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『凜として生きる』(平塚敬一・教文館)

キリスト者として、何かしら重荷を負うというものがあるという。どうしてだか分からないが、そのことのために心血を注ぐしかない、という思いで生きるのだ。生きることが、考えることが、すべてそれのために営まれている、という気持ちになる。
 
著者にとり、「教育」がその重荷であるのだろう。しかも、「キリスト教教育」である。キリスト教を信じさせる教育だという意味ではない。教育する側が、キリスト教精神を以て教えてこその人間教育だという観点が強い。だから、キリスト教主義の学校の在り方が、一番の関心なのだ。もちろん、その結果世の中がどのようであってほしいか、そうしたことも視野にあることは間違いないのだが、まずは教育の現場である。副題は「キリスト教教育に魅せられて」と付いているから、正にそういうことである。多くのキリスト教主義学校で責任を担ってきた人生が、どうしてもそれを告げなければならないのである。
 
それを、まとまった論文という形で世に呈するのではなく、短い読み物の中に凝縮した思いを伝えようとするのが持ち味のようだ。最終章の「講演」は、講演録であるために、まとまった一定の長さになっているが、それまでの「エッセイ」と「聖書一口レッスン」は、2頁単位の短い文章ばかりである。どういう場面に掲載されていたのかは存じ上げぬが、その都度記された時事的な話題が並んでいる。エッセイのほうは聖書箇所に制約されないが、レッスンのほうは、一節の聖句を掲げ、時にそれは社会事象と結び合わされる。社会と教育とに対する真摯な眼差しは、80歳以上という年齢を少しも感じさせない、鋭い光を発していると言える。
 収められたこれらの短文は、いずれも2019年以降のものである。編集された2022年末のとを考えると、その執筆期間の途中で、新型コロナウィルス感染症が世界に広まり、いわゆるコロナ禍の時期に入っている。そのことに触れないわけではないが、事の本質は疫病そのものではない。教育である。そして、その教育をよくない方向に導く政治や社会である。エッセイの方は、時事的なものもあれば、自身の体験や読書などから示されたことなど、自由に書かれている。一定量の文章で何かを書くというのは、作文のためにも実によい訓練になるが、そのお手本にもなるものだと言える。しかし、形式だけでなく、そのスピリットを感じ取るべきだし、読者自身の中には見出せなかった新たな視点をそこから得るといい。そんな捉え方があるのか、そうしたからくりがあったのか、いろいろ教えられることがある。文章が短いたら、ほんのひとつのポイントでもいい、そのエッセイから、与えられたものの見方というものを、メモして重ねていくと、自分の考えというものが鍛えられていくのではないだろうか。
 
聖書の一口レッスンのほうは、やはりキリスト者のほうが読みやすいであろう。聖書の言葉が告げていたことが、この世の中のこととどう連関するか、楽しみなところである。著者の関心は、もちろん教育と、その教育に大きな影響を与える政治や社会に向けられることが多いが、必ずしもそればかりではない。聖書そのものからのメッセージも豊かにある。極めて個人的に示されたようなことでも、自分を通して神が語ってくださったことを、なんでも文章にして誰かに伝えようという熱意が感じられる。その気持ちは、私にはよく分かる。私のこうした文章も、いわば皆、そういうことなのだ。どうも、著者ほどに短い文章の中できっちりまとめあげるということは苦手なのだが、そのスピリットはびんびん伝わってくる。
 
最後の講演は、四つここに収められている。これだけは、2012年と2016年という、少しだけ以前のものも集められているが、これらキリスト教学校教育への課題は、教育制度の改変と学校の村立という点で、まことに傾聴に値する、力のこもったものであるといえよう。キリスト教精神で創立した学校。だが、少子化と政治介入などのために、近年岐路に立たされている。経営が成り立たない虞が出て来たのだ。では、経営のために何をすべきか。もうキリスト教主義を優先しないほうがよい、というコンサルタントの指摘もある。決して無視すべきではない。教育がすべてキリスト者であった時代もあったが、いまは半分いたら良い方だろうか。必ずしも、キリスト教主義が世の中で嫌われているわけではない。信徒でなくても、躾のためにぜひ、という家庭もあるし、国際教育としても買われていることがある。ニーズが薄れてしまっているわけではない。しかし、経営内部の者として、しかもキリスト教の精神を第一と考える著者にとって、歯痒いような、悔しいような思いを自力で改善するには、年齢や時間のこともある。なんとか伝えたい。受け継いでほしい。そんな思いが、絶え間なく流れてくる。そんな講演である。
 
その精神は、キリスト教の価値観を押しつけることへはつながらない。キリスト者が自らの信仰を世界の中心に置いて行動する、そういうことは間違っているのだ。それでいて、世の価値観とは違うものがある、ということも提示していく。市場原理に流される必要はないわけである。そして、キリスト教主義の学校の動きは、一般のキリスト教会の動きと連動するに違いない。教会全体の課題でもあるのだ。
 
奥様を天に送った2022年、本書はつくられた。奥様はこの本を見ることはなかったが、この本のエッセンスを支え創ってきたのは、きっと奥様なのだろう。それは、「キリスト教学校が好きだとしか言いようがない」著者を、支えてきたということである。随所から、教えられ、気づかされることの多い一冊である。読み甲斐のある本から、たくさんの刺激を、私たちは受けることができるはずである。そして、次世代の子どもたちへ、それを伝えるのは、もはや著者ではなく、読者たる私たちであるに違いない。

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