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「しにたい」と伝える恐怖

しにたいゲージ、上昇中。
安定剤は、1日の許容量を超えてしまいました。

ハングマンズノットはすでに、寝室のインテリアと化しています。お医者様には「捨てなさい」と言われ、何度も捨ててきたのですが、どうしてもこの状態に戻ってきてしまうのです。

客観的に見て、あるいは道徳的に見て、よい状態ではないでしょう。でも、ある程度は仕方ありません。なにがどうあれ、今のぼくにとってはこれが「死ぬよりマシ」なギリギリの環境なのですから。

ただ、昔とは状況が違います。
今のぼくには、noteのアカウントがある。
せっかくですから、一度、言葉にしてみましょうか。

普段とはまったく気色の違う記事となりますが、ご了承を。


どうして、悩みを打ち明けてくれないのか?


ここに、強烈な希死念慮を持った1人の人物がいます。彼、あるいは彼女は、今すぐ世界から逃げ出してしまいたいくらい「しにたい」と思っていますが、それを家族や友人に打ち明けることはありません

周囲は密かに心配し、また警戒していますが、本人はどれだけ苦しくても、その気持ちを口にするつもりがないのです。

どうしてなのでしょう?

教科書的に言えば、「しにたい」と打ち明けることで、本人の気持ちは和らぐ「はず」なのに。

「うつ病になりやすい人の特徴」として挙げられるように、根が真面目な人ほど抱え込みます。「しにたい」も同じです。死の引力へ真剣に向き合っている人ほど、意外と近くの人へ苦しみを話すことがありません。

人それぞれに事情はあると思いますが、ひとつの理由としては、「不安や恐怖があるから」です。

「しにたい」と伝えることの不安と恐怖

「笑われたら、どうしよう?」
「責められたら、どうしよう?」
「悩みを過小評価されたら、どうしよう?」
「……好きな人を困らせてしまったら、どうしよう?」

これが、「しにたい」を打ち明けられない人の、不安と恐怖です。

言葉は、思想は、感情は、良くも悪くも「感染」します。

家族や友人の愚痴を聞いただけで、どっと疲れた経験がある方は多いでしょう。「聞くだけで人助けになる」と言っても、そこには相当な体力が求められます。

「しにたい」を打ち明けない理由は、家族や友人を信用していない場合もありますが、そこそこ多いのが「相手の精神的な体力を奪いたくない。迷惑をかけたくない」ということ。

あくまで個人的な経験則ですが、メンタル疾患になるほどの落ち込みを経験した人は、多くが他者の顔色に敏感です。重い悩みをぶつけたとき、相手が困った顔をすることを、本人はよく見ているでしょう。

彼ら、彼女ら──そして、ぼく自身の不安と恐怖です。

「しにたい」と口にしてみたところで、フィクションの登場人物のごとき上手い解答を持っている人は多くありません。

「やったほうがいいこと」を知識として持っていたとしても、希死念慮を打ち明けた側は、それを実行するだけの体力を持っていないことがほとんど。当人にとっての「ソリューション」を提示するなら、パーソナライズされた綿密なロードマップを敷くほどの手間が必要でしょう。

ぼくは、「しにたい」と伝えた相手の、言葉に詰まった困り顔をよく覚えています。ひとりひとりの表情を。突如として脳へ重しを乗せられたような伏し目を。

※ちなみに、快活に笑い飛ばしてくれる方もいますが、本気で思い詰めている人にとって、すべての笑いは悪気がなくとも「嘲笑」として受け取られます。他人の元気な笑いがトリガーとなって、命を絶つ人もいます。ご注意ください。

真面目に考えてくれる人ほど、こちらの暗がりに引きずり込んでしまう。本来なら、ぼくの吐き出す汚泥の言葉に触れる必要などない、真に善良な人を困らせてしまう。

順当な話です。情報とコンテンツの海で溺れている現代人に、他人の死について深く考えている余裕などありません。解答を出すなど、もってのほかです。

客観的に見れば、ぼくの希死念慮が解消されているわけでもなく、ただ「悩む人が増えているだけ」とも捉えることができるでしょう。

……大切な人々の苦渋を見て以来、ぼくは「しにたい」と口にすることをやめました。

もちろん、社会的には推奨されることではありません。はけ口を失った希死念慮は、行動へ表れます。ぼくはそのうち、無言で世界から退出するでしょう。

ですが、「他者を困らせるくらいなら、しんだほうがマシだ」と思っているぼくにとって、大事な人々を死生観の迷宮へ連れ込むのは、許されざる罪なのです。

これが、家族や友人には言わず、メディアでは「しにたい」を言葉にしてしまう一因となります。

なぜ近くの人には言わず、SNSではつぶやいてしまうのか?

noteも含め、多くのSNSは不特定多数の人に見られる可能性があるメディアです。安易に言葉を吐き出すことが、どれくらいのバタフライエフェクトをもたらすのかを考えると、恐ろしくて仕方がありません。

しかし、どんなメディアでも、投稿ボタンを押すまでは1人きりの世界にいられます。「誰かが聞いてくれるかもしれない希望」と「目の前で反応をうかがわずに済む、仄暗い安心感」が出会ったとき、ぼくはついつい書いてしまうのです。

「■にたい」と。
※最近はSNSでのNGワード規制が厳しくなってきたため、だいたい伏せ字にします。

10個の病み垢で見てきた、「しにたい」の数々

コロナ禍の真っ最中、ぼくは旧Twitterでいわゆる「病み垢」を10個ほど持っていました。

病み垢の界隈は、10代の子が大半。
学校にも家にも逃げ場がなく、かといって多くの子は一人暮らしができるほどの自由もないのですから、ネットにたどりつくのは自然な話でしょう。

この界隈では、希死念慮のつぶやきや、OD報告、自傷画像といったものが当たり前のように出回っています。

僕はこの時期にいろんな子とメッセージで話しましたが、印象的な子はとてもたくさんいました。

──「しにたい」と毎日のように連投し、アカウントが凍結されがちだった中学3年生の子。

──DMのやり取り中、「父親に殴られた」と言い、ぼくが心配すると「だいじょうぶ。いつものことだから」と答えた中学1年生の子。

──飛び降りも経験したことがあり、常に「寝落ち通話」の相手を探さないと落ち着かなかった高校2年生の子。

──そして、フォロワーが100名を超えていたにもかかわらず、命を絶ち、ご家族がアカウントを閉鎖するまでにぼくを含めて2件しかコメントがつかなかった15歳の子。

ぼくは、彼ら彼女らの気持ちをたしかめられるテレパスではありません。ぼくが出会った人たちの多くは、ただ苦しんでいるだけで、病み垢を回しても傷が癒えることなどなかったのかもしれません。

それでも、この界隈がある程度の救いになっている人は、確実にいたと思います。ぼくもその一人でした。

「いくら連絡してもつながらない、NPOや行政のサービス」よりも、すぐに誰かとつながれる病み垢のほうが、よほど心に安寧をもたらしてくれました。

※念を押しておくと、こうしたサービスを批判するつもりはありません。むしろ、ぼくは「いのちの電話」や「生きづらびっと」などで相談を受ける人々のことを心配すらしています。介護をする人が倒れてしまうのと同じように、相談に対応する人自身が、死へ招かれてしまわないかどうかを。

今、ぼくは病み垢を卒業した「つもり」でいます。
しかし、ビジネス用のこうしたアカウントでも希死念慮を綴ってしまうということは、本当に卒業できているわけではないのでしょう。

ぼくは今でも、社会生活や死生観といったものがごった煮となった、ごくわずかな灯りしかない迷路を歩き続けています。

ここがどこなのか、ぼくにはわかりません。
世界の辺境か、あるいは現実から遠く離れた別の世界なのかもしれません。
なぜなら、社会はセンセーショナルな事件が絶えず起きつつも、常に楽しげに、あるいは明るく見えるからです。

ぼくにとって、社会や「普通の人」は、あまりにまぶしすぎるのです。

……カフカみたいなことを言ってしまいましたが、これが素直な気持ちです。

この文章を見て、なにかを感じてもらいたいとは思いません。前向きな願いを唱えるには、今のぼくは鬱屈としすぎています。

ですが、「そんなに悩んでいるのに、どうして話してくれないのか」と思う方は一定数いるのではないかなと思い、「しにたい」のハードルを言語化してみました。

あまりにセンシティブなセリフであるがゆえに、たった四音節の言葉へ、不安と恐怖が伴うのです。

精神的に病まれている人が近くにいらっしゃる方へ。
なにかの参考になれば、ぼくとしては幸せです。

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