見出し画像

「初めまして」のこと

初めまして。舞台芸術家の安本達也/Tatsuya Yasumotoと申します。
わたしは今は主に都内で「教える」ことを行いながら作品製作をしています。
このnoteは、わたしが「教える」中で考えたことや感じたこと、また日々の学びの中で見つけたことをシェアするためにつくってみました。

最初ということで、わたしがどんな人かをちゃんとお伝えしたいなあと思っています。
わたしの温度感によって文体があっちこっちして読みづらさを感じるかもしれませんが、ご容赦いただけると嬉しいです。


わたしの経歴について


生まれから大学へ



三重県伊賀市出身。伊賀市(上野市)立崇広中学、三重県立上野高等学校と公立なのに横並びという奇跡の立地(立地のみで進学を決めた怠け者です)を経て大阪芸術大学に進学。わたしの大学受験を担当してくださった先生は実はご近所さんで、それを知ってからはよく遊びに行っていました。
高校の時わたしは恋愛や部活、校外活動に勤しんでおり全く勉強をしていませんでしたので、その担当の先生からは
「お前が一番最後に(合格を)決めてくると思った」
と学年で一番最初に進学先が決まった時に言われました。留年確定のアブナイやつと思われていたんでしょう。当たり前ですねえ。なんせ理系に進んだのに物理や数学の授業では1時間たりと起きていなかったのですから(好きでしたけどね)。


せっかく入ったのに中退?狂言との出会い



大阪芸術大学に進学後は一年で中退を決意。シェークスピアに興味があったのでイギリスのRADA Royal Academy of Dramatic Artに進学したく、母親に中退したいと告げると
「頼むから日本の四年制大学は出てくれ。学費は出すから。」
と懇願され、しゃーなし在留を決意。とはいえやる気がなくなったらもうやる気はないので、T.T.T. Traditional Theater Trainingというのが京都芸術センターでやっているのをバイト先で見つけ
「おお?おもろそうやん?」
と勢いで申込み。そこで教えていらっしゃった茂山童司さん(現在は三世 茂山千之丞を襲名されています)に有志らと共にこれまた勢いで
「T.T.T.終わってからも教えてください!」
と不躾にも程があるお願いをしました。とても懐の深い方でいらっしゃるので、我々のお願いを快く受け入れてくださり、それから一年以上童司さんのお宅で狂言の稽古をつけていただくために京都に入り浸りの日々。
もちろん大学なんぞ行きゃしません。友だちに
「一回の代筆(出席を確認する紙にわたしの名前も書いて提出すること)ごとに1ℓのガソリンで」
手を打ってもらい(その1ℓは結局いつも違うアルコールに変わっていましたが)なんとか出席日数を確保しながら、当のわたしは京都の円山公園でソフトクリームを食べ昼寝をし、夕方ごろになると童司さん宅に赴き稽古をつけてもらうという奔放な日々を過ごしておりました。


大学卒業からNICへ



その後、無事学外公演・卒業公演とこなし目出度く卒業。
ほとんど大学に行っていなかったのに「優」をたくさんもらって
「気前ええなあ」
などと呑気に思っていました。

ちょうどその頃わたしはin→dependent theatre 2ndで公演があり、その千秋楽の日には大阪を引き払うことに決めていて、バラシ(片づけ)もそこそこに夜行バスでスーツケースひとつ引っ提げ引越ししました。
ちなみに翌日は大学の卒業式でしたが出席せず、代わりに友人がわたしの卒業証書を受け取るという珍事が発生しました。

さて。晴れて四年制大学を卒業したわたしは、イギリス進学まっしぐら。
とはいえ前述の通り高校はもちろん大学でも英語なんて一切勉強していなかったので、まずは大学進学レベルの英語を学ぶ必要がありました。
そこでNIC International College in Japanという学校に入学。新宿三丁目というオドロキの立地で毎朝晩、歌舞伎町をうろうろしながら必死にアカデミック英語に食らいついていました。
NICはネバダ・カリフォルニア大学国際教育機構の日本校なので、クラブ活動も複数ありました。その中の映像のクラブに参加し、番組づくりや映像編集についてもそこで学びました(納期前とかに机の下で寝るというヤツも経験しましたさ)。


留学、CSVPAヘ



なんとかNICを卒業し、今度はイギリスはケンブリッジにあるCSVPA Cambridge School of Visual & Performing Artsというアート系進学校に入学。日本の高等教育はイギリスの大学に進学するための必要年数に一年足りないので、そういった人たちがギャップイヤーを埋めるために利用する学校でした。わたしがいたのはDrama foundationで、イギリスのドラマスクールは倍率が非常に高く、CSVPAは日本の美術系予備校のようにも機能していたため、ドラマスクールに進学したい現地の若者も半数ほどいました。わたしは学歴的にはこの時点で学士はとっていたので本来であればfoundationを受ける必要もなく、修士に進むのが普通だったのですが、わたしはRADAに進学するのが目的だったので、RADAに直接行っても入れないだろうと考え、だったらRADAにassociateしているCSVPAに入り、そこから進学するというルートを狙っていました。


挫折



ま、そんなうまくいくはずもなく。
簡単にいえばどんなに必死こいても、舞台でしかもシェークスピアなんて古典はネイティブでも難しいのに、2年そこそこの英語力では到底箸にも棒にもかからず。RADA進学はもう無理だな〜って思っていたのですが、チューターの先生から
「君は身体が強いんだからフィジカルシアターにいけば?」
ということを言われまして、もうこの時点で絶望の淵にいたわたしは
「しゃーなしな?記念で受けたるわ」
となんの上から目線なのかわかりませんが、そんな感じでUniversity of Essex East15を受験。でも二次面接にも呼ばれなかったためもういろいろ諦めて、お金余ったし♪とイタリア旅行して帰国したら
「キャンセル待ちのリストに入ったけど、このままキャンセル出たら入学する?」
とびっくりなメールが届いておりまして。
「えー!!もうお金使っちまったぜー!!」
ってなりながら、それならばと再度の留学を決意。


East15卒業~CITA International Centre for Theatre Arts associate director就任



無事?キャンセルが出まして
「1ヶ月以内に支度しな!」
と、どこかのドーラの声により1ヶ月(3週間くらいだったかな?)でvisaの申請、進学や住む場所の手続きを済ませ、またまたスーツケースひとつ引っ提げイギリスのSouthend on SeaにあるEast15へ。
ケンブリッジとは随分町の趣が違いまあまあ不安になりましたが、そこで3年間のフィジカルシアターコースを無事に経て日本に帰国。
帰国後はご縁のあったJames Sutherlandが主催しているCITA International Centre for Theatre ArtsのAssociate directorに就任。6年ほど都内を拠点に国内外で公演や教育を行なっておりました。
その後はコロナ禍になりCITAを離れ長野に移住、現在はその場所も離れ流浪の民をしながらワークショップや作品制作を行なっております。


まとめ



語り出すと止まらないのが悪い癖で、結構長くなってしまいました。
細かく話すともっとたくさんになってしまうので、それはまた、有用な情報と絡められそうな時にお話しすることにします。

ここまでお読みくださってありがとうございます。
気になった時にふらっと読んでいただけるようなものを書いていけたらなと思っております。
これからもどうぞよろしくお願い致します。

この記事が参加している募集

#自己紹介

230,124件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?