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自分だけが泣いて終わった。少年サッカー最後の試合

28歳になったいま、いちばんの趣味はサッカー観戦だ。毎週末行われるJリーグや海外サッカーを観ることが自分にとっての最高の余暇時間になる。

こんなにもサッカーが好きになったのは、小学2年生で入団したサッカー少年団での日々が大きく影響している。

この4年間でサッカーに魅了され、サッカー好きとしての自分が確立されたことは間違いない。

ただ、サッカーを好きになった一方で

「楽しい」

という感覚でプレーしたかといえば、決してそうではなかった。

所属チームのスタイルは、いわゆる"超スパルタ指導"で、サッカー少年団にしてはかなり厳しかった。

コーチや監督がめちゃめちゃ怖くて、いつも大人の
顔色を伺いながらプレーしていた記憶がある。

認められたい一心でプレー

いまから16年前の2006年当時、現代よりはまだスパルタ指導が多かった。なかでも自分のチームは、市内で最も厳しかったと思う。

小学生にはなかなか珍しい、"走り込み" を日常的に行うチームだった。今でこそ、小学生に走り込みをさせる指導はあまり良しとはされていない。

ただ当時の自分のチームは、真夏でも30分間走を必ず実施していたほどだった。

「歯を食いしばった先にしか成功はないぞ!」

毎日そう言い聞かせられていたように思う。

そんな厳しい指導をしていた監督やコーチだったが、オンとオフをしっかりわけてくれる人たちだった。チーメイトでBBQやクリスマス会など、イベントでは一緒に遊んでくれた。

怖い存在だけれど、子供たちはみんな指導者のことが好きだったと思う。だからこそ、泣かされるほど厳しい指導にもみんな歯を食いしばって喰らい付いていた。

たまに褒められると全ての辛さが吹き飛ぶくらい、とても嬉しかったのを覚えている。


最後の年

6年生になり、自分は決して強くないチームの中では、中心的な存在になっていた。

そのため監督の要求もさらに厳しくなり、試合中に泣きながらプレーすることもあった。

できることなら試合や練習は雨で中止になってほしいと願うほど、プレッシャーを感じていた。

「プレーを楽しむ」

そのような感覚になったことは一度もない。厳しさを乗り越えて掴んだゴールや勝利が最高に嬉しくて、それを目標に試合に挑む日々。

とにかく6年生の1年間は何度も怒られ、本当につらかった記憶がある。

例年だと卒団間近の残り3ヶ月くらいからは、スパルタ指導が終わる。指導者たちは6年生に優しくなっているのをみてきた。

自分たちも卒団間近の1月になり
「俺たちもやっと優しくしてもらえる〜」

なんて思っていたが、なぜか自分達の代は最後の最後まで厳しい指導が続いた。3月後半の最後の大会まで。

最後の大会、初戦で自分達は明らかに格下の相手に負けてしまう。完全に気が緩んでいた。

6年生最後の大会で、他所のチームは最後の思い出つくりみたいな雰囲気だったが、自分達は今まで通りこの日もこっぴどく怒られた。

「最後の最後までこんなに怒られて終わるのかよ…」

チームにはそんな雰囲気が漂っていた。2試合目も負けてしまい、ついにこのメンバーでやる小学生で最後の試合を最悪の雰囲気で迎えてしまう。

監督から予想外のことば

小学生最後の相手は、奇しくも隣の小学校のチームだった。この相手には絶対に負けてはいけないと常々言われてきた。

なんせ相手のメンバーは、春から同じ中学に通い共に3年間を過ごすことになる。

ここで負けては舐められてしまう。そんな気持ちすらあった。偶然にもバチバチのダービーマッチが、6年生最後の試合となった。

監督から試合前に集められてミーティングが行われた。ここで監督は、予想外の指示をしてきた。

「みんなこの1年間本当によく頑張ってくれた。厳しい指導についてきてくれて、すごく成長したと思う。ついさっきまで厳しくしてきたけれど、次が君たちの小学生最後の試合だ。絶対に勝ってこい!負けるな!なんてもう言わないよ。みんなが悔いのないように、楽しんできてほしい。とにかく楽しんで、最後は笑って終わろう」

みんな拍子抜けした。そんな言葉をかけられたことがなかったからだ。

「俺たちが楽しんでいいのか……?」


そんな気持ちにさえなった。同時に肩の荷が降りたような表情をチームメイトたちがしていた。試合前に笑顔をみせるなんてはじめてのことだ。

自分はただただ困惑していた。むしろ、納得していなかった。

「隣のチームとのダービーマッチで楽しむなんかいってられない。これは絶対に勝たなきゃいけないんだ!」

1人そう思っていた。しかし、この試合も前半の早い時間に2失点してしまう。

みんなもう闘志がなかった。はじめて監督に優しい言葉をかけられて、楽しんでこいなんて言われて、溢れ出す闘争心がチームにはもうなかった。


「嫌だ、絶対に勝つんだ。みんないつも通り闘おうぜ!楽しむなんて口にするなよ……」


そう思っていたが、チームの雰囲気を感じてチームを鼓舞できなかった。

後半にまた2失点してしまう。サッカー経験者ならわかるかもしれないが、後半に0-4はもう負けがみえていた。

絶対に負けたくない相手に、小学生最後の試合で完敗なんて、受け入れられなかった。

なんとか自分の武器だったドリブルで相手ゴールに迫った。相手のメンバーは小さい頃から顔馴染みで、レベル感もわかっている。

ここまで攻められっぱなしだったが、後半にチャンスがきた。相手のディフェンダーを交わせばゴールは目の前だ。

「こいつなら抜ける!」

そう思った相手にスピードでドリブル突破を仕掛けたとき、衝撃が走った。

勝てると思った相手が全然抜けない。自慢のドリブルもあっけなくとられてしまった。

自分は背が小さく、卒業間近の3月になると成長期に差しかかった子には、単純に身体能力で勝てなくなっていた。

その現実をこのシーンで突きつけられた。

「もうこの時間から5点とって勝つなんてできない。ドリブルも全然通用しない。俺の少年サッカーが終わってしまう……」

そう思うと、試合中なのに涙がでてきた。

いつもは監督に怒られて泣いていたが、もっとつらい涙だった。

結果的に試合は、0-4で最大のライバルに負けた。

スパルタ指導に耐え抜いた小学生最後の試合は、最大のライバルに完敗で終わった。

試合後、コーチや監督は笑顔で迎えてくれた。チームメイトも表情も晴れ晴れしていた。厳しい指導をがんばって乗り越え、自分たちはついに卒団する。

自分の目には涙が溢れていた。でも、みんなの雰囲気を感じ、その涙をこぼさないようになんとかこらえた。

監督からの最後のことば

涙を必死に我慢して黙っていた自分に、監督が声をかけてきた。

みんなの輪から外れて、静かな場所で2人きりになる。

「お前は納得いってないんだろ?ごめんな、楽しんでこいなんて言ったばかりに。みんな肩の荷がおりちゃったな。お前が泣きながらもなんとか勝とうと必死に戦ってくれた姿、最高だったよ。最後までお前らしく、負けず嫌いが出ていた。そんなお前の姿勢が俺は好きだったな」

この言葉を聞いた瞬間、溢れ出す涙をこらえることができなかった。

「ドリブルもすっかり通用しなくなっちゃったなぁ(笑)中学生になったら体が大きな相手ばかりだぞ。きっとスピードはもう速い方ではなくなる。それでも、ドリブルと負けん気の強さはお前の武器だ。中学生になって、上手くなったら自慢しにこいよ!」

この言葉がその後のサッカー人生でも心に残っていた。

中学以降は、膝の大怪我で4度の手術を経験してしまう。その日々も本当につらく、サッカーを辞める理由はいくらでもあった。

それなのに中学、高校、社会人草サッカーと続けた。あの日、1人だけ泣いて最後まで楽しめなかったはずなのに。


9年ぶりにかつてのチームへ

大学3年の21歳のときに、小学生時代にお世話になったチームのコーチになった。

当時の監督からお誘いをいただいたことがきっかけだった。コーチというよりは、OBのお兄さん的な立場で、手伝いをしていた程度にすぎない。

「お前、昔にくらべたら随分と上手くなったな!(笑)」

恩師に久しぶりに褒められて、小学生時代に褒められたときと同じように、うれしい気持ちになった。

あのスパルタで厳しかったかつてのチームも、様変わりしていた。子供たちが笑顔でプレーしている。指導者の怒鳴り声などいっさい響かない。

「お前が卒団してから、俺たちもたくさん経験して勉強してきた。今だから思う、当時の行きすぎたスパルタ指導は間違っていたかもしれない。もっと良い指導をお前たちにしてあげたかった……」

反省した様子で、当時の監督が自分に言った。たしかにあのスパルタ指導が良いかと言われたら、きっと違う。

ただ、当時の指導者を憎んだり恨むことは一切なかった。

スパルタ指導を美談にしてはいけない。でも、当時の指導者を恨んだり憎んだりする選手は自分も含めて周りにも本当にひとりもいなかった。

それはきっと、チームになっていたから。

監督もコーチも、大事な大会に負けたときは一緒に涙を流すことがあった。紛れもなく、指導者もチームメイトだった。

なにが正解かはわからないけれど、あの厳しくてつらい日々が、自分のサッカーに対する気持ちを大きなものにしてくれたのは間違いない。


つらく厳しい日々があったからこそ、28歳になった今でも自分はサッカーが大好きだ。

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