお願いは何でも聞くけど、旦那さんのお願いは全く興味がない方もいるかもしれません。

どういう基準に基づいて、ぼくたちは「頼られて嬉しい」と「迷惑だな」を仕分けているでしょうか?

存在意義の方程式

少し話は逸れますが、個人の幸福を構成する要素は5つあるとするPERMA理論というものがあります。
以下5つの要素の頭文字を取って「PERMA」です。

  • Positive Emotion:ポジティブ感情

  • Engagement (Flow)関わり,没頭や突入 楽しいことに関わる

  • Relationship:豊かな人間関係 協力してくる人を見つけること

  • Meaning:人生の意味や意義 肯定的な意味を見つける

  • Accomplishment:達成、マスター,やり遂げること

この5つがそろった状態でいることが、個人の幸福にとって重要である、という理論です。まぁ大体しっくりきますね。

また、心理学者のアドラー氏は「他者へ貢献しようとすることでしか人間は幸せになりえない」と言ったそうです。

このPERMA理論と、アドラー氏の言葉を合わせると「他者への貢献はPERMAの5要素を生み、結果として個人の幸せにつながる」と解釈できます。

PERMA理論とアドラー理論から考える「幸せになるメカニズム」

この「個人の幸せ」と、「存在意義の実感」は、共に他者への貢献(≒頼られる)ことを通して得られる、という点で似ています。一方で、「個人の幸せ」は中長期的なものであるのに対して、「存在意義の実感」はその場限り、ないし刹那的なものだ、という点では異なっています。

逆に言えば、もし存在意義を断続的に実感し続けることができれば、それはかなり「個人の幸せ」に近い状態なのではないでしょうか?仮にそうだとすると、「存在意義の実感」はPERMAの5要素をおよそ満たすか、実感が継続する結果としてPERMAを満たすはずです

そこから着想して、僕なりに「存在意義の実感」とPERMA理論の関係を解釈してみたものが以下の方程式です。

存在意義の実感量 = 興味(P+E) × 意義(M) × 達成度(A)
(仮に「充実感方程式」と呼んでいます)

言葉で表すと、「ぼくたちは、興味を持っている分野/内容/対象で、かつ何かのためになることを、実際に達成できた時に、存在意義を実感する」ということです。「まぁそうっちゃそう」な気もしますね。

R(豊かな人間関係)は、冒頭に言った通り、迷惑をかける・頼られる(≒他者への貢献)結果として発生するものとすると、存在意義が実感できるような貢献をし続けていれば、結果的にPERMAが全て揃う=個人の幸せへ到達することになります。

例えば「サッカー部で地区大会優勝を目指している部長が、副部長に練習プランを練ることを頼む」ケースに、副部長が部長のことを尊敬しているか練習プランを考えるのが好き・得意で(興味P+E)、地区大会優勝という目標に共感しており(M)、かつ優勝を目指しうるような練習プランを作ることが可能(A)な場合、副部長はその仕事を快く受け入れるだろうし、実際に(優勝はできなくとも)両者が納得する練習プランが出来上がれば副部長は存在意義を実感し、かつ2人の人間関係は進展するはずです。

”頼る”と”迷惑”の境界線

話を戻して、「どういう基準に基づいて、ぼくたちは「頼られて嬉しい」と「迷惑だな」を仕分けているのか」について考えてみます。

先ほど、「無償に見えて実は存在意義の実感という形で報酬を受け取っている」という話をしました。そういう意味では、実は人の頼みごとを聞くというのも、構造的にはビジネスと同じように見えます。

なので、仮に「ぼくたちは損得勘定に基づいて、人からの頼まれごとを「迷惑」「頼られている」に分けているのではないか」と考えてみます。

ここでいう「損得勘定」というのは、何も「この人の頼みを聞いとけば後でイイことあるかも…」というような打算的な勘定のことを言いたいわけではありません。

つまり、ビジネスでは「コスト(費用) < リターン(利益)」となるように交渉することで利益を得ますが、人からの頼まれごとについても、「労力 < 存在意義の実感量」となる場合に「頼られている」と感じ、そうでない場合は「迷惑」と感じるのではないか、ということです。

そして、先ほど「存在意義の実感量 = 興味(P+E) × 意義(M) × 達成度(A)」としたので、これらを合わせると『「労力 < 興味(P+E) × 意義(M) × 達成度(A)」となる場合に「頼られている」と感じ、そうでない場合は「迷惑」と感じる」ということです。

「日頃から感謝することが大切」と言う人がいますが、これも、「この人は感謝しない人=何かしてあげても意義や達成感が感じられそうにない人」と他人から思われると、困った時に人が助けてくれないから大切なのだ、という解釈もできるかもしれません。

”人に迷惑をかけるな”は呪いの言葉

長々と書きましたが、ここまでくると、「人に迷惑をかけるな」は「全く興味がない分野/内容/対象だったり、何のためになるか完全に不明、もしくは全く達成できそうもないことを、人にさせるな」と解釈できるのではないでしょうか?それなりに直感的でもある気がします。

逆に言えば、それ以外の「頼みごと」や、自分のために何かをしてもらうことは、決して「迷惑」ではありません。それどころか、冒頭に言った通り、そういった「迷惑」が無ければ、人間関係も友情が深まることもありません。

そういった意味で、「人に迷惑をかけてはいけない」という考え方は、一種の呪いのようなものだと思います。迷惑をかけない生き方が偉いとか立派と思われがちですが、その考えに従っていても人間関係が深まることはなく、同時に、存在意義を実感することもないので、幸福にもなりません。

よくある「長女の私は親の言うことをよく聞くイイ子だったけど、次女の妹はずっと甘え上手で、私よりも親と仲良し」みたいな話も、まさにこの一例です。長女が親や人の目を気にして大人しくしている間に、次女は泣いたり喚いたりオネダリして親に迷惑をかけることで、「子供に何かしてあげることで存在意義を実感する」機会を提供し、人間関係を構築しています。
いくらイイ子にしていたところで、イイ子であることは、幸せであることとはなんの関係もないのです。

。。。と長くなってきたので、ここで一旦区切ります。
次回は「”ビジネス”は万能ではない理由」です

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