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『タカシ 大丈夫な猫』(苅谷夏子・岩波書店)

これが岩波書店からの本だということで、まず驚いた。著者が、岩波書店に縁のある人だと後から気づき、それなりの納得はしたのだが、表紙がハチワレ猫のどアップだというのは、岩波らしくない。
 
二本足で走る、などと文字にしても、人間は毎日やってるよ、と言われるかもしれない。インパクトはない。だが、この主役タカシは、猫である。「出会わなければよかったのに。」ケイコさんは、事故に遭ったらしい子猫を拾う。獣医に連れて行く。右側の二本の足はもう使えない。生かすならば、切断。しかしそれで猫が生きていけるのか。安楽死も選択肢に入る。ケイコさんは、ただ拾っただけ。さあ、どうする。
 
そう。助けるのである。犬や猫が何匹かすでにいる。その中に、二本足の子猫が加わる。子猫は、驚異的な回復の上に、立ち上がることを覚える。やがて、走る。階段などは非常に苦労するにしても、登れるようになる。そうした、タカシの一つひとつの成長が、描かれていく。
 
タイトルにある「タカシ」だが、最初は違う名前をつけられていたそうだ。タイトルに付いているだけに、意外だった。どうなるのだろう、というドキドキ感と共に読むこととなった。その面白さは、本書からどうぞお読み戴きたい。
 
仲良しのりんちゃんとの、睦まじい描写には、目を潤ませるばかりだった。タカシは、いろいろなことができるようになってゆく。
 
ところで筆者は、この飼い主ではない。近所にこのような猫がいることを知り、感動して、物語として綴ることを願い出たのだそうである。以前から、確かにタカシを見かけはしていたらしい。が、何の違和感も覚えず、ただ猫がいる、としか感じていなかったそうである。二本足でどうやって立つのか、走るのか、それでも私たちは想像しづらいが、その姿が極めて当たり前のようにしか見えていなかった、ということなのだろう。
 
本書は子どもが読めるように仕立ててある。そもそも「猫」にすら「ねこ」とふりがなが振ってあるくらいだ。小学校上級生で十分困難なく読めるだろうと思われる。その子どもに対しては、大袈裟に描く必要はない。淡々と言葉を並べていくことが当たり前であることは、国語教材を知る私にはよく分かる。本書の文章は、そのまま国語の教科書になっていても、何の違和感もないだろうと思うのだ。
 
それにしても、文章が巧い。露骨に書きこまず、だが必要なものは全部伝わってくる。筆者がやたら感情を移入して綴らず、読む者の心をかき回して、感情を生み出すことをぐいぐいとやり続ける。上手すぎる。なんということのない言葉の文が続いていくのであるが、私の中に、時に苦しく、時に驚き、また時に激しい共感を覚えるような体験が、立て続けに与えられていくのを覚えた。そして、またここから生きていくタカシを、どこかあっさりと描いていくだけの終わりがけとなったとき、私の中の心が壊れた。
 
号泣したのである。嗚咽が止まらない――というか、声も実際出てしまった。どうしてだろう、自分でも分からない。心の底が、ぐしゃぐしゃに撫でられ、掴まれたのである。
 
著者が、ことばの教育について論じているような方だということは、紹介からも分かったが、大村はまさんに教えられた人なのだ、と知って、この辺りの事情を察したような気がした。国語教育の世界で大村はまさんを避けて通ることはできない。国語を教えるということは、道徳を教えることでもあり、生き方を教えるということでもある。戦後の子どもたちの教育現場に、大村先生の提言は、大きな光となっていたはずである。どうすれば文章が書けるのか。文章を書くことで、自分というものが見出されるのか。特に国語教育の輝きを作文に与えたのだとすると、その弟子としての本書の著者が、そのありったけの才覚を以て物語を綴ったとしても、おかしくはないはずである。
 
その文章に、私は当たってしまった。だから、心が鷲づかみにされたのだろう、と私は後から分析した。それと、このタイトルである。「大丈夫な猫」とは、激しく不安定な日本語ではないだろうか。まるで左側の脚だけで跳ぶように歩くタカシを象徴しているようでもあるが、この不自然さが、また私の心を揺さぶっていたのではないか、と後から気づかされた。
 
なお、大村はまさんについては、その家庭におけるキリスト教的背景の強さがよく知られている。彼女自身の信仰については、特に取り沙汰されるような言及がないようにも言われている。ただ、自身は「本当の」クリスチャンだ、という自負を有していたような記述を私は今回調べて見出した。弟の晴雄氏は、キリスト教に関する研究者としても知られている。こうした事情については非常に興味が湧く。詳しくご存じの方がいらしたら、ご教示戴ければ幸いである。

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