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かもしれない

私は、京都に住んでいるときには、自動車運転免許証の必要を感じなかった。そもそも、限られた石油を自分の欲望のために消費する自動車というものに、拒否反応を懐いていたのである。しかし、福岡に戻るという道が示されたとき、運転できるようにはなっておきたいと思うようになった。子どもたちを育てるためですあるが、いまはそのことを細かくお伝えする必要はない。
 
京都の自動車学校に入った。市の中心部に住んでいたので、街の中の自動車学校であった。そこで免許が取れたら、どこででも運転できる、というキャッチコピーがあった。確かに、二車線あるうちのひとつが平気で駐車車両で占められているような京都の中心部は、いま思ってもきつい路上であるに違いなかった。
 
いつも教わってきた。「角から人が飛び出すかもしれない」「対向車が急に曲がってくるかもしれない」というように、「かもしれない」の想定を常にしなさい、と。「まさかそんなことが」とは思うかもしれないが、事故はその「まさか」が現実になったものである。
 
教官が模範運転をすることがあった。それの感想を求められた。私は、「安全を創ってきたように思えました」と答えた。ただ運転しているのではない。一つひとつをチェックする。予測する。それは、安全というものを自ら創っていた、と気づいたのだ。
 
安全を創る。自動車学校は、ただ技術を教えるところではなく、大切なスピリットを学んだと思った。というと、いかにも優等生のようだが、それを忘れて事故を起こしたことも何度かあるのだから、私はどこまでも浅はかである。
 
それはそれとして、人間は、間違いを犯すもの。自分もそうだが、出会う対象が皆そうである。だから、人が飛び出さないか、自転車がふらつかないか、「まさか」と思われるような情況をも、可能性があるものと予測して、心構えをもっておく。
 
自分は間違うはずがない。そういう思い込みが、実はたいへん怖い。過信しているからでもあるが、自分の間違いにすら、気づかなくなってしまうからだ。それは、気づこうとしていないから、気づかない、と言ってもよい。
 
実はこのことは、日々見ていることである。塾には、成績別にクラスが設定されている。同じ水準の授業ができるため、効率的に指導できるということになる。成績が芳しくないクラスでは、テストをすると、なんとか解答を書き入れた生徒は、仕事をやったというような顔で、ぼうっとしていることが多い。それに対して、地域上位校と呼ばれる高校を狙うクラスの生徒は、テスト終了まで、殆ど顔を上げない。もう解き終わっているに違いないのだが、念入りに検討を繰り返している。普通にいう「見直し」「確かめ」をする、ということだ。
 
この姿勢そのものが、結果の成績を示唆している、と言ってよい。解答欄を埋めれば義務を果たした、という程度の考え方ではないからこそ、高得点へとつながるのだ。私もそのタイプだったから、私の言葉で言うと、「これでもか」と思うほどに見直しを時間いっぱいするべきだ、ということになる。
 
また、このときの心理としては、「まだ何かミスをしているかもしれない」という気持ちがある。自分としては、解いた。できるだけの注意をしてきたつもりだ。しかし、人間はミスをする。自分でできたと思うその背後に、気づいていないという根本的なエラーが起こっているかもしれない。もしかすると、間違いがあるかもしれない。そういうものはないだろうか。そんな気持ちで、しらみつぶしに点検するのだ。
 
自分にも、ミスがありうる。これを前提として、自分の仕事の点検をする。必ずミスが見つかる、とは保証できないにしても、高い確率でそれに気づくだろう。それに対して、「まあ、ミスはないだろう。大丈夫だ」と構えているよりは、点数は上がることになると言える。
 
「自分の仕事にも、間違いがあるかもしれない」と構えておくのと、「自分が間違えていないだろう」と思い込んでいるのとでは、結果は異なってくる。私にとりその象徴的なケースは、入社試験のときだった。とにかく中学高校の入試問題をまるまるひとつずつ解けという。特別に難しい問題を出す学校ではないが、中堅どころといった辺りを出す。私は解いたが、何か気持ち悪かった。何か、勘違いをしているような気がしてならなかった。喩えのように聞こえるかもしれないが、確かに「何かにおう」のである。それで、二度三度と見ているうちに、この編が怪しい、と煮詰まってゆく。そして、見つかった。私はミスを修正できた。
 
日常生活で、あまりにこれに徹すると、ちょっと息苦しい。だが、事ある毎に、顧みることにしている。「何か自分にミスがあるのではないか」「勘違いをしていないか」など、自らに問いかけるのだ。それはまた、自分が自分に問いかけているというよりも、次第に、自分の外から「おまえは間違っていないか」と問いかけているような気がしてくる。確かにそうだと思う。私は、私の外から、問いかけられている。呼ばれ、問われている。
 
それでも、間違いを多々犯している。大きな失敗もしでかしてきた。失敗に懲りて、これを戒めとしよう、と自分に誓ってみても、やっぱりまた忘れてしまう。同じ失敗を繰り返してしまう。つくづく阿呆やなあと自分に呆れつつ、今日もまた「ミスをしているかもしれない」と自分を振り返り、常時慎重にできないだろうか、と模索している。
 
そもそも聖書が教えていることからすると、人間はいきなり失敗からその歴史が始まったとも言える。アダムによりもたらされた「罪」という問題は、人間に必須である。他人の罪ではない。自分の罪である。自分の罪に気づく人こそ、イエス・キリストの救いというものを知ることができるのである。
 
自分の罪というものの明確な意識がない者が聖書について話をしても、そこに救いはない。聖書にある救いばかりをいくら話しても、罪ということについて全く話さない人がいる。自分の罪と向き合ったことがないからに違いない。だとすれば、当然そこに救いはないのである。
 
そしてむしろ、そこには傲慢というものが忍び込み、支配しにかかるであろう。ダビデの祈りにもあったが、自分には、自分で気づいていない罪があるかもしれない、否、あるのだ、という前提で、神の前に出る。そこへ、絶大な救いの恵みが吹いてくるのである。

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